2023年8月14日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 履中天皇

  履中元年二月壬午朔に「伊莒弗連為大連」と伊莒弗が即位した。墨江中津王の反乱で磐余稚櫻宮天皇大連の五十琴宿祢が仁徳八七年399年に殺害されたからである。五十琴宿祢の皇后が引き続き皇后だったから、磐余稚櫻宮で統治した。実際の大萑は「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」で、丁卯年は427年で、395年からの在位である。履中元年七月己酉朔壬子に葦田宿禰の娘の黒媛を伊耶本和気は妃にした。伊耶本和気は「壬申年正月三日崩」と432年薨で、400年に妃を得たので20代、そうすると、50代薨でやや早死である。葛木葦田宿禰の娘を妃にして、大臣位を大別から奪った。

履中四年八月辛卯朔戊戌の「始之於諸國置國史記言事達四方志」は434年の日干支だ。允恭二三年にあたる。『舊事本紀』の允恭二十三年三月甲午朔庚子に「物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」の記事がある。九州の暦で、允恭二十三年は「立木梨輕皇子爲太子」、九州の倭王賛から珍への王朝交代の記事だ。力のある賛が崩じたので、國史を記述させたと考えられる。それで、朝廷がそれを使って『日本書紀』を記述した。

 そして、実際は、大前大連は木梨輕が即位できる年齢の前なので、大前が即位した。453年、新大連天皇に即位した記事の意味するところだ。大日下の長男の年齢からすると、義弟の木梨輕の年齢が想定できる。允恭二十三年は麥入が大連天皇に即位した時なのだろう。『舊事本紀』神皇本紀に「為大連」の即位記事がないのに、天孫本紀には「為大連」を記述する人物が存在する。大連は各連の頭領のことで、中臣連も系図に大連の記述がある。物部大連も天皇に即位した大連と頭領の大連が存在する。男浅津間若子の薨が454年甲午年正月十五日なので、『日本書紀』の453年崩の1年差の原因だ。432年に伊耶本和気が薨じ大臣の後継で混乱したことが原因で、権力が凋落し、朝廷が分裂して麥入が即位したのだろう。

履中五年三月戊午朔の「於筑紫所居三神・・・不祠」は倭王賛が高句麗に侵攻した記述。『好太王碑文』の「十四年・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と大敗した。それは、畿内政権が協力しなかったのも一因と賛は思ったのだろう。それで、倭国は中国の臣下になる決意をしたと考えられる。それが、この記事と思われる。秋九月乙酉朔壬寅の「飼部之黥」記事は日向から東征でやってきた人々に対する反感と思われる。十月甲寅朔甲子は「車持君行於筑紫國」と九州の暦である。磐余稚櫻皇后が崩じた記事なのだろう。履中六年春正月癸未朔戊子、「立草香幡梭皇女爲皇后」と伊莒弗の妃が皇后になって、遷都した。二月癸丑朔の「讃岐國造阿波國脚咋別凡二族之始祖也」から解るように、この時期もまだ阿波國は無い。淡島は島が国を意味するので、淡海・野洲国、淡道は野洲から敦賀への道を意味する。

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