『日本書紀』慶長版は
「稚足彥天皇大足彥忍代別天皇第四子也母后曰八坂入姫命八坂入彥皇子之女也大足彥天皇四十六年立爲太子年二十四六十年冬十一月大足彥天皇崩元年春正月甲申朔戊子皇太子即位是年也太歲辛未二年冬十一月癸酉朔壬午葬大足彥天皇於倭國之山邊道上陵尊皇后曰皇太后三年春正月癸酉朔己卯以武內宿祢爲大臣也初天皇與武內宿祢同日生之故有異寵焉
四年春二月丙寅朔詔之曰我先皇大足彥天皇聰明神武膺籙受圖洽天順人撥賊反正德侔覆燾道協造化是以普天率土莫不王臣稟氣懷靈何非得處今朕嗣踐寶祚夙夜兢惕然黎元蠢爾不悛野心是國郡無君長縣邑無首渠者焉自今以後國郡立長縣邑置首即取當國之幹了者任其國郡之首長是爲中區之蕃屏也五年秋九月令諸國以國郡立造長縣邑置稻置並賜楯矛以爲表則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面是以百姓安居天下無事焉四十八年春三月庚辰朔立甥足仲彥爲皇太子六十年夏六月己巳朔己卯天皇崩時年一百七歲」
【稚足彦天皇は、大足彦忍代別天皇の第四子だ。母の皇后を八坂入姫命という。八坂入彦皇子の娘だ。大足彦天皇の四十六年に、太子に立った。年齢は二十四歳だった。六十年の冬十一月に、大足彦天皇が崩じた。元年の春正月の朔が甲申の戊子の日に、皇太子は即位した。この年は太歳辛未だった。二年の冬十一月の朔が癸酉の壬午の日に、大足彦天皇を倭国の山邊の道の上の陵に葬った。皇后を尊んで皇太后といった。三年の春正月の朔が癸酉の己卯の日に、武内宿禰を大臣にした。初め、天皇と武内宿禰とが同じ日に生れたので、特に優遇した。四年の春二月の丙寅の朔に、「私の先皇の大足彦天皇は、理解が速くて賢く人知を越えてたけだけしく、家を継承し、記録を受け取った。天神の風習は広くゆきわたり、人々はそれに従って、賊をはねかえし、正道に復帰した。徳に従い、道を照らし、力をあわせて教え導いた。それで、天から地の果てまで(率土:詩經‧小雅‧北山「率土之濱莫非王臣」)行き渡り臣は王に従い身の引き締まる気持ちで神霊を心にいだくことで、得られない者が無かった。今、私は皇位の位を嗣いだ。朝早くから夜まで気が引き締まってのんびりできない。ところが、人民は虫がたかるように集まって騒ぎ、悪事を遠慮なく実行する。これは、国郡に王や長がいなくて、縣邑に頭が無いからだ。これから、国郡に長を立て、縣邑に頭を置こう。すなわち、強健で才知に秀でた者を採用して担当の国郡の首長に任命しなさい。それで、任地の防備に当たらせよう」と詔勅した。五年の秋九月に、諸國に命じて、国郡に造長を立て、縣邑に稻置を置いた。それとともに盾矛を与えてしるしとした。それで山河を境界に国縣を分け、千戸・百戸の単位で、邑里を定めた。それで東西を日縱として、南北を日横とした。山の陽が当たる斜面を影面という。山の日陰の面を背面という。これで、百姓は心やすらかに住め、天下も平穏無事だった。四十八年の春三月の庚辰の朔に、甥の足仲彦を皇太子に立てた。六十年の夏六月の朔が己巳の己卯の日に、天皇が崩じた。この時の年齢は百七歳だった】とあり、四年二月丙寅朔は1月30日、四十八年三月庚辰朔は2月30日で他は標準陰暦と合致する。
丹波道主王の宮から尾張大海媛の宮に政権が遷り、前王朝が皇位や記録を継承して、自分も皇位を受け継いだと、前政権の時に王朝交代したと述べ、尾張王朝が前政権から始まった。
そして、武内宿禰は前政権の時に誕生し、この王朝に当てはめた豊国王朝の天皇の皇太子に武内宿禰が就き、仁徳天皇五十年まで生きているが290歳などと言うのは当然考えられず、これは、神功皇后摂政五十一年と仲哀天皇九年と景行天皇五一年と仁徳天皇五十年が同じ時期の説話で、成務天皇三年、景行天皇三年も武内宿禰が大国王の皇太子と同じ日に生まれ、応神天皇九年頃に父王が死亡したことを意味していると思われる。
すなわち、葛城王朝の王は大足彦・若足彦・中足彦・大雀は同時期の王で、その後に譽田が位置する順で挿入したと考えることが出来る。
そして、国境を山や川で区切っているということは、『三国志』の国境間距離が不彌國邪馬台国間に無かったり、伊都国・奴国間や伊都国・不彌國間が5Km程度だったりと山巾などに近い国境間距離を証明し、しるしの楯矛も「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭」と合致し、国縣を「阡陌以定」とこれも『三国志』の對海國→千餘戸、一大國→-三千許家、末盧國→四千餘戸、伊都國→千餘戸、不彌國→千餘家と国の戸数は千から数千戸と邪馬台国や奴国などの大国を除くと良く合致し、下部組織の邑が百単位の戸数となるのは当然だ。
この天皇は、「景行天皇五一年立太子」を46年立太子と、24歳で立太子なのに、9数歳と記述の107歳と全く計算が合わないにも関わらず堂々と記述しているが、景行天皇も53歳即位の113歳が106歳と計算が合わず、私の言う、立太子は倭国の王家の記述で天皇に無関係で成務天皇の立太子が48年としたのは、景行天皇4年で46歳と応神天皇の立太子を加えた年数と成務天皇48年と混同した結果だ。
おそらく天皇の年齢は宮の築造年数の可能性が高く、高千穂の宮が『古事記』に「穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」と580歳と同じ用法だ。
従って、私はこの立太子を卑弥呼のことと考え、201年24歳で卑弥呼が即位し、その時男弟王が21歳で248年死亡しその後251年まで男弟王が引き継いだがうまくいかなかったので、台与が『三国志』「宗女壹與年十三爲王國」と13歳で即位したのが前政権の即位3年で、子たちが倭国を継承し、『筑後國風土記逸文』の「令筑紫君等之祖甕依姬為祝祭之」と甕依媛説話で卑弥呼は独身で子がいないから台与のことで、子孫が後に筑紫君と言われた。
これらのことから、景行12年の熊襲遠征は「神夏磯媛」が卑弥呼なら212年の出来事ということになり、景行3年生まれの武内宿禰と卑弥呼が同い年ではないことがわかり、『古事記』に「娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と若帯日子の子も若国の奴氣王で若国王も継承された。
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