2023年8月23日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇

  反正天皇崩は410年、草香幡梭皇后の後ろ盾の夫の伊莒弗大連天皇が崩じた。皇位継承者の麥入宿祢は五十琴彦の家系の孫娘の全能媛を妃にした。すなわち、伊勢刑部君の家系の女国王の娘の迦具漏比賣と思われる。男浅津間若子宿祢は、迦具漏比賣の娘の忍坂大中津比賣に婿入りして、大前連と呼ばれたようだ。そして、初代麥入を継いだのが、伊莒弗の孫か曾孫と思われる大日下で、忍坂大中津比賣の娘の長田大郎女を妃にした。大日下の子がまだ幼かったのだから、434年に20歳になったと思われる。それでも、19年の在位と長く、目弱王が若すぎるので、2代目の大日下王がいたかもしれない。

伊莒弗死後、忍坂大中津比賣と草香幡梭皇后が権力闘争した。それで、おそらく、大日下が即位するまで、男浅津間若子宿祢を後ろ盾にした忍坂大中津比賣が権力を持った。草香幡梭皇后は遠飛鳥宮の麥入を後ろ盾にしたと思われる。412年に忍坂大中津比賣が実権を握り、允恭二年二月丙申朔己酉に「忍坂大中姫爲皇后」とおそらく女国王を兼ねた。すなわち、大連天皇不在で、伊耶本和気圓大臣が432年まで政務を遂行したと思われる。

この混乱が、曾都毘古たちの(神武)東征の結果である。東征の結果、葛木氏、日向氏、吉備上道臣の権力闘争に、神の朝廷も物部朝廷も混乱を極めたと思われる。葛木氏も本家の平群氏、紀氏との対立、分家の波多氏と対立したと思われる。そして、同一氏族の内部対立に乗じて日向氏に権力が遷ったのだろう。

414年「醫至自新羅則令治天皇病」と男浅津間若子は病弱だった。そして、415年「誤失己姓或故認高氏」と男浅津間若子の意に反して、氏姓を変えられた。それで、大臣に就位すると、氏姓を正した。「帝皇之裔或異之天降然三才顯分以來」と曾都毘古たちの東征で政権が変わったと宣言した。そのため、葛木氏を後ろ盾にした皇位継承に対して反発されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿