2023年8月21日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇前期2

  『舊事本紀』は木蓮子連が石上穴穗宮大連と大前が大連なのに木蓮子が大連と記述した。それは、大前が殺害されたが、子の2代目大前が478年雄略二十二年正月己酉朔の「物部布都久留連公為大連」まで続いたからと思われる。すなわち、大前は伊耶本和気初代圓大臣が406年就位、そして、437年男浅津間若子大前大臣就位した。大前は葛城葦田宿禰の娘の黒比賣の子の市辺押磐の可能性が高い。大前の子が2代目大前と小前で、小前が顯宗元年己丑春正月己巳朔に「物部小前宿祢為大連」とあるように、近飛鳥八釣宮大連天皇である。

男浅津間若子宿祢は伊耶本和気や水歯別と兄弟だが、薨去年を考えると年齢が奇妙だ。432年437年と比べると、454年は1世代異なる。蟻臣の娘の荑媛の婿の市辺押磐ならよく符合する。市辺押磐は伊耶本和気と黒比賣の実子ではなく、黒比賣の兄弟の娘婿を兄弟に含めたと思われる。荑媛の婿の大前は磐余稚櫻宮天皇と皇后幡梭皇女の皇子の可能性が年齢的に高いからだ。

そして、おそらく、「仕応神仁徳履中三代天皇」と履中天皇時まで 平群木兎宿祢の家系が大臣だった。しかし、406年に伊耶本和気が初代圓大臣となった。432年に伊耶本和気が薨じ、皇位継承に混乱があった。神の朝廷の女王の忍坂大中姫が説得して、遠飛鳥宮麥入宿祢大連天皇の大日下が即位した。女国のNo2の大臣に夫の男浅津間若子宿祢を就位させた。

初代麥入は男浅津間若子と義兄弟だが、男浅津間若子は年代的に1代ずれていて、麥入の子の世代だ。おそらく、麥入と髪長比賣の子の大日下、妃が長田大郎女だ。髪長比賣は日向諸縣君の娘、忍坂大中比賣は日向諸縣君の孫に当たるようだ。そして、大日下の妃の長田大郎女は官位名から女国王である。そして、その女国王の長田大郎女を大日下を殺害して、穴穂が奪った。

0 件のコメント:

コメントを投稿