2019年10月7日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第八 仲哀天皇1

 『日本書紀』慶長版は
足仲彥天皇日本武尊第二子也母皇后曰兩道入姫命活目入彥五十狹茅天皇之女也天皇容姿端正身長十尺稚足彥天皇四十八年立爲太子稚足彥天皇無男故立爲嗣六十年天皇崩明年秋九月壬辰朔丁酉葬于倭國狹城盾列陵元年春正月庚寅朔庚子太子即天皇位秋九月丙戌朔尊母皇后曰皇太后冬十一月乙酉朔詔群臣曰朕未逮于弱冠而父王既崩之乃神靈化白鳥上天仰望之情一日勿息是以冀獲白鳥養之於陵域之池因以覩其鳥欲慰顧情則令諸國俾貢白鳥閏十一月乙卯朔戊午越國貢白鳥四隻於是送鳥使人宿菟道河邊時蘆髮蒲見別王視其白鳥而問之曰何處將去白鳥也越人荅曰天皇戀父王而將養狎故貢之則蒲見別王謂越人曰雖白鳥而燒之則爲黑鳥仍強之奪白鳥而將去爰越人參赴之請焉天皇於是惡蒲見別王无禮於先王乃遣兵卒而誅矣蒲見別王則天皇之異母弟也時人曰父是天也兄亦君也其慢天違君何得兔誅耶是年也太歲壬申
【足仲彦天皇は、日本武尊の第二子だ。母の皇后を兩道入姫命という。活目入彦五十狹茅天皇の娘だ。天皇は、姿・形や動作などが端正できちんとしていた。身長は十尺あった。稚足彦天皇の四十八年に太子に立った。稚足彦天皇は男子が無く、それで皇太子を立てて後継とした。六十年に、天皇が崩じた。翌年の秋九月の朔が壬辰の丁酉の日に、倭国の狹城の盾列の陵に葬った。元年の春正月の朔が庚寅の庚子の日に、太子は、天皇に即位した。秋九月の丙戌の朔に、母の皇后を尊んで皇太后といった。冬十一月の乙酉の朔に、群臣に「私は、二十歳に届かないうちに、父の王が既に崩じていた。それで父の霊魂は、白鳥となって天に上った。あおぎのぞむ気持ちは一日として忘れなかった。それで、できたなら白鳥を捕まえて、陵域の池に養いたい。それで、その鳥を見ながら、思いめぐらす気持ちを慰めたい」と詔勅した。それで諸国に命じて、白鳥を献上させた。閏十一月の朔が乙卯の戊午の日に、越國が、白鳥四羽を献上した。その鳥を持って来た使者が、菟道河の辺に宿を取っていた。そのときに、蘆髮蒲見別王が、その白鳥を見て、「どこに持っていく白鳥だ」と問うと、越の人が「天皇が、父王を慕って、飼い馴らしたいというので献上します」と答えた。それで蒲見別王は、越の人に「白鳥といっても、焼いてしまえば黒鳥になる」といった。それで強引に白鳥を奪って、持ち去った。そこで越の人が、駆けつけて参上して報告した。天皇は、それで蒲見別王が、先王への無礼に怒って、派兵して誅殺した。蒲見別王は、天皇の異母弟だ。その当時の人は「父は天子だ。兄も王だ。その天子を侮り王にそむけば、どうして誅殺を免れることが出来るのだろうか」と言った。この年は、太歳壬申だ。】とあり、元年十一月乙酉朔は10月30日で11月は小の月、10月が小の月なら合い、他は標準陰暦と合致する。
『古事記』に「大國之淵之女弟苅羽田刀弁生御子石衝毗賣命亦名布多遅能伊理毗賣命」と足仲彦は大国の活目邑の主と大国の娘の弟苅羽田刀弁との子の布多遅能伊理毗賣と倭武との子、もちろん襲名で何代も経過しているが、足仲彦もやはり大国に移住した葛城氏の子孫である。
足仲彦は倭武死亡時の景行40年が20歳とすると景行51年立太子で31歳、69年後に100歳のとき即位、成務48年立太子が31なら43歳即位、52歳死亡で、倭武死亡は成務天皇の時、ここでも景行・成務は同時に王位にあったことを示して、どちらにしても立太子の時期は無関係で同時並行の宮の住人だったことを頭に置かなければならない。
これは、元々『日本書紀』も天皇の璽をもつ宮を中心に記述した紀伝体の史書で、それに、何人かの王を記述し、系図も仮想天皇にまとめ上げた史書に宮の記録を落とし込んで、史書を記述した王朝の王名を付加したものだから、王が前後したり、同じ人物が複数の王の時に記述されるのである。
また、身長十尺は唐の大尺が現在の曲尺29.63 cmだが身長3mの人間は考えられず、高句麗・高麗尺でもなく新井の唱える26.8cmの古韓尺説でもなく、戦国から漢代の23から24cmでもない、もっと小さい周尺でおそらく、20cmより短いもので無ければ、この天皇は化け物になってしまい、周朝からの交流がよくわかる。

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