2023年8月16日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 反正天皇

  河内丹比柴垣宮大連天皇は伊莒弗、皇后は草香幡梭皇女だ。倭國造の祖の比香賀君、すなわち、倭君の比香賀である。倭君は宮(八代)の王宿祢、すなわち、倭君波多八代宿禰と泉長比賣との娘と思われる玉彦姫だろう。髪長比賣の娘の草香幡梭は大長谷若建の妃で、世代が違う。允恭二三年に麥入宿祢と大前宿祢が大連になるので、遅くとも、433年頃には死亡している。伊耶本和気の薨が432年で「天皇玉體不悆水土不調」と、死に方が哀れで奇妙と述べている。おそらく、水歯別と伊耶本和気の間に争いがあったと思われる。それに対して、伊莒弗は「天皇崩干正寢」と穏やかな崩だったのに、皇位継承が不調で、しかも、遷都されなかった。

次代の麥入が遠飛鳥宮大連天皇なので、伊莒弗の崩の時、実権が女国に遷ったと考えられる。女国王は草香幡梭から忍坂大中津比賣に遷ったようだ。『日本書紀』は圓大使主を401年に挿入したため、伊莒弗大連が磐余稚櫻大連に含められたが、406年の間違いかもしれない。なぜなら、木兎宿祢は履中まで「執国政」だからだ。大酒主の孫の2代目大雀と大臣の後継者の木兎宿祢は名、即ち姓・役職を交換した。2代目大雀の初代圓大使主の伊耶本和気と難波根子の木兎宿祢・大別と思われる。2代目圓大臣は454年に男浅津間若子宿祢死亡時に木梨輕皇子を守って薨じた大前大臣にかわって大臣に就いた。

 『古事記』の水歯別は433年、王位について、丁丑年437年の七月に崩じた。水歯別は丸迩臣の許碁登の娘に婿入りし、大別の義弟で、大臣の家系である。大別と伊耶本和気と水歯別は薨が427年、432年、437年と近く、()兄弟の関係と思われる。男浅津間若子宿祢は宿祢とあるように遠飛鳥の王だ。454年の薨去年から考えると、伊耶本和気や水歯別の次の世代で、大別の子のようだ。在位中に大前大臣が就任し、首都が遠飛鳥宮になるように、妃の忍坂大中津比賣が女国の王で、434年に娘の長田大郎女が女国王になったようだ。

初代圓大使主の伊耶本和気が薨じ、大前大臣が434年就任した。大前の兄弟の小前は田部連の祖、母は田井連の祖で五十琴彦の孫だ。速總別の母は田部連の祖の娘で、妃は伊勢宮主の女鳥皇女、殺害されて、羽田八代宿祢が女国王を引き継ぐ。羽田八代宿祢は女鳥皇女の義兄弟と思われる。そして、大前と小前は速總別と女鳥皇女の孫や曾孫の可能性が高く、墨江中津王の後継者の可能性が高い。

 この反正天皇の在位期間は人質として在日して、日本が後見する腆支王が百濟王であった。朝鮮出兵が一段落し、伊莒弗は安定し、「人民富饒天下太平」と、灌漑や溜池のおかげで、繁栄したようだ。434年まで「神皇本紀」に「為大連」が記述されず、朝廷が統一されたと考えられ、大臣も権限が無かったと考えられる。それに対して、百濟が倭から離れたため、倭が畿内政権から離反した。倭は百濟と新羅を牽制して新羅を侵略しだ。その為、百濟は「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」と倭と融和しようとしたようだ。しかし、倭が百濟を倭領としたように、反目して孤立し、蘇賀氏が百濟と同盟したようだ。

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