2019年10月18日金曜日

最終兵器の目 神功皇后2

 『日本書紀』慶長版は
夏四月壬寅朔甲辰北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側於是皇后勾針爲鈎取粒爲餌抽取裳系爲緡登河中石上而投鈎祈之曰朕西欲求財國若有成事者河魚飲鈎因以舉竿乃獲細鱗魚時皇后曰希見物也故時人号其處曰梅豆羅國今謂松浦訛焉是以其國女人毎當四月上旬以鈎投河中捕年魚於今不絶唯男夫雖鈎以不能獲魚既而皇后則識神教有驗更祭祀神祗躬欲西征爰定神田而佃之時引儺河水欲潤神田掘溝及于迹驚罔大磐塞之不得穿溝皇后召武內宿祢捧剱鏡令禱祈神祗而求通溝則當時雷電霹靂蹴裂其磐令通水故時人号其溝曰裂田溝也
皇后還詣橿日浦解髮臨海曰吾被神祗之教頼皇祖之靈浮渉滄海躬欲西征是以令頭滌海水若有驗者髮自分爲兩即入海洗之髮自分也皇后便結分髮而爲髻因以謂群臣曰夫興師動衆國之大事安危成敗必在於斯今有所征伐以事付群臣若事不成者罪有於群臣是甚傷鳥吾婦女之加以不肖然暫假男貌強起雄略上蒙神祗之靈下藉群臣之助振兵甲而度嶮浪整艫舩以求財土若事就者群臣共有功事不就者獨有罪既有此意其共議之群臣皆曰皇后爲天下計所以安宗廟社稷旦罪不及于臣下頓首奉詔
【夏四月の朔が壬寅の甲辰の日に、北方の火の前国の松浦縣に着いて、玉嶋里の小河の辺で食事をした。ここで、皇后は、針を曲げて鈎を作って、粒(?)を取って餌にして、裳(羽織)のいとを抜き取って釣り糸にして、河の中程の石の上に登って、鈎を投げて祈って「私は、西方に、財の国を求めようと思う。もし事を成すことができれば、河の魚よ鈎を飲め」と言った。それで竿を挙げると、あゆが獲れた。その時に皇后は、「珍しい物を見た」と言った。それで、当時の人が、梅豆邏の国とそこを名付けた。今、松浦というのは訛ったものだ。ここで、その国の女が、四月の上旬になると、鈎を河の中程に投げて、あゆを捕ることは、今に至るまで続いている。ただ男だけで釣っても魚を取ることが出来ない。すでに皇后は、神の教えた験があることを言い触らして、さらに神祇を祭礼して、皇后自ら西方を征とうと思った。それで神田を定めて直営の田を造った。その時に儺の河の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝を掘った。迹驚の岡に及ぶと、大磐が塞いで、溝を通すことが出来なかった。皇后は、武内宿禰を呼んで、剱と鏡を捧げて神祇に祈祷させて、溝を通せるよう祈った。その時、急に雷が鳴り響き、稲妻がはしること急に激しい雷があって(雷電:周易「剛柔分動而明雷電合而章」)その磐に落ちて裂き、水を通した。それで、当時の人は、その溝を裂田の溝となづけた。皇后は、橿日の浦に還って 髪を解いて海に臨んで「私は、神祇の教え受けて、皇祖の霊に頼んで、滄海を船で渡って、みずから西方を征とうとしている。それで、頭を海水ですすいだ。もし神の許しがあるなら、髮が自然に2つに分れろ」と言った。それで海に髪を入れてすすいだら、髮が自然に分れた。皇后は、髮を結い分けて、もとどりにした。それで、群臣に「興軍して兵を動かすことは、国の大事業だ。簡単に成し遂げるか、危険にあい負けるかはこの戦で決まる。これから征伐する場所がある。この大事を役人みなに任せる。もし成功しなければ、罪はみなに降りかかるだろう。これは、とても痛ましい事だ。私は女なうえに、愚かだ。しかし少しの間、男の顔になって、強く勇敢な計略をたてる。上は神祇の霊を纏い、下はみなの助けで、軍隊を奮い立たせて急峻な浪を渡って、船をまとめ上げて財の土地を求めよう。もしなしとげたなら、みなに、論功がある。成功しなければ私一人に罰を与えなさい。すでに覚悟は決めた。さあ共に戦略を練ろう」と言った。みなは、口をそろえて、「皇后が、天下の為に、宗廟社稷を平穏にするように計画する。また罪は臣下に及ばないという。敬意を払って詔勅を承けた」といった。】とあり、標準陰暦と合致する。
この、松浦の命名説話は倭奴国の説話と思われ、「梅豆邏」は「松浦」より『三国志』の「至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」の「末盧國」に近く、しかも、普段は釣りではなくて潜って魚を取っていることからよく符合する。
そして、火前国と火国に含まれないで倭奴国王が巡回しているのだからその領地で邪馬台国に属し、以前は狗奴国が九州全てを領有した「三身国」・「日国」だったことが解り、海人の倭が糟屋郡の猪野に侵入して勢力を拡張したことを示し、『後漢書』には邪馬台国30余国を記述していないので、卑弥呼即位で纏まったことで松浦も領地になったことを示し、魏朝時代末の状態を『三国志』は記述していると考えるべきだ。
そして、新羅征伐の記述は、いかにも国の存亡の危機、侵略者に対抗するような言い回しで、倭の新羅侵攻は何度も行っていて、しかも、やはり西方と方角が違って、矛盾しているが、私は既に何度も述べたように、南朝鮮は辰国と呼ばれた畿内日本の友好国で、韓地が漢や魏に侵略を受けていた時の説話が妥当で、新羅という国名は日本での地域名に過ぎなかった。
新羅という国名が現れるのは『宋書』の列傳第五十七の倭国に「都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と出現するのが最初で韓地の初出も『後漢書』の東夷列傳第七十五の「三韓」が最初で「弁辰與辰韓雜居城郭衣服皆同言語風俗有異其人形皆長大美髮衣服絜清而刑法嚴峻其國近倭」と言語服装が倭に近いと倭の影響を受け、後漢時代に独立した国である。
辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語故或名之為秦韓 」と辰が文の途中で秦に変化してしまい、秦語と中国語なのに中国語でないと記述していて矛盾しており、これは、秦が辰で倭に近いということ、前漢の時代は三韓の地域が辰国領で中国が北部朝鮮に郡を置いて、南の韓地に侵略してきたので、鶴賀に基地がある政権が国の存亡をかけて漢と戦って、侵略を食い止めたのであり、偽書と言われるが契丹古伝に山や海を利用して打ち勝ったと記述されている。
すなわち、この新羅侵攻は神国日本が漢との戦いに出かける話と、倭国の新羅侵攻の話と4世紀に葛城王家が倭国と連合して新羅を侵略した話とが合体した説話である。
漢との戦いの後、韓地に自治をさせて、前漢末の紀元前27年の垂仁三年に「新羅王子天日槍來歸焉將來物」と新羅の皇子が人質としてやってきたのであり、それ以前は辰国で東鯷国に含まれて中国史書に出現せず合致する。

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