2023年8月25日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇2

天皇と衣通郎姫の恋愛が記述されているが、衣通郎姫は娘の輕大郎女ではないと思われる。「皇后母弟」と記述され、衣通郎姫の姉妹で娘が皇后になる人物は存在しない。木梨輕太子との恋愛を「不得罪」としている。ところが、穴穂は自分の姉の長田大郎女を妃にして、不得罪とは言わない。おそらくは、穴穂は長田大郎女に婿入りしたと考えられる。また、長田大郎女が穴穂の妃になった時、目弱は4歳で、長田大郎女は20歳代である。従って、穴穂の妃の長田大郎女は2代目の長田()郎女と考えられる。そのため、平群氏が記述した『日本書紀』は、穴穂の観点では、皇后の2代目長田()郎女の母が初代長田大郎女と記述したと思われる。大日下も20代で、義弟の皇太子の木梨輕太子も2代目婿で20歳代だ。輕大娘も2代目と考えられ、木梨輕は、おそらく、輕大娘の婿と考えられる。

そして、432年初代圓大臣が薨じた。そして、434年「物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と二つの朝廷に分裂した。一方が神の朝廷女国で、女国王は輕大郎女女王、大前大臣である。もう一方が、扶桑国朝廷大日下麥入大連天皇である。初代麥入は2代目圓の大前の兄、子の2代目麥入は大前の娘の長田大郎女の婿である。だから、大前は娘婿の木梨輕皇子を守るのは当然の事である。2代目圓の娘の荑媛の婿が小前の父の3代目圓の市邊之忍齒である。黒比賣の太子と兄蟻臣の娘はセット、蟻臣が水齒別の可能性が高く、荑媛が都夫良郎女の可能性が高い。

434年、廿四年夏六月に輕大郎女が女王国王になったと思われ、大前が大臣になったようだ。そして、453年、四十二年春正月乙亥朔戊子に3代目麥入大日下天皇大連が崩じた。初代は、最初、即位できずに、遠飛鳥の王の宿祢に過ぎず、2代目大日下になって麥入大連天皇に即位できた。そして、454年に、大前と434年に伊豫に逃れた木梨輕の子が穴穂に敗れた。そして、大前の兄弟の2代目大前の弟の穴穂が、安康元年十二月己巳朔に「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と即位した。木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」なので、大前の孫なのだろう。

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