2023年8月28日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安康天皇前期1

  安康天皇は安康元年十二月己巳朔「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と木蓮子だ。しかし、木蓮子は石上廣髙宮天皇で、その父の布都久留と考えられる。布都久留は「大長谷朝御世為大連」と記述されるが、大連になったのは白髪が太子になった478年だ。すなわち、初代木蓮子の布都久留・穴穂が、女王国王長田大郎女の夫になった。目弱王の後ろ盾が圓大臣なのだから、圓は女王の義兄、穴穂は大日下麥入の甥に当たる。当然、穴穂の名前は、伊勢遺跡のある、野洲の穴穂で生まれたからだろう。倭國造祖の娘の子なのだから、倭國造祖は野洲王の祖、野洲近辺の皇子だ。

『古事記』は伊耶本和気以降、大臣の系譜を記述している。崩御年を記述されているのが直系の継承者である。御真木入日子の「戊寅年十二月」、若帯日子の「乙卯年三月十五日」と記述され、以降、幾日まで記述される。幾日まで表記されたが、班固が記述した『史記』の「記秦始皇本紀後」以前にはこの表記は使われていない。すなわち、紀元後92年頃以降に使われた。また、『後漢書』の59年の永平二年冬十月の「令月(二月)元日」は、この頃、朔日は晦日と共用されたので、元日とされたと考えられる。一月朔日が一月晦、翌日が二月元日、実際は一月二日なのだろうか。そして、『宋書卷八』、本紀第八の465年の明帝永光元年に「十一月二十九日夜也」と記述され、これが中国史書の初出だ。『三國史記』も西暦32年の儒理尼師今九年「至八月十五日」が初出で、その後、250年頃の沾解尼師今が多用している。しかし、基本は朔の日干支を記述してからなので、その日がいつか特定できる。

しかし、『古事記』は朔が記述されず、60年以上間隔が開くと特定できない。若帯日子の「乙卯年三月十五日」は宋朝が始まる頃から、中国に関係する人物が日本で使用したと考えられる。すなわち、息長帯日売が新羅遠征し、曾都毘古が朝鮮に滞在した。それまで、墓誌には御真木入日子の「戊寅年十二月」と、日干支が解らず、月までしか記述できなかった。特定の宮の住人しか朔の日干支を知らなかったことが解る。そして、息長帯日売たちは、幾日という日にちの数え方を知り、墓誌に記述した。『日本書紀』にも、薬師と薬草刈りをしたときに、幾日と記述している。中国人や朝鮮人の記録を使用したからと思われる。

それでも、天文を司る人物が居ない大臣家の宮殿には、日干支の記録が無いので、年干支で特定するほか無かったと思われる。それで、宮殿の年数では60年以上続くので、家主の死亡年で『古事記』の紀伝体の年特定をしたと思われる。家主の死亡日なら、家主は20歳以上で継ぎ、それから60年以上生きることは、ほとんど無い。だから、墓誌の死亡年で、編年は特定できる。

従って、『古事記』は若倭根子日子大毘ゝ以前が神話で、前後関係は疑わなければならない。また、大長谷若建の中にも神話が混ざっている。日付の無い記述は神話と同じで、前後関係を疑わなければならない。中国の漢人が神話を書けば、神農氏が一番初め、ある氏族の天照大神が先頭の神話を借りてきて、ある氏族が史書を書く。天照大神以前に、その氏族の神話が記述される。記述者の神が一番先頭なのが、史書の神話である。おそらく、縄文神話は女神が先頭だったと思われる。私は「このは」(子の母)+「な」()のような気がする。木葉比等の母、「鹿屋野比賣」は市鹿文の鹿文と後代の神である。そして、『古事記』の先頭は御中主、仲国王だ。

 

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