仁徳天皇元年313年に遷都、宮の主は品陀眞若と尾綱根大連である。大雀は木兎宿祢と同じ日に生まれている。建内宿禰が313年生まれ、その長男と同年なので、325年頃の生まれと考えられる。そして、仁徳天皇三八年350年の「立八田皇女爲皇后」で、女王国王の夫に就任した。難波高津宮の大連が存在しないのだから、八田女王が伊勢女王である。吉備臣建日子の妹の大吉備建比賣の子に建貝兒が存在する。『舊事本紀』に「武養蝅命波多臣等祖」と羽田八代宿祢の母方の祖父が存在する。兄媛は吉備臣の祖の御友別の妹であるが、父は吉備にいたので、御友別が吉備臣と思われる。『古事記』に吉備臣の祖の御鋤友耳建日子が倭建のために矛を伊勢大神かあら草那藝劒を受け取っている。
若帯日子と同世代と思われる大帯日子に記述されている。この時、伊勢大神は神の朝廷と呼んで、倭比賣が女王である。そして、建貝兒は、伊勢の別の祖で、倭女王の夫の可能性が高い。兄媛は高木(之入)比賣、その兄が吉備之兄日子と符合する。建貝兒は額田大中日子、その子が伊勢王、すなわち、羽田八代宿祢と考えられる。倭國造の祖の比香賀君は曾都毘古の義兄弟の日向諸縣君と思われる。そして、倭王の羽田矢代宿禰の娘の黒媛は墨江中津王妃で、伊莒弗と皇位を争った。
大雀と木兎宿祢は「鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子」と、名を交換した。木菟は建内大臣だが大雀(大別)は427年崩なので世代が異なる。同世代は尾綱根の子の稚彦である。すなわち、稚彦と毛良姫から建内大臣と女国王八田皇后へ350年に交代した。そして、印葉の孫が難波王、和珥臣の祖の難波根子武振熊なのだろう。仁徳六五年377年に「飛騨國有一人曰宿儺」を成敗している。印葉も「丸迩之比布禮能意富美」の子で、丸迩(和珥)臣の祖である。尾綱根の子の稚彦が丸迩(和珥)臣の祖に婿入りしたと思われる。稚彦に仕えた人々が伊与國に遷ったとあるが、女国王の輕大郎女が「流輕大娘皇女於伊豫」と伊与に流された。
「二年春三月辛未朔戊寅」の日干支は345年で磐之媛を皇后になったが347年に薨じた。「七年夏四月辛未朔」は九州の日干支である。316年に同じ内容があり、九州の説話を混入させたと思われる。襲津彦の娘を妃にした難波王は、実際に即位したのは、350年、八田皇女が女国王に即位した時と考えられる。従って、313年に難波で王位に就いたのは品陀眞若の説話と考えられる。「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」だ。品陀眞若が「課役並免」を3年続けたが、それほど、裕福ではなかったようだ。「十一年夏四月戊寅朔甲午」に堀江や茨田堤の灌漑を命じている。しかし、この日干支は354年の説話と考えられる。この頃、河内は開墾が盛んに行われ、ため池、用水を造らせたと思われる。難波根子と武内大臣の事業と思われる。
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