2019年10月9日水曜日

最終兵器の目 仲哀天皇2

  『日本書紀』慶長版は
二年春正月甲寅朔甲子立氣長足姫尊爲皇后先是娶叔父彥人大兄之女大中姫爲妃生麛坂皇子忍熊皇子次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛生譽屋別皇子二月癸未朔戊子幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮即月定淡路屯倉三月癸丑朔丁卯天皇巡狩南國於是留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之至紀伊國而居于德勒津宮是時熊襲叛之不朝貢天皇於是將討熊襲國則自德勒津發之浮海而幸穴門即日使遣角鹿勅皇后曰便從其津發之逢於穴門夏六月辛巳朔庚寅天皇泊于豊浦津且皇后從角鹿發而行之到渟田門食於舩上時海鯽魚多聚舩
傍皇后以酒灑鯽魚鯽魚即醉而浮之時海人多獲其魚而歡曰聖王所賞之魚焉故其處之魚至于六月常傾浮如醉其是之縁也秋七月辛亥朔乙卯皇后泊豊浦津是日皇后得如意珠於海中九月興宮室于穴門而居之是謂穴門豊浦宮
【二年の春正月の朔が甲寅の甲子の日に、氣長足姫尊を皇后に立てた。これより前に、叔父の彦人大兄のが娘の大中姫を娶って妃とした。麛坂皇子と忍熊皇子を生んだ。次に來熊田の造の祖の大酒主の娘の弟媛を娶って、譽屋別皇子を生んだ。二月の朔が癸未の戊子の日に、角鹿に行幸し、それで行宮を興して腰をおちつけていた。これを笥飯の宮という。その月に、淡路の屯倉を定めた。三月の朔が癸丑の丁卯の日に、天皇は、南国を巡回した。ここに、皇后および役人を留めて、駕に従う二・三人の高官と官僚数百人で、簡単な視察に出かけた。紀伊の国について、徳勒津の宮に腰を落ち着けた。この時に、熊襲が、約束を破って朝貢しなかった。天皇は、熊襲の国を討とうとした。それで徳勒津を出発して、船で穴門に行幸した。その日に、使者を角鹿に派遣して、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で逢おう」と詔勅した。夏六月の朔が辛巳の庚寅の日に、天皇は、豊浦の津に停泊した。また、皇后は、角鹿から出港して、渟田の門に着き、船上で食事をした。その時に、海の魚がたくさん船のそばに集った。皇后は、酒を海の魚に注いだ。海の魚は、そのため酔って浮かんだ。その時に、海人は、たくさんその魚を獲ることが出来て喜んで、「聖王から贈られた魚だ」と言った。それで、そこの魚が、六月になると、いつも酔ったように横向き浮ぶのはこれが由来だ。秋七月の朔が辛亥の乙卯の日に、皇后は、豊浦の津に停泊した。この日に、皇后は、如意の珠を黄海で獲た。九月に、宮室を穴門に建てて腰を落ち着けた。これを穴門の豊浦の宮という。】とあり、二月癸未朔は1月30日で1月が小の月なら合致し、その他は標準陰暦と合致する。
『古事記』は「大江王之女大中津比賣命生御子香坂王忍熊王」と兄王の意味ではなく音が重要なようで、同じく『古事記』に「之女名針間之伊那毗能大郎女・・・伊那毗能大郎女之弟伊那毗能若郎女生御子真若王次日子人之大兄王又娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣生御子大枝王」、『日本書紀』は播磨王の娘の子の大兄王としているが姫の名前と『古事記』が大江王とすることと、妃の名前が大中津比賣で大中日子王に近いので、大国と「なか国」の王の姫の可能性があり、娘婿が足仲彦と「なか国」を統治する王とよく合う。
さらに、大中姫は「皇后日葉酢媛命生・・・第三曰大中姫命」と垂仁天皇の姫だが、垂仁天皇も37年から景行・成務朝と重なり大足・若足と同年代の人物で、この大中姫の可能性もある。
すなわち、仲哀天皇も2王以上の人物が記述されている可能性が高く、角鹿に行幸してどうして首都を南国と言い、本隊をわざわざ外地に置いて首都方面を巡行して紀伊に行くのは理に適わず、方向性として、角鹿より西に都を持ち、南国は瀬戸内方面で近江→大和→紀伊などの国々が南国で全軍で移動できない遠慮した、どちらかというと、貢献や挨拶の旅に感じる。
そして、対熊襲の戦いの前線基地が穴門で、やはり、京都郡への攻撃と符合し、景行天皇十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔羣卿曰於南方烟氣多起」と周芳を出発した先遣部隊に追いついた記述と考えられる。

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