2023年8月18日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 允恭天皇前期

  允恭天皇は麥入宿祢大連だが、天皇即位は434年允恭二十三年の「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」まで即位できなかったようだ。それまでは、物部氏の族長に過ぎなかったと思われる。勿論、この年は倭王珍の即位と思われるので、水歯別薨の年、大前大臣即位は437年の可能性もある。しかし、輕大娘が失脚しているので、434年なのだろう。反正天皇が410年に崩じたのに、允恭天皇は412年に跡を継ぎ、416年の允恭五年「葬瑞齒別天皇」と埋葬は6年も後だった。しかも、遠飛鳥宮に遷都できたのは437年のようだ。しかも、大前と麥入が共に大連と大前は大臣だが天皇とそれと同等な大臣が存在した。遠飛鳥宮は女国王忍坂大中津比賣が統治し、434年に輕大娘皇女と長田大郎女が王位を争い、長田大郎女が勝ったため、大日下が2代目麥入大連天皇になったと考えられる。輕大娘皇女は破れて、長田大郎女が継ぎ、457年に橘大郎女が女国王となったと考えられる。すなわち、大郎女が女国王の官位と考えられる。そして、その次が和弭臣深目の娘の童女君の娘の春日大郎女と考えられる。『梁書』に女国が記述されているので、倭比賣の娘の大郎女で女国は畿内政権に併合されたようだ。

麥入宿祢は五十琴宿祢の子で伊莒弗の後継で混乱があって、麥入が伊莒弗を継承した。麥入の妃は五十琴彦の孫なので、輕嶋豐明宮の血筋が強い。そして、大前と小前で断絶して、分家の氷連や田部連が残るのみだ。田部連は田部連の祖の島垂根の娘の糸井比賣の子の速總別の血筋である。速總別は女鳥比賣の夫で女国王は波多八代宿禰が奪って、娘の黒比賣が引き継いでいる。

大前は453年に麥入大連天皇が崩じ、麥入の皇太子の後ろ盾として、翌年薨じている。『古事記』は男浅津間若子が甲午年454年正月十五日に薨じたと、まさしく、大前と薨去年が同じである。更に、『舊事本紀』は大前大臣が石上穴穂宮大連と記述する。453年春正月乙亥朔戊子に麥入死後、454年正月十五日まで大連天皇だったことを示している。そして、なぜか、石上廣髙宮大連の木蓮子が安康元年十二月己巳朔に「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」と記述する。おそらく、本来、麥入を後継する人物が木蓮子の義父の御太君だったのだろう

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