『日本書紀』慶長版は
「五十二年夏五月甲辰朔丁未皇后播磨太郎姫薨秋七月癸卯朔己酉立八坂入媛命爲皇后
五十三年秋八月丁卯朔天皇詔群卿曰朕顧愛子何日止乎冀欲巡狩小碓王所平之國是月乗輿幸伊勢轉入東海冬十月至上總國從海路渡淡水門是時聞覺賀鳥之聲欲見其鳥形尋而出海中仍得白蛤於是膳臣遠祖名磐鹿六鴈以蒲爲手繦白蛤爲膾而進之故美六鴈臣之功而賜膳大伴部十二月從東國還之居伊勢也是謂綺宮五十四年秋九月辛卯朔己酉自伊勢還於倭居纏向宮
五十五年春二月戊子朔壬辰以彥狹嶋王拜東山道十五國都督是豊城命之孫也然到春日穴咋邑臥病而薨之是時東國百姓悲其王不至竊盜王尸葬於上野國五十六年秋八月詔御諸別王曰汝父彥狹嶋王不得向任所而早薨故汝專領東國是以御諸別王承天皇命旦欲成父業則行治之早得善政時蝦夷騷動即舉兵而擊焉時蝦夷首帥足振邊大羽振邊遠津闇男邊等叩頭而來之頓首受罪盡獻其地因以免降者而誅不服是以東久之無事焉由是其子孫於今有東國五十七年秋九月造坂手池即竹蒔其堤上冬十月令諸國興田部屯倉五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歲是謂髙穴穗宮六十年冬十一月乙酉朔辛卯天皇崩於髙穴穗宮時年一百六歲」
【五十二年の夏五月の朔が甲辰の丁未の日に、皇后の播磨太郎姫が薨じた。秋七月の朔が癸卯の己酉の日に、八坂入媛命を皇后に立てた。五十三年の秋八月の丁卯の朔に、天皇は、群卿に「私が愛した子を顧みる思いはいつの日に止むのだろうか。小碓王が平定した国をどうしても巡回したい」と詔勅した。この月に、輿に乗って、伊勢を行幸して、東海に移った。冬十月に、上総国に、海路で淡水門を渡って着いた。この時に、鷹の鳴き声が聞こえた。その鳥の姿を見ようと思って、探し求めて海に出て途中の浜でオオハマグリが獲れた。そこに、膳臣の遠祖で、名は磐鹿六鴈が、ガマの葉に通して、オオハマグリをなますにして食べた。それで、六鴈臣の功績を褒めて、膳大伴部を与えた。十二月に、東国から還って、伊勢にいた。これを綺(かむはた)宮という。五十四年の秋九月の朔が辛卯の己酉の日に、伊勢から倭に還って纏向の宮にいた。五十五年の春二月の朔が戊子の壬辰の日に、彦狭嶋の王を、東山道の十五国の都督を授けた。これは豊城命の孫だ。それで春日の穴咋の邑に着いて、病に臥して薨じた。この時に、東国の百姓が、その王の到着しないことを悲んで、人知れず、王のなきがらを盜んで、上野国に葬った。五十六年の秋八月に、御諸別王に「おまえの父の彦狹嶋王は、任地に向うことが出来ずに早々と薨じた。それで、おまえの思うがまゝに東国をおさめるなさい」と詔勅した。それで、御諸別王は、天皇の命をうけ、ひとまず父の任務を行おうとした。それで任地に行って治めて、早々と善政を行った。その時に蝦夷が騒動を起こした。それで挙兵して討った。その時に蝦夷の将軍の足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊達が、頭を地につけて土下座をして罪を受け入れ、全ての領地を献上した。それで、降伏した者は許し従わない者は誅殺した。これで、東方は長く何事もない。これで、その子孫は、今も東国にいる。五十七年の秋九月に、坂手の池を造った。すなわち竹をその堤防の上に植た。冬十月に、諸国に田部屯倉を興す命令を出した。五十八年の春二月の朔が辛丑の辛亥の日に、近江国に行幸して、志賀にいること三年で、これを高穴穗宮という。六十年の冬十一月の朔が乙酉の辛卯の日に、天皇が高穴穗宮で崩じた。その時、年齢は一百六歳だった。】とあり、五十四年九月辛卯朔は9月2日で8月は小の月なので大の月なら1日で、五十五年二月戊子朔は閏月があり計算では2月30日で翌月は閏2月で1月が閏月の可能性があり、近い年代で合致するのはここだけで、その他は標準陰暦と合致する。
皇后の交代は宮の交代で、髙穴穗宮が八坂入媛の宮ということになるが、6年のタイムラグがあり、播磨太郎姫は尾張王朝の皇后ではなかったので、八坂入媛の宮に政権が遷ったか纏向の政権が崩壊したということで伊勢の綺宮は伊勢遺跡の宮でそこから志賀の高穴穗宮に移ったのだろう。
景行天皇の義父の丹波主王は『古事記』に「娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の皇子で「朝庭別王者(三川之穂別之祖)此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者(三野國之本巣國造長幡部連之祖)」と兄弟が三河の穂別王・近江の安王美濃の本巣国造後には三野国造の祖と記述し尾張近辺の王となっている。
そして、本牟智和氣と「率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」のように遊んだのも墨俣、八坂入媛を娶ったのも美濃、『古事記』に「大中津日子命者・・・尾張國之三野別・・・落別王者・・・三川之衣君之祖」と子に尾張・美濃・三河の王がいる。
そして、『舊事本紀』には「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と弟彦の父親の倭得玉彦が近江王と伊賀王の娘を妃にして、伊賀臣の祖大彦の孫で近江王の娘婿宇斯王の娘婿でもある垂仁天皇とかなり濃密な姻戚である。
さらに『舊事本紀』では景行天皇の子たちの領地が吉備や讃岐以西なのに対し、倭武の領地は「兩道入姬皇女為妃生・・・稚武王近江速部君祖宮道君祖・・・穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生・・・次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖」と伊賀・尾張・三河と尾張近辺の王の祖で、大伊賀彦の子孫の系図と重なり、都が稚武王の近江に移り、伊賀彦は弟彦の可能性がある。
そして、穂積氏と同系の近江朝の大臣の物部膽咋宿禰は「三川穂國造美巳止真妹伊佐姫爲妾」と三河の姫を娶り、弟は「弟物部片堅石連公駿河國造等祖弟物部印岐美連公志紀縣主遠江國造久努真佐夜直等祖」と倭武の征服地の駿河や遠江を得、大臣ということはそれまで近江の天皇だったことを意味し、物部分王朝は破綻した。
これによって、倭武が伊吹山で死んだ意味が解り、纏向・伊賀・尾張・美濃の王家の倭武が近江の王朝と戦って、戦死したということで、伊勢から出発した倭武は物部倭武だ。
彦狹嶋王が崇神朝で既に活目尊と夢見で争って「豐城命令治東國」と東国を与えられたはずなのに、その孫が都督として再度与えられているということは、本来この記述が夢見説話の可能性が高く、倭武で記述したようにいくつかの王朝の皇子が時代を超えて記述されていて、『三國志』の魏書•武帝紀に「建安十八年春正月進軍濡須口攻破權江西營獲權都督公孫陽」と213年に都督の初出があり、おそらくそれ以降、218年・244年・275年・301年の日干支が2月1日に戊子である。
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