2023年8月30日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安康天皇前期2

  『日本書紀』は雄略朝が神話から安康朝まで記述した。國常立が雄略朝の祖神と記述する。雄略朝の国という概念が既にある人物が始祖神で、それ以前に初めて国を造った神がいるはずだ。そして、國常立の後、神が生まれる。天照大神より以前に生まれた神が、雄略朝の始祖神たちと思われる。天照大神が最高神なのだから。

日本には神代文字を使った古史古伝がある。しかし、その内容は、火を「か」と読んだり、天を「そら」と読んだりしなければならない神話がある。日本語は「ほ」や「あま」と読まなければならないはずである。さらに、天も中国文献を読んでから、輸入した概念で、天子から訓読みで使ったと思われる。勿論、中国でも、天は空ではなく、水のあるところである。古史古伝は、漢字を知ったうえで、その地域では漢字を知らないから、その地域で使う文字を使ったに過ぎない。漢字が日本中に行き届いたのがいつごろかわからない。しかし、それまでは、神代文字を使った後代の神話が創られた。例えば、7世紀に古史古伝が創られれば、6世紀まで、天照大神より前に記述されることになる。

だから、『古事記』の神の先頭は御中主という神らしくない神から始まる。『舊事本紀』は天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊と狭霧國、月國という、既に国がある状態の神が先頭に記述される。国の最初は「岐」、「洲」で、王は「ひと」のと()で、最初はおそらく「め()」が王である。古史古伝は神話であることを前提に、前後関係を考えなければならない。系図も縦の系図か横の系図か解りにくく、前後が逆転していることも考えられる。なぜなら、日本人は襲名するため、初代の関係者か末代の関係者か何代目か解らないからである。『日本書紀』も百年以上、一代20年として6・7代襲名が続いた名がある。卑弥呼が天照大神と時代という錯誤を主張する人物も存在する。しかし、天照大神は少なくとも前7世紀以前、卑弥呼は3世紀の人物である。その人物の資料は、卑弥呼の次代の人物の神話と考えるべきだろう。卑弥呼は神話の人物でなく、記録の中の人物である。私の母や祖母が天照大神と主張するのと同じことを主張している。

中国の神話の『山海經』には神農氏が記述されないが、『史記』には記述される。それは、漢民族の神が神農氏で、それ以前の中国の神の西王母や黄帝を祀る民族と取って替わったからである。神農は周本紀に「武王追思先聖王乃褒封神農之」と記述される。父の文王が神農から褒美をもらい、すなわち、周皇帝の神が神農と思われる。中国は天子が皇帝なので、天が神、天は水がある場所である。『山經』「南山經之首曰䧿山其首曰招搖之山臨於西海之上」と最初に記述される。䧿山の水が西海に流れ込む、西王母が住む場所である。そして、東方父は『海經』「海外南經」の「六合之閒四海之照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太神靈所生・・・唯聖人能通其道」である。天文を司り、四季がある、神霊を生む場所で神でもある聖人が住む場所である。『山海經』は神話を書いたのだから、最初に始祖神を書くのは当然である。

神代文字を使った古史古伝はそのような神話のひとつだ。履中期に「諸國置國史」と各国に史書を書かせ、少なくとも「四方志」と4国は史書を提出した。その中に神代文字の史書があったのだろう。その史書は編年がない神話、4世紀までの神話である。4世紀の人物が天照大神の前に記述される。

2023年8月28日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安康天皇前期1

  安康天皇は安康元年十二月己巳朔「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と木蓮子だ。しかし、木蓮子は石上廣髙宮天皇で、その父の布都久留と考えられる。布都久留は「大長谷朝御世為大連」と記述されるが、大連になったのは白髪が太子になった478年だ。すなわち、初代木蓮子の布都久留・穴穂が、女王国王長田大郎女の夫になった。目弱王の後ろ盾が圓大臣なのだから、圓は女王の義兄、穴穂は大日下麥入の甥に当たる。当然、穴穂の名前は、伊勢遺跡のある、野洲の穴穂で生まれたからだろう。倭國造祖の娘の子なのだから、倭國造祖は野洲王の祖、野洲近辺の皇子だ。

『古事記』は伊耶本和気以降、大臣の系譜を記述している。崩御年を記述されているのが直系の継承者である。御真木入日子の「戊寅年十二月」、若帯日子の「乙卯年三月十五日」と記述され、以降、幾日まで記述される。幾日まで表記されたが、班固が記述した『史記』の「記秦始皇本紀後」以前にはこの表記は使われていない。すなわち、紀元後92年頃以降に使われた。また、『後漢書』の59年の永平二年冬十月の「令月(二月)元日」は、この頃、朔日は晦日と共用されたので、元日とされたと考えられる。一月朔日が一月晦、翌日が二月元日、実際は一月二日なのだろうか。そして、『宋書卷八』、本紀第八の465年の明帝永光元年に「十一月二十九日夜也」と記述され、これが中国史書の初出だ。『三國史記』も西暦32年の儒理尼師今九年「至八月十五日」が初出で、その後、250年頃の沾解尼師今が多用している。しかし、基本は朔の日干支を記述してからなので、その日がいつか特定できる。

しかし、『古事記』は朔が記述されず、60年以上間隔が開くと特定できない。若帯日子の「乙卯年三月十五日」は宋朝が始まる頃から、中国に関係する人物が日本で使用したと考えられる。すなわち、息長帯日売が新羅遠征し、曾都毘古が朝鮮に滞在した。それまで、墓誌には御真木入日子の「戊寅年十二月」と、日干支が解らず、月までしか記述できなかった。特定の宮の住人しか朔の日干支を知らなかったことが解る。そして、息長帯日売たちは、幾日という日にちの数え方を知り、墓誌に記述した。『日本書紀』にも、薬師と薬草刈りをしたときに、幾日と記述している。中国人や朝鮮人の記録を使用したからと思われる。

それでも、天文を司る人物が居ない大臣家の宮殿には、日干支の記録が無いので、年干支で特定するほか無かったと思われる。それで、宮殿の年数では60年以上続くので、家主の死亡年で『古事記』の紀伝体の年特定をしたと思われる。家主の死亡日なら、家主は20歳以上で継ぎ、それから60年以上生きることは、ほとんど無い。だから、墓誌の死亡年で、編年は特定できる。

従って、『古事記』は若倭根子日子大毘ゝ以前が神話で、前後関係は疑わなければならない。また、大長谷若建の中にも神話が混ざっている。日付の無い記述は神話と同じで、前後関係を疑わなければならない。中国の漢人が神話を書けば、神農氏が一番初め、ある氏族の天照大神が先頭の神話を借りてきて、ある氏族が史書を書く。天照大神以前に、その氏族の神話が記述される。記述者の神が一番先頭なのが、史書の神話である。おそらく、縄文神話は女神が先頭だったと思われる。私は「このは」(子の母)+「な」()のような気がする。木葉比等の母、「鹿屋野比賣」は市鹿文の鹿文と後代の神である。そして、『古事記』の先頭は御中主、仲国王だ。

 

2023年8月25日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇2

天皇と衣通郎姫の恋愛が記述されているが、衣通郎姫は娘の輕大郎女ではないと思われる。「皇后母弟」と記述され、衣通郎姫の姉妹で娘が皇后になる人物は存在しない。木梨輕太子との恋愛を「不得罪」としている。ところが、穴穂は自分の姉の長田大郎女を妃にして、不得罪とは言わない。おそらくは、穴穂は長田大郎女に婿入りしたと考えられる。また、長田大郎女が穴穂の妃になった時、目弱は4歳で、長田大郎女は20歳代である。従って、穴穂の妃の長田大郎女は2代目の長田()郎女と考えられる。そのため、平群氏が記述した『日本書紀』は、穴穂の観点では、皇后の2代目長田()郎女の母が初代長田大郎女と記述したと思われる。大日下も20代で、義弟の皇太子の木梨輕太子も2代目婿で20歳代だ。輕大娘も2代目と考えられ、木梨輕は、おそらく、輕大娘の婿と考えられる。

そして、432年初代圓大臣が薨じた。そして、434年「物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と二つの朝廷に分裂した。一方が神の朝廷女国で、女国王は輕大郎女女王、大前大臣である。もう一方が、扶桑国朝廷大日下麥入大連天皇である。初代麥入は2代目圓の大前の兄、子の2代目麥入は大前の娘の長田大郎女の婿である。だから、大前は娘婿の木梨輕皇子を守るのは当然の事である。2代目圓の娘の荑媛の婿が小前の父の3代目圓の市邊之忍齒である。黒比賣の太子と兄蟻臣の娘はセット、蟻臣が水齒別の可能性が高く、荑媛が都夫良郎女の可能性が高い。

434年、廿四年夏六月に輕大郎女が女王国王になったと思われ、大前が大臣になったようだ。そして、453年、四十二年春正月乙亥朔戊子に3代目麥入大日下天皇大連が崩じた。初代は、最初、即位できずに、遠飛鳥の王の宿祢に過ぎず、2代目大日下になって麥入大連天皇に即位できた。そして、454年に、大前と434年に伊豫に逃れた木梨輕の子が穴穂に敗れた。そして、大前の兄弟の2代目大前の弟の穴穂が、安康元年十二月己巳朔に「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と即位した。木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」なので、大前の孫なのだろう。

2023年8月23日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇

  反正天皇崩は410年、草香幡梭皇后の後ろ盾の夫の伊莒弗大連天皇が崩じた。皇位継承者の麥入宿祢は五十琴彦の家系の孫娘の全能媛を妃にした。すなわち、伊勢刑部君の家系の女国王の娘の迦具漏比賣と思われる。男浅津間若子宿祢は、迦具漏比賣の娘の忍坂大中津比賣に婿入りして、大前連と呼ばれたようだ。そして、初代麥入を継いだのが、伊莒弗の孫か曾孫と思われる大日下で、忍坂大中津比賣の娘の長田大郎女を妃にした。大日下の子がまだ幼かったのだから、434年に20歳になったと思われる。それでも、19年の在位と長く、目弱王が若すぎるので、2代目の大日下王がいたかもしれない。

伊莒弗死後、忍坂大中津比賣と草香幡梭皇后が権力闘争した。それで、おそらく、大日下が即位するまで、男浅津間若子宿祢を後ろ盾にした忍坂大中津比賣が権力を持った。草香幡梭皇后は遠飛鳥宮の麥入を後ろ盾にしたと思われる。412年に忍坂大中津比賣が実権を握り、允恭二年二月丙申朔己酉に「忍坂大中姫爲皇后」とおそらく女国王を兼ねた。すなわち、大連天皇不在で、伊耶本和気圓大臣が432年まで政務を遂行したと思われる。

この混乱が、曾都毘古たちの(神武)東征の結果である。東征の結果、葛木氏、日向氏、吉備上道臣の権力闘争に、神の朝廷も物部朝廷も混乱を極めたと思われる。葛木氏も本家の平群氏、紀氏との対立、分家の波多氏と対立したと思われる。そして、同一氏族の内部対立に乗じて日向氏に権力が遷ったのだろう。

414年「醫至自新羅則令治天皇病」と男浅津間若子は病弱だった。そして、415年「誤失己姓或故認高氏」と男浅津間若子の意に反して、氏姓を変えられた。それで、大臣に就位すると、氏姓を正した。「帝皇之裔或異之天降然三才顯分以來」と曾都毘古たちの東征で政権が変わったと宣言した。そのため、葛木氏を後ろ盾にした皇位継承に対して反発されている。

2023年8月21日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇前期2

  『舊事本紀』は木蓮子連が石上穴穗宮大連と大前が大連なのに木蓮子が大連と記述した。それは、大前が殺害されたが、子の2代目大前が478年雄略二十二年正月己酉朔の「物部布都久留連公為大連」まで続いたからと思われる。すなわち、大前は伊耶本和気初代圓大臣が406年就位、そして、437年男浅津間若子大前大臣就位した。大前は葛城葦田宿禰の娘の黒比賣の子の市辺押磐の可能性が高い。大前の子が2代目大前と小前で、小前が顯宗元年己丑春正月己巳朔に「物部小前宿祢為大連」とあるように、近飛鳥八釣宮大連天皇である。

男浅津間若子宿祢は伊耶本和気や水歯別と兄弟だが、薨去年を考えると年齢が奇妙だ。432年437年と比べると、454年は1世代異なる。蟻臣の娘の荑媛の婿の市辺押磐ならよく符合する。市辺押磐は伊耶本和気と黒比賣の実子ではなく、黒比賣の兄弟の娘婿を兄弟に含めたと思われる。荑媛の婿の大前は磐余稚櫻宮天皇と皇后幡梭皇女の皇子の可能性が年齢的に高いからだ。

そして、おそらく、「仕応神仁徳履中三代天皇」と履中天皇時まで 平群木兎宿祢の家系が大臣だった。しかし、406年に伊耶本和気が初代圓大臣となった。432年に伊耶本和気が薨じ、皇位継承に混乱があった。神の朝廷の女王の忍坂大中姫が説得して、遠飛鳥宮麥入宿祢大連天皇の大日下が即位した。女国のNo2の大臣に夫の男浅津間若子宿祢を就位させた。

初代麥入は男浅津間若子と義兄弟だが、男浅津間若子は年代的に1代ずれていて、麥入の子の世代だ。おそらく、麥入と髪長比賣の子の大日下、妃が長田大郎女だ。髪長比賣は日向諸縣君の娘、忍坂大中比賣は日向諸縣君の孫に当たるようだ。そして、大日下の妃の長田大郎女は官位名から女国王である。そして、その女国王の長田大郎女を大日下を殺害して、穴穂が奪った。

2023年8月18日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇前期

  允恭天皇は麥入宿祢大連だが、天皇即位は434年允恭二十三年の「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」まで即位できなかったようだ。それまでは、物部氏の族長に過ぎなかったと思われる。勿論、この年は倭王珍の即位と思われるので、水歯別薨の年、大前大臣即位は437年の可能性もある。しかし、輕大娘が失脚しているので、434年なのだろう。反正天皇が410年に崩じたのに、允恭天皇は412年に跡を継ぎ、416年の允恭五年「葬瑞齒別天皇」と埋葬は6年も後だった。しかも、遠飛鳥宮に遷都できたのは437年のようだ。しかも、大前と麥入が共に大連と大前は大臣だが天皇とそれと同等な大臣が存在した。遠飛鳥宮は女国王忍坂大中津比賣が統治し、434年に輕大娘皇女と長田大郎女が王位を争い、長田大郎女が勝ったため、大日下が2代目麥入大連天皇になったと考えられる。輕大娘皇女は破れて、長田大郎女が継ぎ、457年に橘大郎女が女国王となったと考えられる。すなわち、大郎女が女国王の官位と考えられる。そして、その次が和弭臣深目の娘の童女君の娘の春日大郎女と考えられる。『梁書』に女国が記述されているので、倭比賣の娘の大郎女で女国は畿内政権に併合されたようだ。

麥入宿祢は五十琴宿祢の子で伊莒弗の後継で混乱があって、麥入が伊莒弗を継承した。麥入の妃は五十琴彦の孫なので、輕嶋豐明宮の血筋が強い。そして、大前と小前で断絶して、分家の氷連や田部連が残るのみだ。田部連は田部連の祖の島垂根の娘の糸井比賣の子の速總別の血筋である。速總別は女鳥比賣の夫で女国王は波多八代宿禰が奪って、娘の黒比賣が引き継いでいる。

大前は453年に麥入大連天皇が崩じ、麥入の皇太子の後ろ盾として、翌年薨じている。『古事記』は男浅津間若子が甲午年454年正月十五日に薨じたと、まさしく、大前と薨去年が同じである。更に、『舊事本紀』は大前大臣が石上穴穂宮大連と記述する。453年春正月乙亥朔戊子に麥入死後、454年正月十五日まで大連天皇だったことを示している。そして、なぜか、石上廣髙宮大連の木蓮子が安康元年十二月己巳朔に「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と記述する。おそらく、本来、麥入を後継する人物が木蓮子の義父の御太君だったのだろう

2023年8月16日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 反正天皇

  河内丹比柴垣宮大連天皇は伊莒弗、皇后は草香幡梭皇女だ。倭國造の祖の比香賀君、すなわち、倭君の比香賀である。倭君は宮(八代)の王宿祢、すなわち、倭君波多八代宿禰と泉長比賣との娘と思われる玉彦姫だろう。髪長比賣の娘の草香幡梭は大長谷若建の妃で、世代が違う。允恭二三年に麥入宿祢と大前宿祢が大連になるので、遅くとも、433年頃には死亡している。伊耶本和気の薨が432年で「天皇玉體不悆水土不調」と、死に方が哀れで奇妙と述べている。おそらく、水歯別と伊耶本和気の間に争いがあったと思われる。それに対して、伊莒弗は「天皇崩干正寢」と穏やかな崩だったのに、皇位継承が不調で、しかも、遷都されなかった。

次代の麥入が遠飛鳥宮大連天皇なので、伊莒弗の崩の時、実権が女国に遷ったと考えられる。女国王は草香幡梭から忍坂大中津比賣に遷ったようだ。『日本書紀』は圓大使主を401年に挿入したため、伊莒弗大連が磐余稚櫻大連に含められたが、406年の間違いかもしれない。なぜなら、木兎宿祢は履中まで「執国政」だからだ。大酒主の孫の2代目大雀と大臣の後継者の木兎宿祢は名、即ち姓・役職を交換した。2代目大雀の初代圓大使主の伊耶本和気と難波根子の木兎宿祢・大別と思われる。2代目圓大臣は454年に男浅津間若子宿祢死亡時に木梨輕皇子を守って薨じた大前大臣にかわって大臣に就いた。

 『古事記』の水歯別は433年、王位について、丁丑年437年の七月に崩じた。水歯別は丸迩臣の許碁登の娘に婿入りし、大別の義弟で、大臣の家系である。大別と伊耶本和気と水歯別は薨が427年、432年、437年と近く、()兄弟の関係と思われる。男浅津間若子宿祢は宿祢とあるように遠飛鳥の王だ。454年の薨去年から考えると、伊耶本和気や水歯別の次の世代で、大別の子のようだ。在位中に大前大臣が就任し、首都が遠飛鳥宮になるように、妃の忍坂大中津比賣が女国の王で、434年に娘の長田大郎女が女国王になったようだ。

初代圓大使主の伊耶本和気が薨じ、大前大臣が434年就任した。大前の兄弟の小前は田部連の祖、母は田井連の祖で五十琴彦の孫だ。速總別の母は田部連の祖の娘で、妃は伊勢宮主の女鳥皇女、殺害されて、羽田八代宿祢が女国王を引き継ぐ。羽田八代宿祢は女鳥皇女の義兄弟と思われる。そして、大前と小前は速總別と女鳥皇女の孫や曾孫の可能性が高く、墨江中津王の後継者の可能性が高い。

 この反正天皇の在位期間は人質として在日して、日本が後見する腆支王が百濟王であった。朝鮮出兵が一段落し、伊莒弗は安定し、「人民富饒天下太平」と、灌漑や溜池のおかげで、繁栄したようだ。434年まで「神皇本紀」に「為大連」が記述されず、朝廷が統一されたと考えられ、大臣も権限が無かったと考えられる。それに対して、百濟が倭から離れたため、倭が畿内政権から離反した。倭は百濟と新羅を牽制して新羅を侵略しだ。その為、百濟は「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」と倭と融和しようとしたようだ。しかし、倭が百濟を倭領としたように、反目して孤立し、蘇賀氏が百濟と同盟したようだ。

2023年8月14日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 履中天皇

  履中元年二月壬午朔に「伊莒弗連為大連」と伊莒弗が即位した。墨江中津王の反乱で磐余稚櫻宮天皇大連の五十琴宿祢が仁徳八七年399年に殺害されたからである。五十琴宿祢の皇后が引き続き皇后だったから、磐余稚櫻宮で統治した。実際の大萑は「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」で、丁卯年は427年で、395年からの在位である。履中元年七月己酉朔壬子に葦田宿禰の娘の黒媛を伊耶本和気は妃にした。伊耶本和気は「壬申年正月三日崩」と432年薨で、400年に妃を得たので20代、そうすると、50代薨でやや早死である。葛木葦田宿禰の娘を妃にして、大臣位を大別から奪った。

履中四年八月辛卯朔戊戌の「始之於諸國置國史記言事達四方志」は434年の日干支だ。允恭二三年にあたる。『舊事本紀』の允恭二十三年三月甲午朔庚子に「物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」の記事がある。九州の暦で、允恭二十三年は「立木梨輕皇子爲太子」、九州の倭王賛から珍への王朝交代の記事だ。力のある賛が崩じたので、國史を記述させたと考えられる。それで、朝廷がそれを使って『日本書紀』を記述した。

 そして、実際は、大前大連は木梨輕が即位できる年齢の前なので、大前が即位した。453年、新大連天皇に即位した記事の意味するところだ。大日下の長男の年齢からすると、義弟の木梨輕の年齢が想定できる。允恭二十三年は麥入が大連天皇に即位した時なのだろう。『舊事本紀』神皇本紀に「為大連」の即位記事がないのに、天孫本紀には「為大連」を記述する人物が存在する。大連は各連の頭領のことで、中臣連も系図に大連の記述がある。物部大連も天皇に即位した大連と頭領の大連が存在する。男浅津間若子の薨が454年甲午年正月十五日なので、『日本書紀』の453年崩の1年差の原因だ。432年に伊耶本和気が薨じ大臣の後継で混乱したことが原因で、権力が凋落し、朝廷が分裂して麥入が即位したのだろう。

履中五年三月戊午朔の「於筑紫所居三神・・・不祠」は倭王賛が高句麗に侵攻した記述。『好太王碑文』の「十四年・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と大敗した。それは、畿内政権が協力しなかったのも一因と賛は思ったのだろう。それで、倭国は中国の臣下になる決意をしたと考えられる。それが、この記事と思われる。秋九月乙酉朔壬寅の「飼部之黥」記事は日向から東征でやってきた人々に対する反感と思われる。十月甲寅朔甲子は「車持君行於筑紫國」と九州の暦である。磐余稚櫻皇后が崩じた記事なのだろう。履中六年春正月癸未朔戊子、「立草香幡梭皇女爲皇后」と伊莒弗の妃が皇后になって、遷都した。二月癸丑朔の「讃岐國造阿波國脚咋別凡二族之始祖也」から解るように、この時期もまだ阿波國は無い。淡島は島が国を意味するので、淡海・野洲国、淡道は野洲から敦賀への道を意味する。

2023年8月11日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 履中天皇前期2

 難波高津宮王の大別・大萑は侍臣の立場で「奉齋神宮」と神宮を祀った。これに対して、女王は矢田皇女で、「難波高津宮皇后」である。すなわち、大臣でない大萑は女王の単なる夫で、女王に仕える人物だった。大萑朝大臣は尾治意乎巳連であった。大萑と木兎宿祢は名を交換したと記述する。しかし、大萑と木兎宿祢は世代が違い、木兎宿祢は建内宿禰の孫、角宿祢の子と考えられる。建内宿禰は紀伊国造宇豆彦道彦の娘を妃に初代木兎宿祢の角宿祢を生んだ。初代木兎宿祢の角宿祢は平群県紀里に婿入りし、平群氏の祖の二代目木兎宿祢が生まれた。「神功皇后政六十年然後家大倭国平群県平群里」と『紀氏家牒』にある。『古事記』で息長帯日売の治世は362年壬戌六月十一日まで、363年以降に木兎宿祢は生まれたようだ。そして、大萑を受け継いで、400年に大別として難波高津宮の侍臣となった。大別は女国王の義兄妹の家系で侍臣として仕えた。

履中二年「圓大使主」と葛木氏が大臣になった。『紀氏家牒』は平群木兎宿祢が「応神・仁徳・履中三代天皇執国政」と記述され、400年まで平郡氏が大臣だったようだ。それは、品太と大萑と履中と意乎巳連が大臣と同じ意味だが、それ以降、434年まで大臣を記述しない。『舊事本紀』に允恭二十三年三月甲午朔庚子に「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と大前が天皇大連になった。『古事記』は大臣である。大連が二人は二王朝を意味し、大前は女国の大臣のことだと思われる。『舊事本紀』は『日本書紀』の崇峻紀記述後に記述されている。従って、立太子記事はイコール天皇交代を意味した。すなわち、皇太子木梨輕が襲名男浅津間若子の木梨輕大連と理解したと思われる。『舊事本紀』は原則『日本書紀』が正史である。神の朝廷の女国王は羽田矢代宿禰の娘の黒媛、そして、草香幡梭皇女、そして、忍坂大中姫だろう。

大萑朝廷は八田皇后に子がいなかったため、妹の女鳥皇女が女国を継いで伊勢神宮に住んだ。女王の璽の珠は近江山君稚守山妻與釆女磐坂媛が持っていた。しかし、この説話はおそらく、波多八代宿禰の説話で、波多八代宿禰の娘の黒比賣が女国王となったのだろう。

 大萑は灌漑や溜池を造って裕福になって、最有力者になった。『古事記』に「茨田堤及茨田三宅又作丸迩池依網池又掘難波之堀江而廻海又堀小椅江又定墨江之津」とある。そこの王の墨江中津王が五十琴宿祢を殺害し、さらに、伊莒弗を柴垣宮に追い出した。墨江中津王は倭直吾子篭と同盟関係、倭直吾子篭は伊莒弗の義父か義兄で、伊莒弗が五十琴宿祢を殺害させたと考えられる。そして、墨江中津王を殺害したのが曾婆加里で、大臣にすると騙した。大臣になる伊耶本和気が言うから信じたのであり、無役の人物では騙されないだろう。そして、405年に伊耶本和気が伊波禮若櫻宮に遷った。五十琴宿祢大連天皇が殺害されたように、伊莒弗大連天皇の権力は弱体化した。すなわち、女国の神の朝廷に名目上の権力が遷ったと考えられる。すなわち、実質、大臣が最高権力者となったようだ。

 葛木氏の神武東征は墨江中津王・羽田矢代宿禰・日向諸縣君・伊耶本和気による反乱だったと思われる。日向諸縣君は日向髪長大田根の子の日向襲津彦と思われる。婿が襲名して曾都毘古、姪が髮長比賣で大日下王・波多毘能若郎女の母と思われる。髮長比賣の母は泉長比賣で、その娘の波多毘能若郎女が髮長比賣と思われる。日向諸縣君は天孫が降臨した伊都の日向の高千穂王朝・日臣の末裔と思われる。

2023年8月9日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 履中天皇前期1

  磐余稚桜宮天皇は伊莒弗大連である。同じ宮の大連は襲名して、一宮一大連に記述されているから、異様だ。本来、磐余稚桜宮天皇の時は五十琴宿祢だが、中津王に殺害されたため、伊莒弗が即位したと思われる。皇后の香兒媛を受け継ぐ媛が生き残ったのだろう。そして405年に皇后が変わった。伊莒弗の妃は倭國造の祖の比香賀君の娘の玉彦媛である。倭國造の祖の比香賀君の子と思われる吾子篭、「素好仲皇子」と仲皇子と同盟関係である。仲皇子の妃は倭君の羽田矢代宿禰、倭君の後継者が黒媛の夫の倭國王の墨江()中津王なのだろう。「太子疑其心欲殺則吾子篭愕之獻己妹日之媛」の太子は中津王の子の黒川宿祢だろう。太子と呼べるのは、稚桜宮太子の伊莒弗か、女国の太子黒川宿祢である。その妃が日之媛で、「倭直等貢采女」と倭直の娘が女国の王、倭直は倭國造だ。

  天皇は宗廟がある宮、物部氏は「大神奉齋殿内即蔵天璽瑞寶」と記述する。天皇の璽を宮殿に奉納して、その宮の神と同等の皇后、璽を守る天皇は神、同等の皇后を大連が代弁する。だから、天皇は宮なので、皇后の血統が交代するときは宮・天皇が変わる。前の最高実力者が力を失うと、娘の皇后と璽を、息子が婿入りした新たな最高実力者の領地に宮に遷し、前皇后が皇太后となる。新しい最高実力者の娘が皇后、皇后は最高実力者を天皇()の大連に任命した。土地・氏族の象徴は姫、男は他所者で、氏族の構成員は姫に従う。姫の息子の皇太子が氏族長の娘、姫の姪に嫁ぐと、息子が氏族長となる。だから、宮の神の天皇の構成員は同じ名前を襲名して、長ければ百年以上続く。

初代の大連は羸津世襲で尾張氏の祖で、尾張氏が天皇だったことを示す。それ以前は大神君を伊香色雄まで足尼や大祢、大臣として伊香色雄まで奉齋してきた。伊香色雄は尾張氏の天璽瑞寶と布都大神を石上神社に遷した。皇位は伊香色雄と妹の伊香色謎、御眞津比賣と継承された。 そして、次の実力者の建諸隅の妹の大海姫の娘に十市根が婿入りして武諸遇が大連になった。武諸遇朝廷は豐鋤比賣が伊勢大神を祀った。そして、それを継承して、志賀高穴穗宮は皇后が天皇に即位する神の朝廷となったと考えられる。

神の朝廷のNo1が宮主女王、No2が夫もしくは義兄弟の大臣(膽咋宿禰大臣)、そして、比布禮能意富美(?印葉)、尾綱根大臣、建内宿禰大臣(意乎巳)と継承されたと考えられる。大連は直接神に仕えて命じる天皇(神・宮)の代弁者で、大臣は女王が神に仕え、大臣に統治させたと考えられる。大国の王の大臣が意乎巳連になった時、それは、建内宿禰が和迩氏荒田彦に婿入りし、荒田彦死後に、神の朝廷のNo2となった。女王は八田皇后で、仁徳卅八年、350年の正月癸酉朔戊寅だった。

2023年8月7日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇2

 仁徳十二年秋七月辛未朔「高麗國貢鐵盾」は日干支が間違いで、417年と考えられる。八月庚子朔己酉の「饗高麗客於朝」も417年の可能性が高い。的戸田宿禰は曾都毘古の子で、建内宿禰が313年生まれなので、孫の的戸田宿禰は324年には生まれていない。的氏は和珥臣の系統なので、水齒別に婿入りした曾都毘古の孫の可能性が高い。仁徳三〇年十月甲申朔「口持臣之妹國依媛仕于皇后」の説話は368年の日干支で、この子が丸迩許碁登臣なのだろうか。高句麗も廣開土王死後、長壽王が即位した。そして、「晉奉表獻赭白馬」と臣従して、安帝に「封王高句麗王楽浪郡公」を得た。そして、新羅の宗主国の日本に貢献して友好を深めた。それによって、424年、長壽王十二年に「新羅遣使修聘」と和平を結んだ。そして、それに対抗して、百濟が宋に貢献し、翌年「都督百濟諸軍事鎮東大將軍」を得た。仁徳十七年の「新羅不朝貢」も砥田宿禰らの活躍で、新羅を懐柔し、高句麗とも融和させたと思われる応神十六年「的戸田宿禰於加羅」、実際は397年から的戸田宿禰が対朝鮮を担当したのだろう。仁徳十七年の「新羅不朝貢」もこの頃と思われる。

 仁徳廿二年334年の「納八田皇女將爲妃」の記述は、卅八年350年皇后をどう考えればよいのだろうか。品太天皇尾綱根、皇后磐之媛(おそらく仲姫、後述)朝廷から、武内大臣・八田神朝廷に350年に移行した。磐之媛は曾都毘古の娘なので、380年頃の皇后と考えられる。応神二年春三月庚戌朔の「立仲姫爲皇后」は間違いの日干支であった。実際は333年の日干支である。尾綱根は品太朝廷大臣大連、大萑朝で意乎巳大臣である。品太朝廷大臣大連は品太天皇大連かつ神の朝廷大臣の事なのだろう。仁徳四一年353年に「遣紀角宿禰於百濟」とあるが、紀角宿禰の母は紀伊国造宇豆彦道彦男の娘の宇乃媛である。武内宿祢の従妹と考えられ、紀伊国造か紀角宿禰が武内宿祢を継承した意乎巳連と考えられる。紀伊国造は神倭()朝廷の和迩君から和迩臣を引き継いだ氏族で、和迩氏と呼ばれていたのだろう。また、武内宿祢の長男の紀角宿禰は木国の紀里に住み、「大倭国平群県紀里」に移り住んだ。紀という地名を持ち歩いて、最後は紀州だ。平群木兎宿祢は「家大倭国平群県平群里」だから平群氏だ。意乎巳連の継承は十分あり得る。

 仁徳四十三年九月庚子朔は九州の説話と考えられる。紀角宿禰が無礼な酒君を捕縛し、さらに欺かれていながら、1年で許すのは奇妙だ。倭国は百濟と同盟関係なので、倭国で暮らしていたのなら理解できる。大萑の薨が427年仁徳「八十三年歳次丁卯秋八月十五日」なので、387年頃の説話かもしれない。神功六二年の「新羅不朝即年遣襲津彦撃新羅」と仁徳五十三年「新羅不朝貢」とは同じ頃の記事と思われる。「百濟記云壬午年新羅不奉貴國貴國遣沙至比跪令討之」は382年の百濟記の記事と思われる。新羅が前秦に臣従、百濟が東晋から官位を得て、日本離れを起こした時期である。また、仁徳五八年「呉國高麗國並朝貢」も同様に402年の記事と考えられる。倭・百濟連合軍に対して、畿内政権への協力依頼と考えられる。応神三七年二月戊午朔は399年の日干支で、この時倭王と高麗使節が来日したが、失敗した。そのため、倭・百濟連合軍が高句麗や新羅を攻撃したので、日本との再構築を狙った訪日と思われる。

2023年8月4日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇1

仁徳天皇元年313年に遷都、宮の主は品陀眞若と尾綱根大連である。大雀は木兎宿祢と同じ日に生まれている。建内宿禰が313年生まれ、その長男と同年なので、325年頃の生まれと考えられる。そして、仁徳天皇三八年350年の「立八田皇女爲皇后」で、女王国王の夫に就任した。難波高津宮の大連が存在しないのだから、八田女王が伊勢女王である。吉備臣建日子の妹の大吉備建比賣の子に建貝兒が存在する。『舊事本紀』に「武養蝅命波多臣等祖」と羽田八代宿祢の母方の祖父が存在する。兄媛は吉備臣の祖の御友別の妹であるが、父は吉備にいたので、御友別が吉備臣と思われる。『古事記』に吉備臣の祖の御鋤友耳建日子が倭建のために矛を伊勢大神かあら草那藝劒を受け取っている。

若帯日子と同世代と思われる大帯日子に記述されている。この時、伊勢大神は神の朝廷と呼んで、倭比賣が女王である。そして、建貝兒は、伊勢の別の祖で、倭女王の夫の可能性が高い。兄媛は高木(之入)比賣、その兄が吉備之兄日子と符合する。建貝兒は額田大中日子、その子が伊勢王、すなわち、羽田八代宿祢と考えられる。倭國造の祖の比香賀君は曾都毘古の義兄弟の日向諸縣君と思われる。そして、倭王の羽田矢代宿禰の娘の黒媛は墨江中津王妃で、伊莒弗と皇位を争った。

大雀と木兎宿祢は「鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子」と、名を交換した。木菟は建内大臣だが大雀(大別)は427年崩なので世代が異なる。同世代は尾綱根の子の稚彦である。すなわち、稚彦と毛良姫から建内大臣と女国王八田皇后へ350年に交代した。そして、印葉の孫が難波王、和珥臣の祖の難波根子武振熊なのだろう。仁徳六五年377年に「飛騨國有一人曰宿儺」を成敗している。印葉も「丸迩之比布禮能意富美」の子で、丸迩(和珥)臣の祖である。尾綱根の子の稚彦が丸迩(和珥)臣の祖に婿入りしたと思われる。稚彦に仕えた人々が伊与國に遷ったとあるが、女国王の輕大郎女が「流輕大娘皇女於伊豫」と伊与に流された。

二年春三月辛未朔戊寅」の日干支は345年で磐之媛を皇后になったが347年に薨じた。「七年夏四月辛未朔」は九州の日干支である。316年に同じ内容があり、九州の説話を混入させたと思われる。襲津彦の娘を妃にした難波王は、実際に即位したのは、350年、八田皇女が女国王に即位した時と考えられる。従って、313年に難波で王位に就いたのは品陀眞若の説話と考えられる。「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」だ。品陀眞若が「課役並免」を3年続けたが、それほど、裕福ではなかったようだ。「十一年夏四月戊寅朔甲午」に堀江や茨田堤の灌漑を命じている。しかし、この日干支は354年の説話と考えられる。この頃、河内は開墾が盛んに行われ、ため池、用水を造らせたと思われる。難波根子と武内大臣の事業と思われる。

2023年8月2日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇前期4

『日本書紀』仁徳前期に皇位継承争いの中、額田大中日子が大山守の領地の倭の屯田と屯倉を奪ったと相談している。それで、吾子篭が倭は天皇の領地ということで、山守はあきらめ、そこを、統治したのが比香賀君だ。額田大中日子もあきらめた様子がなく、額田大中日子が倭の王で、女国なのだから、額田大中日子の妻が比香賀君の妹(?泉長比賣)と思われる。香坂王の末裔と思われる迦具漏比賣の娘に忍坂大中比賣が存在し、迦具漏比賣の父が額田大中日子と考えられる。忍坂大中比賣は伊勢刑部、五十功彦の子の香坂王の子孫だ。品陀眞若王と娘婿が品太天皇でその子が倭君の額田大中日子。そして、「忍坂大中姫命稚渟毛二岐皇子之女」なので、若帯日子の子の武内宿禰和訶奴氣の義妹が息長帯日売。息長帯日売の夫が品太天皇の子の上道國造仲彦、すなわち、額田大中日子、大国と仲国王もしくは大国の中の仲国王だ。

若帯日子の子の和訶奴氣は穗積臣の祖の建忍山垂根の娘の弟財郎女との子である。忍山の娘の弟媛の子に息長田別が存在し、その子が杙俣長日子、その子が息長眞若中比賣である。息長眞若中比賣の子が稚渟毛二岐なので、息長眞若中比賣が和訶奴氣の義妹、若帯日子の娘である。すなわち、若帯日子は杙俣長日子、そして、息長田別が阿波()君の祖だ。従って、杙俣長日子が淡君、女国王の夫の男王で、息長眞若中比賣が息長帯日売である。

若帯日子の妃は中日賣と思われ、娘も中比賣、稚渟毛二岐が品陀和気と思われる。品夜和氣は弟比賣の娘に婿となって、難波王になったと考えられる。すなわち、息長眞若帯中比賣と夫の額田大帯中日子だから、息長帯比賣・帯中日子夫妻である。建内宿禰は尾綱根の荒田彦と中日賣の娘の木之荒田郎女の婿の可能性が高い。建内宿禰は名が内臣の王を表して、内臣の祖は味師内宿禰で、味師内宿禰は建内宿禰の兄である。すなわち、味師内宿禰は長男で名を襲名したと考えられ、葛城国造荒田彦は葛城之高千那毘賣の末裔と考えられる。味師内宿禰の母の葛城之高千那毘賣は尾張連の祖の竟富那毘・倭得玉彦の妹、八坂入彦の従妹にあたる。淡海國谷上刀婢の兄が比古布都押之信の可能性が高く、交互の婚姻が続いたと思われる。その中に、五百木部連の祖の若都保が存在し、五百木之入日子につながる。