2019年10月25日金曜日

最終兵器の目 神功皇后5

 『日本書紀』慶長版は
三月丙申朔庚子命武內宿祢和珥臣祖武振熊卒數萬衆令擊忍熊王爰武內宿祢等選精兵從山背出之至菟道以屯河北忍熊王出營欲戰時有熊之凝者爲忍熊王軍之先鋒則欲勸己衆因以髙唱之歌曰烏智箇多能阿邏乙麻菟麼邏摩菟麼邏珥和多利喩祇氐菟區喩弥珥末利椰塢多具陪宇摩比等破于摩譬苫奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴池伊裝阿波那和例波多摩岐波屢于池能阿層餓波邏濃知波異佐誤阿例椰伊裝阿波那和例波時武內宿祢令三軍悉令椎結因以号令曰各儲弦藏于髮中且佩木刀既而舉皇后之命誘忍熊王曰吾勿貧天下唯懷幼王從君王者也豈有距戰耶願共絶弦捨兵與連和焉然則君王登天業以安席髙枕專制萬機則顯令軍中悉斷弦解刀投於河水忍熊王信其誘言悉令軍衆解兵投河水而断弦爰武內宿祢令三軍出儲弦更張以佩真刀度河進之忍熊王知被欺謂倉見別五十狹茅宿祢曰吾既被欺今無儲兵豈可得戰乎曳兵稍退武內宿祢出精兵而追之適遇于逢坂以破故号其處曰逢坂也軍衆走之及于狹狹浪栗林而多斬於是血流溢栗林故惡是事至于今其栗林之菓不進御所也忍熊王逃無所入則喚五十狹茅宿祢而歌之曰伊裝阿藝伊佐智湏區祢多摩枳波屢于知能阿曾餓勾夫菟智能伊多氐於破孺破珥倍廼利能介豆岐齊奈則共沈瀬田濟而死之于時武內宿祢歌之曰阿布弥能彌齊多能和多利珥伽豆區苫利梅珥志彌曳泥麼異枳廼倍呂之茂於是探其屍而不得也然後數日之出於菟道阿武內宿祢亦歌曰阿布瀰能瀰齊多能和多利珥介豆區苫利多那伽瀰湏疑氐于泥珥等邏倍菟冬十月癸亥朔甲子群臣尊皇后曰皇太后是年也太歲辛巳則爲攝政元年二年冬十一月丁亥朔甲午葬天皇於河內國長野陵
【三月の朔が丙申の庚子の日に、武内の宿禰と和珥臣の祖の武の振熊に命じて数万の軍隊を率いて、忍熊の王を撃たせた。ここで武内の宿禰等は、精兵を選んで山背から出発した。菟道に着いて河の北に駐屯した。忍熊の王は、陣営を出て戦おうとした。その時に熊之凝という者がいた。対忍熊の王の軍の先鋒となった。熊之凝は、葛野城の首の祖だ。それで自軍を進軍させようと、高らかに唱えて歌い()その時に武内の宿禰の、三軍の命令で全軍が髷を上げた。それで号令して「みんな予備の弓弦を髮の中に隠し、また木刀を佩腰にさせ」といった。それで、皇后の命令を引用して、忍熊の王を誘って、「私たちは天下をむさぼらない。ただ幼い王を抱いて、君主に従うだけだ。どうして反逆して戦おうか。出来たら共に弦を切って武器を捨てて、ともに一つになろう。それで、君主は天業に就いて、皇位に就いて安らかに枕を高くして天皇の政務に専心してもらおう」といった。それでよく見えるように軍中に命じて、全員、弦を切り、刀を解いて、河の中に投げ入れた。忍熊の王は、その誘の言葉を真に受けて、全軍に命じて、兵器を解いて河の中に投いれて、弦を切らせた。ここで武内の宿禰は、三軍に命じて、予備の弦を出して、張り、真剣を腰に差して。河を渡って進んだ。忍熊の王は、騙されたことを知って、倉見別と五十狹茅の宿禰に「私は騙された。いま予備の武器は無い。どうやって戦おう」といって、兵士を退かせた。武内の宿禰は精兵を出撃させて追った。丁度、逢坂で追いついて撃破した。それで、そこを逢坂と名付けた。軍衆は逃げ、狹狹浪の栗林で多数を斬った。そこで、血が流れて栗林に溢れた。それでこの事を嫌がって、今になるまで、その栗林の菓実を御所に出さない。忍熊の王は、逃るところが無く、それで五十狹茅の宿禰を喚んで、歌い()それで一緒に瀬田の渡し場で身投げた。その時、武内の宿禰は、歌って()ここで、その死体を探したが見つからず数日後、菟道の河に浮かんだ。武内宿禰は、また歌って()死体を菟道で引き上げた。冬十月の朔が癸亥の甲子の日に、役人は、皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳は辛巳だった。それで攝政元年とした。二年の冬十一月の朔が丁亥の甲午の日に、天皇を河内の国の長野の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
和珥臣は孝昭天皇六八年「天足彦國押人命此和珥臣等始祖也」、開化天皇六年「次妃和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」、 崇神天皇十年 「復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺向山背撃埴安彦」、垂仁天皇二五年「詔阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日五大夫」、神功皇后摂政元年「和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」、応神天皇二年「妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、仁徳天皇六五年「飛騨國・・・遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之」、雄略天皇元年「次有春日和珥臣深目女曰童女君生春日大娘皇女」、仁賢天皇元年「春日大娘皇女大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也」、「次和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲春日山田皇女(一本云和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女更名赤見皇女文雖稍異其實一也)」、安閑天皇元年「春日山田皇女爲皇后」、欽明天皇二年「次春日日抓臣女曰糠子生春日山田皇女與橘麻呂皇子」と記述されている。
すなわち、武内宿禰と和珥臣の説話は武内宿禰や大彦が神武天皇で忍熊王や長髄彦が埴安彦で武振熊や弟磯城が彦國葺を想定した説話で、彦國葺・姥津命には姓が無く、東鯷国の王家の一人と考えられ、さらに、日觸使主・武振熊と姓を持った臣下として記述されるが、これは葛城王朝にとっての臣下で、この説話は尾張朝廷の内紛と考えられ、死んだ天皇の陵墓が河内にあり、難波に朝廷が有って、その内紛に葛城王朝が神功皇后実際は弟媛について大中姫の皇太子側と戦ったことを裏付けている。
その結果、武振熊は難波根子と皇后弟媛の朝廷の中の役職で呼ぶが、「都難波是謂髙津宮」と難波が都で弟媛の子が首都の王で天皇、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母の家系で、和珥臣の賜姓記事が無く雄略紀から記述されているので、葛城王朝の時に賜姓されているようで、それ以前の天皇家の王族ということが解り、平群氏の雄略天皇、巨勢氏の仁賢天皇、物部氏の安閑天皇には正統な皇族の和珥臣の血統が必要だったようだ。

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