2019年10月16日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第九 神功皇后1

  『日本書紀』は慶長版
氣長足姫尊稚日本根子彥大日日天皇之曾孫氣長宿祢王之女也母曰葛城髙顙媛足仲彥天皇二年立爲皇后幼而聰明叡智貌容壯麗父王異焉九年春二月足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮時皇后傷天皇不從神教而早崩以爲知所崇之神欲求財寶國是以命群臣及百寮以解罪改過更造齋宮於小山田邑三月壬申朔皇后選吉日入齋宮親爲神主則命武內宿祢令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者因以千繒髙繒置琴頭尾而請曰先日教天皇者誰神也願欲知其名逮于七日七夜乃荅曰神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神名撞賢木嚴之御?()天疎向津媛命焉亦問之除是神有神乎荅曰幡荻穗出吾也於尾田吾田節之淡郡所居之有也問亦有耶荅曰於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代神有之也問亦有耶荅曰有無之不知焉於是審神者曰今不荅而更後有言乎則對曰於日向國橘小門之水底所底而水葉稚之出居神名表筒男中筒男底筒男神之有也問亦有耶荅曰有無之不知焉遂不言旦有神矣時得神語隨教而祭然後遣吉備臣祖鴨別令擊熊襲國未經浹辰而自服焉且荷持田村有羽白熊鷲者其爲人強健亦身有翼能飛以髙翔是以不從皇命毎略盜人民戊子皇后欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮時飄風忽起御笠墮風故時人号其處曰御笠也辛卯至層増岐野即舉兵擊羽白熊鷲而滅之謂左右曰取得熊鷲我心則安故号其處曰安也丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油津媛兄夏羽興軍而迎來然聞其妹被誅而逃之
【気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇の曽孫で、気長宿禰王の娘だ。母は葛城高顙媛という。足仲彦天皇の二年に、皇后となった。幼いころからかしこく深く道理を知り、顔だちは立派で美しい。父王は、特にえこひいきした。九年の春二月に、足仲彦天皇は、筑紫の橿日宮で崩じた。その時に皇后は、天皇が神の教えに従わないまま早死にしたことを傷んで、祟った神の思し召しを知って宝の国を求めようとした。それで、群臣および役人に命じて、前王の罪を知り過を改めて、さらに齋宮を小山田邑に造った。三月の壬申の朔に、皇后は、吉日を選んで、齋宮に入って、みずから神主となって。それで武内宿禰に命じて琴をひかせた。中臣烏賊津使主を呼び出して、皇后のお告げを解釈する審神者にした。それで、多くの長い幣の束を琴の左右に敷いて「さきの日に天皇に教えたのはどの神か。できたらその名を教えてほしい」と願い求めた。七日七夜に経って、「神風と形容する伊勢国の百傳と形容する度逢縣の拆鈴の五十鈴の宮にいる神で、は撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命だ」と答えた。亦、「この神を除いて他に神はいるのか」と問いかけた。「萩色の旗の間から出てきた私は、尾田の吾田節の淡の郡にいる神である」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「天事代虚事代の玉籤入彦嚴之事代神がいる」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「他に有るか無いか知らない」と答えた。それで、審神者が「今、答えず後でお告げをすることが有るか」と言った。それで、「日向国の橘小門の水底にいて、水中葉の芽が出たように生き生きとしている神で、名は表筒男・中筒男・底筒男の神がいる」と答えた。「ほかにいますか」と問いかけた。「いるかいないか知らない」と答えた。とうとう他の神を言わなかった。その時に神の言葉を得て、教どうりに祭った。その後で、吉備臣の祖で鴨別を派遣して、熊襲国を撃った。まだ干支が一回りもしないうちに、自分から服従した。また荷持田村に、羽白熊鷲という者がいる。その人柄は、強靭で強力だ。また身に翼があるように、身軽に山へ駆けあがる。それで、皇命に従わない。いつも人民を略奪する。戊子の日に、皇后は、熊鷲を撃とうと思って、橿日宮から松峽の宮に遷った。その時に、飄風が急に起こって、笠が吹き飛んだ。それで、当時の人は、そこを御笠となづけた。辛卯の日に、層増岐野に着いて、挙兵して羽白熊鷲を撃ち滅ぼした。近習に「熊鷲を滅ぼすことが出来た。私の心は安泰だ」と言った。それで、そこを安となづけた。丙申の日に、移って山門縣に着いて、それで土蜘蛛田油津媛を誅殺した。その時に田油津媛の兄の夏羽が、挙兵して迎え撃ってきた。しかしその妹が誅殺されたことを聞いて逃げた。】とあり、標準陰暦と合致する。
息長氏は『古事記』に「近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の出身で続けて、「此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者次山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母泥(丹波)能阿治佐波毗賣生子迦迩來()雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命」と近江・山代・丹波の地域に姻戚をもつ王家で敦賀に皇后が滞在した理由がここにあり、元々敦賀の宮に住んでいた可能性が高く、すなわち、近江の物部王朝が崩壊し、葛城王家を頼ったのが息長王家なのだろう。
地名説話の「安」も水穂真若王が尾張天皇から任命された地が近江の安国で、その説話を流用したもので、熊襲征伐は倭奴国の女王の説話で、『三国志』に「卑彌呼事鬼道能惑衆」と直接神のお告げを指示した女王と合致し、糟屋郡の猪野皇大神宮のそばに山田があり、斎宮跡が残っている。
また、「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と南に敵国の狗奴國があって、その最前線の砦が三笠山で、敵の本拠地が筑紫野市の夜須でその南に侏儒で「侏儒國在其南人長三四尺」と身長70cm程度の人々の国が柳川市近辺にあり、景行十八年年の巡行で大牟田市周辺の御木、八女市の水沼縣、浮羽を回ったが、その北側である。
ただし、この熊襲征伐はおそらく台与の即位前の説話で『三国志』の「立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」で、西暦251年のことと考えられ、「千繒髙繒」も『三国志』の「賜汝紺地句文錦三匹細班華( ケイ)五張白絹五十匹」と、たくさんの絹を得ている。

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