2023年8月11日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 履中天皇前期2

 難波高津宮王の大別・大萑は侍臣の立場で「奉齋神宮」と神宮を祀った。これに対して、女王は矢田皇女で、「難波高津宮皇后」である。すなわち、大臣でない大萑は女王の単なる夫で、女王に仕える人物だった。大萑朝大臣は尾治意乎巳連であった。大萑と木兎宿祢は名を交換したと記述する。しかし、大萑と木兎宿祢は世代が違い、木兎宿祢は建内宿禰の孫、角宿祢の子と考えられる。建内宿禰は紀伊国造宇豆彦道彦の娘を妃に初代木兎宿祢の角宿祢を生んだ。初代木兎宿祢の角宿祢は平群県紀里に婿入りし、平群氏の祖の二代目木兎宿祢が生まれた。「神功皇后政六十年然後家大倭国平群県平群里」と『紀氏家牒』にある。『古事記』で息長帯日売の治世は362年壬戌六月十一日まで、363年以降に木兎宿祢は生まれたようだ。そして、大萑を受け継いで、400年に大別として難波高津宮の侍臣となった。大別は女国王の義兄妹の家系で侍臣として仕えた。

履中二年「圓大使主」と葛木氏が大臣になった。『紀氏家牒』は平群木兎宿祢が「応神・仁徳・履中三代天皇執国政」と記述され、400年まで平郡氏が大臣だったようだ。それは、品太と大萑と履中と意乎巳連が大臣と同じ意味だが、それ以降、434年まで大臣を記述しない。『舊事本紀』に允恭二十三年三月甲午朔庚子に「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と大前が天皇大連になった。『古事記』は大臣である。大連が二人は二王朝を意味し、大前は女国の大臣のことだと思われる。『舊事本紀』は『日本書紀』の崇峻紀記述後に記述されている。従って、立太子記事はイコール天皇交代を意味した。すなわち、皇太子木梨輕が襲名男浅津間若子の木梨輕大連と理解したと思われる。『舊事本紀』は原則『日本書紀』が正史である。神の朝廷の女国王は羽田矢代宿禰の娘の黒媛、そして、草香幡梭皇女、そして、忍坂大中姫だろう。

大萑朝廷は八田皇后に子がいなかったため、妹の女鳥皇女が女国を継いで伊勢神宮に住んだ。女王の璽の珠は近江山君稚守山妻與釆女磐坂媛が持っていた。しかし、この説話はおそらく、波多八代宿禰の説話で、波多八代宿禰の娘の黒比賣が女国王となったのだろう。

 大萑は灌漑や溜池を造って裕福になって、最有力者になった。『古事記』に「茨田堤及茨田三宅又作丸迩池依網池又掘難波之堀江而廻海又堀小椅江又定墨江之津」とある。そこの王の墨江中津王が五十琴宿祢を殺害し、さらに、伊莒弗を柴垣宮に追い出した。墨江中津王は倭直吾子篭と同盟関係、倭直吾子篭は伊莒弗の義父か義兄で、伊莒弗が五十琴宿祢を殺害させたと考えられる。そして、墨江中津王を殺害したのが曾婆加里で、大臣にすると騙した。大臣になる伊耶本和気が言うから信じたのであり、無役の人物では騙されないだろう。そして、405年に伊耶本和気が伊波禮若櫻宮に遷った。五十琴宿祢大連天皇が殺害されたように、伊莒弗大連天皇の権力は弱体化した。すなわち、女国の神の朝廷に名目上の権力が遷ったと考えられる。すなわち、実質、大臣が最高権力者となったようだ。

 葛木氏の神武東征は墨江中津王・羽田矢代宿禰・日向諸縣君・伊耶本和気による反乱だったと思われる。日向諸縣君は日向髪長大田根の子の日向襲津彦と思われる。婿が襲名して曾都毘古、姪が髮長比賣で大日下王・波多毘能若郎女の母と思われる。髮長比賣の母は泉長比賣で、その娘の波多毘能若郎女が髮長比賣と思われる。日向諸縣君は天孫が降臨した伊都の日向の高千穂王朝・日臣の末裔と思われる。

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