2023年8月7日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇2

 仁徳十二年秋七月辛未朔「高麗國貢鐵盾」は日干支が間違いで、417年と考えられる。八月庚子朔己酉の「饗高麗客於朝」も417年の可能性が高い。的戸田宿禰は曾都毘古の子で、建内宿禰が313年生まれなので、孫の的戸田宿禰は324年には生まれていない。的氏は和珥臣の系統なので、水齒別に婿入りした曾都毘古の孫の可能性が高い。仁徳三〇年十月甲申朔「口持臣之妹國依媛仕于皇后」の説話は368年の日干支で、この子が丸迩許碁登臣なのだろうか。高句麗も廣開土王死後、長壽王が即位した。そして、「晉奉表獻赭白馬」と臣従して、安帝に「封王高句麗王楽浪郡公」を得た。そして、新羅の宗主国の日本に貢献して友好を深めた。それによって、424年、長壽王十二年に「新羅遣使修聘」と和平を結んだ。そして、それに対抗して、百濟が宋に貢献し、翌年「都督百濟諸軍事鎮東大將軍」を得た。仁徳十七年の「新羅不朝貢」も砥田宿禰らの活躍で、新羅を懐柔し、高句麗とも融和させたと思われる応神十六年「的戸田宿禰於加羅」、実際は397年から的戸田宿禰が対朝鮮を担当したのだろう。仁徳十七年の「新羅不朝貢」もこの頃と思われる。

 仁徳廿二年334年の「納八田皇女將爲妃」の記述は、卅八年350年皇后をどう考えればよいのだろうか。品太天皇尾綱根、皇后磐之媛(おそらく仲姫、後述)朝廷から、武内大臣・八田神朝廷に350年に移行した。磐之媛は曾都毘古の娘なので、380年頃の皇后と考えられる。応神二年春三月庚戌朔の「立仲姫爲皇后」は間違いの日干支であった。実際は333年の日干支である。尾綱根は品太朝廷大臣大連、大萑朝で意乎巳大臣である。品太朝廷大臣大連は品太天皇大連かつ神の朝廷大臣の事なのだろう。仁徳四一年353年に「遣紀角宿禰於百濟」とあるが、紀角宿禰の母は紀伊国造宇豆彦道彦男の娘の宇乃媛である。武内宿祢の従妹と考えられ、紀伊国造か紀角宿禰が武内宿祢を継承した意乎巳連と考えられる。紀伊国造は神倭()朝廷の和迩君から和迩臣を引き継いだ氏族で、和迩氏と呼ばれていたのだろう。また、武内宿祢の長男の紀角宿禰は木国の紀里に住み、「大倭国平群県紀里」に移り住んだ。紀という地名を持ち歩いて、最後は紀州だ。平群木兎宿祢は「家大倭国平群県平群里」だから平群氏だ。意乎巳連の継承は十分あり得る。

 仁徳四十三年九月庚子朔は九州の説話と考えられる。紀角宿禰が無礼な酒君を捕縛し、さらに欺かれていながら、1年で許すのは奇妙だ。倭国は百濟と同盟関係なので、倭国で暮らしていたのなら理解できる。大萑の薨が427年仁徳「八十三年歳次丁卯秋八月十五日」なので、387年頃の説話かもしれない。神功六二年の「新羅不朝即年遣襲津彦撃新羅」と仁徳五十三年「新羅不朝貢」とは同じ頃の記事と思われる。「百濟記云壬午年新羅不奉貴國貴國遣沙至比跪令討之」は382年の百濟記の記事と思われる。新羅が前秦に臣従、百濟が東晋から官位を得て、日本離れを起こした時期である。また、仁徳五八年「呉國高麗國並朝貢」も同様に402年の記事と考えられる。倭・百濟連合軍に対して、畿内政権への協力依頼と考えられる。応神三七年二月戊午朔は399年の日干支で、この時倭王と高麗使節が来日したが、失敗した。そのため、倭・百濟連合軍が高句麗や新羅を攻撃したので、日本との再構築を狙った訪日と思われる。

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