2020年3月30日月曜日

最終兵器の目 武烈天皇2

 『日本書紀』慶長版は
冬十一月戊寅朔戊子大伴金村連謂太子曰真鳥賊可擊請討之太子曰天下將亂非希世之雄不能濟也能安之者其在連乎即與定謀於是大伴大連卒兵自將圍大臣宅縱火燔之所撝雲靡真鳥大臣恨事不濟知身難兔計窮望絁(?)廣指鹽詛遂被殺戮及其子弟詛時唯忘角鹿海鹽不以爲詛由是角鹿之鹽爲天皇所食餘海之鹽爲天皇所忌十二月大伴金村連平定賊訖反政太子請上尊號曰今億計天皇子唯有陛下億兆欣歸曾無與二又頼皇天翼戴淨除凶黨莫略雄斷以盛天威天祿日本必有主主日本者非陛下而誰伏願陛下仰荅靈祗弘宣景命光宅日本誕受銀鄕於是太子命有司設壇場於泊瀬列城陟天皇位遂定都焉是日以大伴金村連爲大連」
【冬十一月の朔が戊寅の戊子の日に、大伴の金村の連が、太子に「眞鳥を賊として討つべきだ。頼まれれば討ちます」と言った。太子は「天下が今乱れようとしている。世にまれな勇者でなければ、なしとげられない。鎮められるものそれは連ではないか」と言った。それで一緒に計略を決めた。それで、大伴の大連は軍を率いて自ら将軍となって、大臣の邸宅を囲んで。火を放って焼くように指図したら敵は雲を蹴散らすように逃げ去った。眞鳥の大臣は、事業を成し遂げられないことを恨みつつも、己の死が免れないことを知り、計略は身動きが出来なくなって望みが絶たれた。回りを指差して塩に呪いをかけた。それでとうとう斬り殺され、その子弟にも及んだ。呪う時に角鹿の海の塩だけ忘れて、呪わなかった。その為、角鹿の塩は、天皇が食べる物として、その他の塩を、天皇は忌み嫌った。十二月に、大伴の金村の連が、賊を平定し終わって、政務を太子に返し、天皇を名乗ることを要請して、「今、億計天皇の子は陛下だけです。万民がよろこんで落ち着くところは昔から二つとありません。また、 天をつかさどる神に頼んで、上位にいただくと、悪党を取り除いて清らかとなり誰もはかりごとをしない。勇ましい決断で天子の威光と天の恵みが満ち溢れる。日本には必ず主がいる。日本の主は陛下以外誰でしょうか。土下座してお願いします。陛下が、神々を崇めた答えが世の中に述べ広まって大命となり、立派な邸宅のような日本が生まれ輝く国を受け取ってください」と言った。それで、太子は、役人に命じて、祭壇を泊瀬の列城に設けて、天皇の位に登った。それで都を定めた。この日に、大伴の金村の連を大連とした。】とある。
前項に続いて、この時の清寧天皇の太子は仁賢天皇で、この時に顕宗天皇に譲ったと顕宗天皇紀に記述され、『古事記』では「今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也」と鮪が殺害されただけになっていて、鮪が平群氏の祖なのだだから、鮪が真鳥を襲名し殺害され、大魚との子の襲名した鮪は存命だった可能性がある。
そして、逆上して皇太子の鮪を殺してしまった仁賢天皇は大伴の室屋を頼って、室屋が天皇を殺害して平群王朝を崩壊させたのだろう。
また、『古事記』の「凡朝庭人等者旦参赴於朝庭昼集於志毘門」と朝には、朝廷に出仕してその後鮪の所に赴くと記述しているのは、真鳥が天皇で、朝、真鳥の所に出仕して挨拶し、実質政務を行う皇太子の鮪の所で政務を行うことを意味している。
そして、「反政太子」と、もし、本当に太子なら政を返すとの記述は異様で、元々天皇が崩じたら、太子が政務を行い返されるいわれが無く、やはり、実態は平群氏が天皇で、それを、室屋が滅亡させ、仁賢天皇に天皇位を「定策禁中」で委ねたことを意味している。
しかし、逆賊である仁賢天皇、しかも、平群氏の皇后になるべき女性を横から奪おうとした仁賢天皇に人望が集まるはずが無く、弟の顕宗天皇に皇位を譲ったことが真相なのではないだろうか。


2020年3月27日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十六 武烈天皇1

 『日本書紀』慶長版は
小泊瀬稚鷦鷯天皇億計天皇太子也母曰春日大娘皇后億計天皇七年立爲皇太子長好刑理法令分明日晏坐朝幽枉必達斷獄得情又頻造諸惡不修一善凡諸酷刑無不親覽國內居人咸皆震怖十一年八月億計天皇崩大臣平群真鳥臣專擅國政欲王日本陽爲太子營了即自居觸事驕慢都無臣節於是太子思欲聘物部麁鹿火大連女影媛遺媒人向影媛宅期會影媛曽姧真鳥大臣男鮪恐違太子所期報曰妾望奉待海柘榴市巷由是太子欲往期處遣近侍舍人就平群大臣宅奉太
子命求索官馬大臣戲言陽進曰官馬爲誰飼養隨命而已久之不進太子懷恨忍不發顏果之所期立歌場衆執影媛袖躑躅從容俄而鮪臣來排太子與影媛間立由是太子放影媛袖移𢌞向前立直當鮪歌曰之裒世能儺鳴理鳴彌黎磨阿蘇寐倶屢思寐我簸多泥伱都都摩陀氐理弥喩鮪荅歌曰
飫瀰能古能耶陛耶哿羅哿枳瑜屢世登耶瀰古太子歌曰飫裒陀㨖鳴多黎播枳多㨖氐農哿儒登慕湏衞婆陀志氐謀阿波夢登茹於謀賦鮪臣荅歌曰飫裒枳瀰能耶陛能矩瀰哿枳哿哿梅騰謀儺嗚阿摩之耳弥哿哿農倶弥柯枳太子歌曰於弥能姑能耶賦能之魔柯枳始陀騰余瀰那爲我與釐據魔耶黎夢之魔柯枳太子贈影媛歌曰舉騰我瀰伱枳謂屢箇皚比謎?()摩儺羅磨婀我裒屢?(柁)摩能婀波寐之羅陀魔鮪臣爲影媛荅歌曰於裒枳瀰能瀰於寐能之都波?()夢湏寐陀黎陀黎耶始比登謀阿避於謀婆儺倶伱太子甫知鮪曾得影媛悉覺父子無敬之狀赫然大怒此夜速向大伴金村連宅會兵計策大伴連將數千兵傲之於路戮鮪臣於乃樂山是時影媛逐行戮處見是戮已驚惶失所悲淚盈目遂作歌曰伊湏能箇瀰賦屢嗚湏擬底舉慕摩矩羅?()箇播志湏擬慕能娑幡伱於裒野該湏擬播屢比箇湏我嗚湏擬逗摩御暮屢嗚佐裒嗚湏擬?()摩該伱播伊比佐倍母理柂摩暮比伱瀰逗佐倍母理儺岐曽裒遲喩倶謀柯㝵比謎阿婆例於是影媛收埋既畢臨欲還家悲鯁而言苦哉今日失我愛夫即便灑涕愴矣纏心歌曰婀嗚伱與志乃樂能婆娑摩伱斯斯貳暮能瀰逗矩陛御暮梨瀰儺曽曽矩思寐能和倶吾嗚阿娑理逗那偉能古
小泊瀬の稚鷦鷯天皇は、億計天皇の太子だ。母は春日の大娘皇后という。億計天皇の七年に、皇太子に立った。生長して法や道理に興味を持って、決まりを明らかにして分類した。昼間から遅くまで朝廷に居て、かすかにねじ曲がった事を必ず見つけ出して、裁きを決断して、真理を得た。またしきりに諸々の悪事をこしらえ、ひとつも善い事に目を向けなかった。おおよそ諸々の極刑を見ないことは無かった。国内の人々は、残らず皆震え怯えた。十一年の八月に、億計天皇が崩じた。大臣の平群の眞鳥の臣が、一人で国政をほしいままにして、日本の王になろうと思った。太子の為にといつわって陣屋をつくり、終わると直ぐに自分が入った。傲慢にも政策を司どり、臣下としての節度も無く取りまとめた。あるとき、太子は、物部の麁鹿火の大連の娘の影媛を呼び寄せようとして、仲立ちを派遣して、影媛の邸宅に向わせて会う約束をした。影媛は、それより前に眞鳥の大臣の子の鮪と恋仲だった。太子との約束を違えることになる事を恐れて、「私は出来ましたら、海柘榴市の街中で待っています」と報告した。そのため、太子は、約束の場所に行こうとした。近習の臣下を派遣して、平群の大臣の邸宅に赴いて、太子の命令を奏上して、官馬を請い求めた。大臣は、ふざけて「官馬は誰のために飼っているか。思いのままに」と偽って、ちっとも献上しなかった。太子は、恨みを胸にしまい、忍んで顔に出さなかった。それで約束の所は多くの男女が歌を交換する人々が立っていた。それで影媛の袖を掴んで、つつじの木の所に誘った。しばらくして鮪臣がやって来て、太子と影媛との間に押しのけて立った。それで、太子は、影媛の袖を放して、移動して鮪の前に直接向かい合って歌った()。鮪は、歌で答えた()。太子が歌った()。鮪臣が歌って答えた()。太子が歌った()。太子は、影媛に歌を贈った()。鮪臣が影媛の為に歌って答えた()。太子は初めて鮪が以前から影媛を得ていたことを知った。平群大臣親子が全てにおいて敬意が無い様子が解って、顔色を変えて大変怒り狂った。その夜、すぐに大伴の金村の連の邸宅に向って、軍隊を集めて策略を練った。大伴の連は、数千の兵士を率いて、道の上で待ち伏せて、鮪臣を乃樂山で斬り殺した。この時に、影媛が、斬り殺された所に行きつくと、既に斬り殺された姿を見た。驚き恐れおののいて当てもなくさまよい、余の悲しさに涙を流し目から溢れ落ちた。そして歌を作った()。それで影媛が鮪を埋葬し終わって、家に帰ろうとして、小骨でも刺さったような声でむせび泣いて、「苦々しいことだ。今日、私の吾する夫を失なった」と言った。それで涙を流して泣き悲しみに包まれて歌った()。】とある。
『日本書紀』は武烈紀に鮪との確執を記述しているが、『古事記』では清寧記に「平群臣之祖名志毘臣」、「凡朝廷人等者且(旦)参赴於朝廷晝集於志毘門亦今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也」と記述し、この理由を、『日本書紀』はこの時期の記事を推古天皇が記述し、『古事記』が仁賢天皇によって記述されたことから、清寧記に起こったとのべ、武烈紀に『日本書紀』が記述したのは498年頃に事件が起こったからだと前項で述べた。
『舊事本紀』には「大伴室屋大連平群真鳥大連並如」と金村ではなく室屋が同時代の人物と記述され、「冬十月己巳朔壬申大伴室屋大連率臣連奉璽於太子」と室屋が天皇の璽を奉じ、内容も臣下が天皇を推挙する「定策禁中」そのもので、鮪を斬り殺した時に、まだ、大連に就任していないのに大連と記述され、『舊事本紀』で天皇の璽を奉じた時に室屋大連と呼ばれていて、大連就任前に大連と呼ばれているのと合致する。
すなわち、ここから『日本書紀』の記述方法がよくわかり、天皇や皇太子は特定しないで対象の重要人物のみ実名を記述し、干支が解っている実際に発生した実年代に当てはめ、当て嵌めた時代の天皇の頃の重要人物に対応する氏族を当て嵌め、天皇の時代の同じ氏族の人物に名を書き換えるという手法で、私たちは、当て嵌めた天皇の時の人物は各氏族が誰であるか特定できる『舊事本紀』のような資料を持っている。
そうすると、この大伴大連は室屋だったが、武烈天皇の時の大伴氏は金村という資料があるので金村に変更する、また、菟田の首達とは物部氏の一族であったと考えられ、物部氏にとっては真鳥も大臣ではなく大連と呼んでいることから、大連は皇位継承権をもつ皇太子と同等の大王だったことがわかる。
そして、大伴金村の祖父若しくは叔父の室屋の頃、仁賢天皇が清寧天皇が鮪の時代に清寧天皇を殺害して、臣下が 定策禁中で顕宗天皇を指名し、その後、仁賢天皇が皇位を簒奪した可能性が高い。

2020年3月25日水曜日

最終兵器の目 仁賢天皇2

 『日本書紀』慶長版は
五年春二月丁亥朔辛卯普求國郡散亡佐伯部以佐伯部仲子之後爲佐伯造六年秋九月巳酉朔壬子遣日鷹吉士使髙麗召巧手者是秋日鷹吉士被遣後有女人居于難波御津哭之曰於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫?()怜矣哭聲甚哀令人斷腸菱城邑人鹿父聞而向前曰何哭之哀甚若此乎女人荅曰秋葱之轉雙納可思惟矣鹿父曰諾即知所言矣有同伴者不悟其意問曰何以知乎荅曰難波玉作部鯽魚女嫁於韓白水郎𤳉生哭女哭女嫁於住道人山杵生飽田女韓白水郎𤳉與其女哭女曾既倶死住道人山寸(杵)上姧玉作部鯽魚女生麁寸麁寸娶飽田女於是麁寸從日鷹吉士發向髙麗由是其妻飽田女徘徊顧戀失緖傷心哭聲尤切令人腸斷是歲日鷹吉士還自髙麗獻工匠湏流枳奴流枳等今倭國山邊郡額田邑熟皮髙麗是其後也七年春正月丁未朔已酉立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子八年冬十月百姓言是時國中無事吏稱其官海內歸仁民安其業是歲五穀登衍蠶麥善收遠近清平戸口滋殖焉十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩于正寢十月已酉朔癸丑葬埴生坂本陵
五年の春二月の朔が丁亥の辛卯の日に、広く国郡に散り逃れた佐伯部を探した。佐伯部の仲子が後に、佐伯造となった。六年の秋九月の朔が己酉の壬子の日に、日鷹吉士を、高麗に使者として派遣して、技術者を招待した。この秋に、日鷹の吉士が遣使された後に、女が、難波の御津にいて、「母にも大事な人、私にも大事な人。優しい私の夫の哀れなことか」と声をあげてないた。泣き声は、とても哀れで、はらわたが断ち切れるようだった。菱城の邑の人の鹿父がそれを聞いて前に立って、「泣き声の哀れなこと、どうしてこのように甚だしいのか」と言った。女は、「秋の葱が二つぐるっと重なって、袋の中にあるのを考えてください」と答えた。鹿父は、「解った」と言った。それで言う意味を知った。一緒に居た者は、その意味が解らないで、「どうしてわかったのか」と問いかけた。「難波の玉作部の鯽魚が韓白水郎𤳉に嫁いで、哭女を生んだ。哭女は、住道の人の山杵に嫁いで、飽田女を生んだ。韓白水郎𤳉とその娘の哭女とは、共に、すでに死んだ。住道の人の山杵は、以前、玉作部鯽魚女に、麁寸を生ませた。麁寸は、飽田女を娶った。麁寸は、日鷹の吉士について、高麗にだって向かった。このために、その妻の飽田女は、あてもなく歩き回り、いとおしく思い、心を乱して、傷ついた。泣き叫ぶ声は、とても切なく、はらわたが断ち切れるようだった。」と答えた。この歳に、日鷹の吉士は、高麗から還って、技術者の須流枳と奴流枳等を献上した。今、大倭国の山邊の郡の額田の邑の熟皮の高麗は、この子孫だ。七年の春正月の朔が丁未の己酉の日に、小泊瀬の稚鷦鷯の尊を皇太子に立てた。八年の冬十月に、百姓が「この時、国中は何事もなく、官吏は、その官位道理に呼ばれた。黄海も、思いやりの心を取り戻し、民は、それぞれの仕事は何事も無かった」と言った。この歳は、五穀はたくさん収穫でき、蚕や麦を多く納められた。遠くも近くも清々しく平穏で、門の垣根が益々大きくなった。十一年の秋八月の朔が庚戌の丁巳の日に、天皇は、正殿で崩じた。冬十月の朔が己酉の癸丑の日に、埴生の坂本の陵に葬っむった。】とあり、朔日の日干支は標準陰暦と合致する。
朔日の日干支が間違いないと言うことは、実際に498年にある天皇が崩じ、善政を行ったこの崩じた天皇は平群氏の天皇で、何代目かの真鳥だったのであり、このあと、鮪が継承すべきだったがまだ成人していないため、飯豊姫が皇位に就き、鮪が皇太子であった可能性が高い。
そして、飯豊姫の従弟の顕宗・仁賢兄弟を迎え入れ、鮪が成人して真鳥を襲名して皇位を継ごうとした時、顕宗・仁賢兄弟が鮪を殺害して王朝を奪取したと考えられ、『日本書紀』は武烈天皇の記述の中に詳しく述べた。
そして、ここの立太子は、本来立太子が倭国の王朝交代で、494年は武が『宋書』「順帝昇明二年遣使上表」のから478年から『梁書』「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」の502年は武が在位していて、仁賢7年の立太子はおそらく武烈7年505年に倭国の王朝交代があり、磐井が即位したと考えられる。
『三国史記』には高句麗の文咨明王494年に「三年・・・秋七月我軍與新羅人戰於薩水之原羅人敗保犬牙城我兵圍之百濟遣兵三千援新羅我兵引退」、497年に「六年秋八月遣兵攻新羅牛山城取之」、新羅の炤知麻立干497年に「十九年夏四月倭人犯邊秋七月旱蝗命羣官擧才堪牧民者各一人八月高句麗攻陷牛山城 」と日本の友国の倭と高句麗が共同して新羅を討ち友好関係にあったと思われ、高句麗との交流があり、『梁書』の「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と高句麗の冠位が導入されたこととよく対応する。 

2020年3月23日月曜日

最終兵器の目 仁賢天皇1

 『日本書紀』慶長版は   ※袁祁(顕宗・弘計)
億計天皇諱大脚字嶋郎弘計天皇同母兄也幼聰頴才敏多識壯而仁惠謙恕温慈及穴穗天皇崩避難於丹波國余社郡白髮天皇元年冬十一月播磨國司山部連小楯詣京求迎白髮天皇尋遣小楯持節將左右舍人至赤石奉迎二年夏四月遂立億計天皇爲皇太子五年白髮天皇崩天皇以天下讓弘計天皇爲皇太子如故三年夏四月弘計天皇崩元年春正月辛巳朔乙酉皇太子於石上廣髙宮即天皇位二月辛亥朔壬子立前妃春日大娘皇女爲皇后遂産一男六女其一曰髙橋大娘皇女其二曰朝嬬皇女其三曰手白香皇女其四曰樟氷皇女其五曰橘皇女其六曰小泊瀬稚鷦鷯天皇及有天下都泊瀬列城其七曰真稚皇女次和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲春日山田皇女冬十月丁未朔已酉葬弘計天皇于傍丘磐杯丘陵是歲也太歲戊辰二年秋九月難波小野皇后恐宿不敬自死三年春二月已巳朔置石上部舍人四年夏五月的臣蚊嶋穗允君有罪皆下獄死
【億計天皇は、諱を大脚といい、字名は、嶋郎で、弘計天皇の同母兄だ。幼い時から聡明で優れ、才能は大人になったら思いやりが有って人々を可愛がり、遜り、思いやりが有って穏やかで慈しんだ。穴穗天皇が崩じて、危険を察して丹波の余社の郡に逃げた。白髮天皇の元年の冬十一月に、播磨國司の山部の連の小楯が、京に参上して迎えるように求めた。白髮天皇は、それを聞いて、小楯を派遣して、迎えの印の太刀を持って、近習を引き連れて、赤石にやって来て迎えた。二年の夏四月に、ついに億計天皇を皇太子に立てた。五年に、白髮天皇が、崩じた。天皇は、天下を弘計天皇に讓った。皇太子と為ったのは以前のとおりだ。三年の夏四月に、弘計天皇が、崩じた。元年の春正月の朔が辛巳の乙酉の日に、皇太子は、石上の廣高の宮で、天皇位に即位した。二月の朔が辛亥の壬子の日に、前妃の春日の大娘皇女を皇后とした。春日の大娘皇女は、一人の男子と六人の姫を産んだ。その一を高橋の大娘皇女という。その二を朝嬬の皇女という。その三を手白香の皇女という。その四を樟氷の皇女という。その五を橘の皇女という。その六を小泊瀬の稚鷦鷯の天皇という。天下を治めたときは、泊瀬の列城を都とした。その七を眞稚の皇女という。その次の妃の和珥臣の日爪の娘の糠君の娘が、一人の姫を生んだ。これを春日の山田の皇女という。冬十月の朔が丁未の己酉の日に、弘計天皇を傍丘の磐杯の丘の陵に葬った。この歳は、太歳戌辰だった。二年の秋九月に、難波の小野皇后が、天皇に対して
敬意を欠いた言動をしたことを恐れて、自ら死んだ。三年の春二月の己巳が朔の日に、石上部の舍人を置いた。四年の夏五月に、的の臣蚊嶋と穗瓮の君は罪が有ったので、二人とも獄死した。】とあり、元年正月辛巳朔は487年12月30日で大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、冬十月丁未朔は1月異なり、他は標準陰暦と合致する。
弘計天皇を葬った10月の日付が異なるが、この朔日に合致するのが519年で、実際の死亡が518年か前方後円墳を造るのに年数がかかったか確定は出来ないが、『古事記』は顕宗天皇が袁祁(えけ・おけ)で仁賢天皇は推古天皇の時代に『梁書』の「國王爲乙祁」をもとに文字意祁(いけ)を億計とおけに読める文字に当てた可能性がある。
同様に、『日本書紀』を記述した雄略天皇は『史記』・『漢書』・『三国志』が日本人を倭人と記述した為、三輪の意味が神国の輪だったものを神国の倭と記述し、日本と言う名も既に葛城王朝時には神功紀の「新羅王・・・吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と呼ばれていた可能性が高い。
そして、巨勢王朝は日本を『三海經』の扶桑から扶桑国と名乗り、日本を倭と書き換えて『古事記』を記述し、倭国の分裂で、その東側の倭国を中国の漢王朝に認められたと大漢国、同じく『三海經』の「三身国」から別れた国として「分身国」と名のった可能性がある。
すなわち顕宗天皇が梁初に在位した天皇で518年まで在位した可能性が有り、顕宗天皇の兄が皇太子から退位させられ、2代目の顕宗天皇が継ぎ、2代目を1代目の兄が殺害して仁賢天皇が皇位を簒奪したのではないだろうか。
そのため、本来前皇后は皇太后として迎え入れるのが通常だが、皇位を簒奪した為、前皇后も共に殺害した可能性が高く、皇位の正当性を認めさせるため、和珥臣の姫で雄略天皇の3・4世代末裔の姫を皇后にし、妃も和珥臣の娘で天皇の血統の持ち主である。
なお、的臣蚊嶋穗允君有罪皆下獄死」は唐突で意味不明だが、任那の再興の説話に的臣が記述されており、その資料から記述されたものと思われ、前回の「紀の生磐の宿禰が神聖と三韓の王」と同様に葛城王家が朝鮮経営を継続し、的臣は平郡氏の王家を書いたと思われる仁徳紀に記述されて葛城氏の人物と考えられ、葛城王家の王なので臣ではなく宿禰で「的臣祖盾人宿禰」と記述され、臣の賜姓は葛城氏が天皇家から降格した雄略以降だ
物部連や尾張連のように賜姓されると言うことは、それ以前は姓のいらない天皇家だった、天皇家から降格した時に後の天皇家から姓を与えられる、すなわち、天皇家に姓がないことを意味している。

2020年3月20日金曜日

最終兵器の目 顯宗天皇5


 『日本書紀』慶長版は
三年春二月已 朔阿閇臣事代銜命出使于任那於是月神著人謂之曰我祖髙皇産靈有預鎔造天地之功宜以民地奉我月神若依請獻我當福慶事代由是還京具奏奉以歌荒樔田(歌荒田者在山背國葛野郡)壹伎縣主先祖押見宿祢侍祠三月上巳幸後苑曲水宴夏四月丙辰朔庚申日神著人謂阿閇臣事代曰以磐余田獻我祖髙皇産靈事代便奏依神乞獻田十四町對馬下縣直侍祠戊辰置福草部庚辰天皇崩于八釣宮是歲紀生磐宿祢跨據任那交通髙麗將西王三韓整脩宮府自稱神聖用任那左魯那奇他甲肖等計殺百濟適莫爾解於爾林築帶山城距守東道斷運粮津令軍飢困百濟王大怒遣領軍古爾解內頭莫古解等率衆趣于帶山攻於是生磐宿祢進軍逆擊膽氣益
壯所向皆破以一當百俄而兵盡力竭知事不濟自任那歸由是百濟國殺佐魯那奇他甲肖等三百餘人
【三年の春二月の丁巳が朔の日に、阿閉の臣の事代が、命令を受けて、任那へ使者として赴いた。ここに、月神が、人にとりついて、「私の祖の高皇産靈は、天地を分けて国を造った功績が有る。民の地を、私月神に奉納しなさい。もし望むように私に献上すれば、良いことがあるだろう」と言い、事代は、このため、みやこに還って詳しく奏上した。歌荒樔田に奉納した。壹伎の縣主の先祖の押見の宿禰が祠で仕えた。三月の上の巳の日に、裏庭に出てきて、曲水の宴を開催した。夏四月の朔が丙辰の庚申の日に、日神が、人にとりついて、阿閉の臣の事代に「磐余の田を、私の祖の高皇産靈に献上しなさい」と言った。事代は、それで奏上した。神が命ずるままに田を十四町献上した。對馬の下縣の直が、祠で仕えた。戊辰の日に、福草部を置いた。庚辰の日に、天皇は、八釣の宮で崩じた。この歳、紀の生磐の宿禰は、任那から馬に跨って、高麗へ遣使した。西では、三韓の王として、官府を整えて治め、自らを神聖と名乗った。任那の左魯や那奇他甲背等が謀って、百済の適莫爾解を爾林で殺した。帯山城を築いて、東道を防衛した。兵糧を運ぶ港が絶たれて、軍が飢えて困った。百済の王が、大変怒って、領軍の古爾解と内頭の莫古解達を派遣して、兵を率いて帯山に赴いて攻めた。そこで、生磐の宿禰は、軍を進めて反撃した。物事に驚き恐れない気力が益々大きくて、向かってくる敵を皆破った。一人で百人に敵対したが、しばらくすると、武器も尽き力も尽きた。勝つことが出来ないことを知って、任那から帰国した。それで、百済の国は、佐魯や那奇他甲背たち三百余人を殺した。】とあり、標準陰暦と合致する。
以前、『日本書紀』の清寧天皇三年の億計王爲皇太子が「四月乙酉朔」とされているが、『舊事本紀』は「四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子」と異なっていて、西暦502年閏4月2日が己丑で、4月は小の月になっていて、大の月なら閏4月1日となり、実際の億計王の立太子は502年の可能性があると記述した。
502年は武寧王元年で、『三国史記』の元年に「春正月佐平苩加據加林城叛王帥兵馬至牛頭城命扞率解明討之苩加出降王斬之投於白江」と同じ文字「解」をもつ人物が内乱を起こし、503年に「二年・・・冬十一月遣兵侵高句麗邊境」と高句麗と戦っていて、同様に高句麗文咨明王に「十一年・・・冬十一月百濟犯境」と合致している。
そして、この時代には自王朝の先祖が対馬と壱岐が出身地と理解しており、その仲介者が大巳貴の子の事代主と同名の事代で、阿閉臣の氏族の神話が『古事記』の神話の基で、その理解のもとに仁賢天皇が『古事記』を記述したことを理解しなければならないと思われる。
また、紀の生磐の宿禰が神聖と三韓の王を名乗ったが、紀は仲足彦が神功皇后を北陸に置いて赴き、この地から筑紫で神功皇后と再会していて、仲足彦が紀国を背景とした王と述べ、紀の宿禰はその紀国の王で仲足彦の末裔の「なか国王」として行動している。
そして、神功皇后紀前紀に「新羅王・・・曰吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」とまさしく神聖王が記述され、垂仁紀にも「天日槍對曰僕新羅國主之子也然聞日本國有聖皇」と古くから聖王と日本は朝鮮に対して名乗り、辰国→神国(日本・扶桑国)→秦国→秦王国と国名を呼ばれてきたことを継承し、紀生磐宿禰は当然の事とし、当然この三韓は辰韓・弁韓・馬韓の三韓で、『三国志』の「辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國」、『後漢書』の「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦・・・似秦語故或名之為秦韓」、『晋書』の「辰韓在馬韓之東自言秦之亡人避役入韓韓割東界以居之立城柵言語有類秦人由是或謂之爲秦韓」と『日本書紀』は同じことを述べている。
朝鮮語の読みは解らないが、辰と秦は読みが日本語で「しん」だが中国語では「chén」と「qin全く違い、辰韓が言う古老の秦では意味が通じないし「秦語」は中国語で、3世紀から7世紀までの中国の史書は「辰」→「秦」を共通の理解とし、その「秦」が『梁書』に「秦王国」と表記されている。

2020年3月18日水曜日

最終兵器の目 顯宗天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二年春三月上巳幸後苑曲水宴是時喜集公卿大夫臣連國造伴造爲宴群臣頻稱萬歲秋八月巳未朔天皇謂皇太子億計曰吾父先王無罪而大泊瀬天皇射殺棄骨郊野至今未獲憤歎盈懷臥泣行號志雪讎耻吾聞父之讎不與共戴天兄弟之讎不反兵交遊之讎不同國夫匹夫之子居父母之讎寢苫枕干不與共國遇諸市朝不反兵而便鬪況吾立爲天子二年于今矣願壞其陵摧骨投散今以此報不亦孝乎皇太子億計歔欷不能荅乃諫曰不可大泊瀬天皇正統萬機臨照天下華夷欣仰天皇之身也吾父先王雖是天皇之子邁遇迍邅不登天位以此觀之尊卑惟別而忍壞陵墓誰人主
以奉天之靈其不可毀一也又天皇與億計曽不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩豈臨寶位大泊瀬天皇白髮天皇之父也億計聞諸老賢老賢曰言無不詶德無不報有恩不報敗俗之深者也陛下饗國德行廣聞於天下而毀陵翻見於華裔億計恐其不可以莅國子民也其不可毀二也天皇曰善哉令罷役
九月置目老困乞還曰氣力衰邁老耄虛羸要假扶繩不能進步願歸桑梓以送厥終天皇聞帵痛賜物千段逆傷岐路重感難期乃賜歌曰於岐毎慕與阿甫彌能於岐毎阿湏用利簸弥野磨我倶利底弥曳?(孺)哿謨阿羅牟冬十月戊午朔癸亥宴群臣是時天下安平民無徭役歲比登稔百姓殷富稻解銀錢一文馬被野
【二年の春三月の上巳の日に、裏庭に出てきて、曲水の宴を催した。この時に、喜々として公卿大夫・臣・連・国造・伴造を集めて、宴を催した。役人達も、繰り返し繰り返し、万歳を唱えた。秋八月の己未が朔の日に、天皇は、皇太子の億計に「私の父、先の王は、何の罪も無かった。それなのに大泊瀬の天皇は射殺して、亡骸を郊外の野原に棄て、今になってもまだ探せていない。憤り歎く気持ちがあふれている。臥って泣き、叫び歩いて、恥に報いて雪のように清くしようと考えた。私は父の敵と共に天を戴くことが出来ないと聞いた。兄弟の敵には、軍を引かず、親しく交際する者の敵とは、同じ国に居られない。賤しい者の子でも、父母の敵が居たら、こもに寝て、手すりを枕にして同じ国に住まない。市井や宮中のための軍を返さないで戦う。ました、私は天子となってもはや2年経った。できたら、敵の陵を壊して、骨をこなごなにして投げ散らしたい。今、このように報復しなければ、親孝行ではない」と言った。皇太子の億計はすすり泣いて答えることが出来なかった。それで「だめです。大泊瀬の天皇は成務を正しく治めて、天下に臨んですみずみまで行き届いた。我が国も従属する国も、喜んで崇めるのは、天皇だからだ。私の父の先の王は、天皇の子と言っても、悩みや苦しみに遭って、天皇位に登ってはいない。それで、どちらが尊くどちらが賤しいかはわかる。それなのに隠れて陵墓を壊せば、誰を人の主として天の靈に仕えられましょう。陵墓を壊してはならない理由の一つだ。また天皇と億計に会った白髮天皇が手厚く可愛がり、特別に情けをかけてもらえなかったら、どうして皇位に就けたのでしょうか。大泊瀬の天皇は、白髮の天皇の父だ。いろいろな老賢に聞くと、『言葉が無くては返答も無い。徳が無ければその報酬も無い。情けをかけて、それに応えないのは人々の気持ちを根底から損なう。』と言った。陛下は、国中をもてなし、徳行は、広く天下に聞えている。それなのに陵墓を壊すと、翻って国と支配地を見れば、おそらく、それで国を治め人民を子とはできない。これが陵墓を壊してはならない理由の2番目だ」と諫めた。天皇は「なるほど」と言って、陵墓を壊すことを止めさせた。九月に、置目が、老いて体の自由が利かなくなって、「気力が衰え、どんどん老いぼれて病んでやつれた。仮に縄の助けが有っても一人で歩き進むことが出来ない。できましたら、故郷(桑梓:詩経小雅小弁「維桑與梓必恭敬止靡瞻匪父靡依匪母)に帰って、その最期を送りたい」と国に帰りたいと望んだ。天皇は、それを聞いて、布を裂くように痛々しく思い、千着分の布を与えた。反対の路に別れることを痛く悲しみ歌った()冬十月の朔が戊午の癸亥の日に、群臣を饗応した。この時に、天下、平安で、人民は、労役が無かった。毎年毎年稔りが増えて、百姓はとても富んだ。稲10斗が銀銭一文で、馬が、野にいっぱいに増えた。】とあり、標準陰暦と合致する。
実際のこの天皇が在位した斉末梁初は『梁書』に「齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云」と斉末499年に日本の僧の言葉として、「名國王爲乙祁」と国王の名が「おけ」と記述し、その頃、
宋の何承天、斉の劉孝孫、隋の劉焯らが私の標準陰暦で採用している太陽の黄経と月の黄経が一致する日を朔日とする、本当に朔を含む日を朔日としようとする暦への変更を推進している。しかし、唐まで採用されずに、月の満ち欠けの周期の計算をもとに、朔を含む日を朔日となるように大小の月を振り分けた平朔法だったので、私の標準陰暦と大小の月との違いを問わなかった。
『魏略』に「不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」、『晋書』にも「不知正歳四節但計秋收之時以爲年紀」、『梁書』に「俗不知正歳多壽考多至八九十或至百歳」とあるように、暦を人々に公布していなかったからで、おそらく、『日本書紀』の暦は見たとおりの朔を記録し続けたと思われるし、今まで見てきた通り、朔日だけに関しては、誤差が大小の月だけなのだから、十分検討に値するし、最後に、検証結果を記述したいと思っている。
『山海經』の「有湯谷湯谷上有扶桑」「東海之外甘水之閒有羲和之國・・・羲和者帝俊之妻」、『史記』に「帝堯・・・命羲和,敬順昊天,數法日月星辰・・・居郁夷曰暘谷敬道日出・・・便程東作日中星鳥以殷中春・・・以正中夏・・・以正中秋・・・以正中冬・・・歲三百六十六日以閏月正四時」と 帝堯が夷の暘谷(湯谷)に住む帝俊の妻の羲和に暦を創らせて、中気の二至二分も記述されている。
すなわち、日本の支配者はこれらの二至二分を知り、そして、春耕秋収だけ知っていれば耕作できるなどと言うのは乱暴すぎ、冬至から何日目頃に土地を耕し、水を引いて水温を考えて種まきをしなければ農耕などできない。
稲作は3千年以前から始まり、紀元前600年頃は当然これらの知識があったと思われ、支配者の知識と指示によって稲作の出来不出来が決まり、その結果を記録し続けたものが日干支の記録であったのだろう。
ところが、『日本書紀』も『古事記』も顯宗天皇は道理を知らないで、ただ意趣返しに雄略天皇陵を壊せと命じ、皇太子の仁賢天皇が居なかったら止めることが出来なかったと記述し、その他にも、曲水の宴などを何度も開き、おそらく、国が栄えているのは成務を担う皇太子の仁賢天皇のおかげと記述しているのである。
すなわち、無能な顯宗天皇が天皇であることを否定的に記述して、仁賢天皇の正当性を強調しているが、それは、本来仁賢天皇は皇位にふさわしくない天皇、本来兄で皇太子だった人物が天皇に即位できず、定策禁中と臣下が皇太子の仁賢天皇を排して顯宗天皇を即位させたということは、臣下が認めなかったのである。
そして、在位3年で後継者が生まれる前に仁賢天皇より若い顯宗天皇が崩じることはあまりありそうもなく、暗殺された可能性があり、実際の事績は武烈天皇の事績が仁賢天皇の内容で、古事記は仁賢天皇によって王朝が崩壊したため仁賢天皇の事績を書けなかった可能性がある。

2020年3月16日月曜日

最終兵器の目 顯宗天皇3

  『日本書紀』慶長版は
元年春正月已巳朔大臣大連等奏言皇太子億計聖德明茂奉讓天下陛下正統當奉鴻緖爲郊廟主承續祖無窮之列上當天心下厭民望而不肯踐祚遂令金銀蕃國群僚遠近莫不失望天命有属皇太子推讓聖德弥盛福祚禮章?()而勤謙恭慈順宜奉兄命承統大業制曰可乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮即天皇位百官陪位者皆忻忻焉是月立皇后難波小野王赦天下二月戊戌朔壬寅詔曰先王遭離多難殞命荒郊朕在幼年亡逃自匿猥遇求迎升纂大業廣求御骨莫能知者詔畢與皇太子億計泣哭憤惋不能自勝是月召聚耆宿天皇親歷問有一老嫗進曰置目知御骨埋處請以奉示於是天皇與皇太子億計將老嫗婦幸于近江國來田綿蚊屋野中掘出而見果如婦語臨穴哀號言深更慟自古以來莫如斯酷仲子之尸交横御骨莫能別者爰有磐坂皇子之乳母奏曰仲子者上齒墮落以斯可別於是雖由乳母相別髑髏而竟難別四攴諸骨由是仍於蚊屋野中造起雙陵相似如一葬儀無異詔老嫗置目居于宮傍近處優崇賜䘏使無乏少是月詔曰老嫗伶俜羸弱不便
行步冝張繩引絙扶而出入繩端懸鐸無勞謁者入則鳴之朕知汝到於是老嫗奉詔嗚鐸而進天皇遙聞鐸聲歌曰阿佐膩簸囉嗚贈祢嗚湏擬謨謀逗?()甫奴底喩羅倶慕與於岐毎倶羅之慕三月上已幸後苑曲水宴夏四月丁酉朔丁未詔曰凡人主之所以勸民者惟授官也國之所以興者惟賞功也夫前播磨國司來目部小楯求迎舉朕厥功茂鳥所志願勿難言小楯謝曰山官宿所願乃拜山官改賜姓山部連氏以吉備臣爲副以山守部爲民褒善顯功酬恩荅厚寵愛殊絶富莫能儔五月狹狹城山君韓帒宿祢事連謀殺皇子押磐臨誅叩頭言詞極哀天皇不忍加戮充陵戸兼守山削除
籍帳隸山部連惟倭帒宿祢因妹置目之功仍賜本姓狹狹城山君氏六月幸避暑殿奏樂會群臣設以酒食是年也太歲乙丑
【元年の春正月の己巳が朔の日に、大臣や大連達が、「皇太子の億計は、天子の徳が明瞭ですぐれてりっぱなので、天下をお譲りになった。陛下は、正統で丁度、帝王として国を治める事業を得て、皇帝の祭祀を仕切る神主となって、初代から永遠に続く帝位を受け、上は、天子の心をにない、下は民の望みをおさえる。しかし、天子の位を受け継ぎたくないと、遂に、金銀を生む国々の官僚に、遠きも近くも失望しない者が無かった。天命を得る同族が有って、皇太子に譲ろうとした。天子の徳が益々増して、天子の位は儀式の印で、幼な子が居て心底つくしてはたらき、へりくだって、礼儀正しく接っして、慈しみ従われるので、兄の命令を受けて、大業を受け継いでください」と奏上した。気持ちなどを押しとどめて「解った」と言った。それで公卿や役人を近飛鳥の八釣の宮に集めて、天皇に即位した。傍に仕える役人は、皆とても喜んだ。この月に、難波の小野王を皇后に立て、恩赦した。二月の朔が戊戌の壬寅の日に、「先の王は、多くの困難に遭遇して、荒れ野原で 命を落とした。私は、まだ幼かったので、逃げて隠れた。求め迎えられたのでまげて大業を受け継いで皇位に上った。国中で先の王の骨を求めたが、事情をよく知っている者が無かった」と詔勅した。言い終わって、皇太子の億計と、泣き叫び憤って、自制することが出来なかった。この月に、事情を知っている老人を集めて、天皇自ら一人一人問いただした。一人の老婆が居て、進みでて、「私置目は、先王の骨を埋たところを知っている。請われれば案内いたします」と言った。ここで、天皇と皇太子億計は、老婆を連れて、近江国の来田絮の蚊屋野に行幸して、掘り出して見たところ、やはり夫人の言った通りだった。穴に覗き込んで激しく泣き叫んで、心奥底から言葉を吐き出し大声で泣き悲しんだ。昔から今に至るまで、こんなひどいことは無かった。仲子の亡骸が先王の骨に交じっていて、分けることが出来なかった。ここに磐坂皇子の乳母が居た。「仲子は、上の歯が抜け落ちていた。それで分けられる」と奏上した。そこで、乳母が言う通りに、髑髏をそれぞれ分けたが、とうとう四支や夫々の骨を分けられなかった。それで蚊屋野の野中に、二つの陵を造って、それぞれ似せて同じようにした。葬儀も一緒にして分けなかった。老婆の置目に詔勅して、宮の傍の近い所に住まわせた。手厚くたたえて施しを与えて、十分足るようにした。この月に、「老婆が孤独で、著しく弱り、歩くことにも差し障りがあった。縄を張って綱を引いてそれを頼りに出入りした。縄の端に鈴を懸けて、取次を煩わせることが無いように、入るときはこれを鳴らせ。そうすれば、私は、お前が来たことが解る」と詔勅した。そこで、老婆は、詔勅を聞いて、鈴を鳴らして前に進み出た。天皇は、遠くで鈴が鳴るのを聞いて歌った()。三月の上巳の日に、裏の庭に出て、曲水の宴をした。夏四月の朔が丁酉の丁未の日に、「おおよそ主君が民の背を押すのはよく考えると官位を授けることによってだ。国が盛んになるのは、よく考えれば功績に対して恩賞を与えることによる。これは前の播磨の国司の来目部の小楯が私を探し出して迎え天皇に奏上した。その功績は優れて立派だ。昇進の申し出は憚ること無く言え」と詔勅した。小楯は、お礼をして「山の官が、私の望む居場所だ」と言った。それで山の官位をさずけて、改めて姓を山部の連の氏を与えた。吉備の臣をそえて補助にして、山守部を民とした。褒め称えて論功を示して、その恩賞には手厚く答えた。寵愛は他と比べようが無く、一族郎党が富んだ。五月に、狹狹城の山の君韓帒の宿禰が、徒党組んで謀って、押磐の皇子を殺した。殺されるときに、土下座して言った言葉はとても哀れだった。天皇は、殺すことに耐えられず、陵の入口を塞いで、一緒に山を守らせた。戸籍を削除して、山部連に組み入れた。そこで倭帒の宿禰の妹の置目の功績で、本の姓の狹狹城の山の君の氏を与えた。六月に、避暑の御殿に行って、楽器を奏でた。群臣が集まって、飲食の宴を開いた。この年は、太歳が乙丑だった。】とあり、2月戊戌朔は1月30日で1月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
『古事記』では「天皇娶石木王之女難波王」と『日本書紀』と一世代異なるが、当然、後代の『日本書紀』の注の「磐城王孫。丘稚子王之女也より、同じ王朝の事を記述した『古事記』を採用するのが理に適い、実際に清寧天皇は在位期間が短く、年代的にも磐城皇子の娘のが合い、『日本書紀』は顕宗天皇の即位の実年代が499年の即位としているので孫とした。
磐城皇子は稚国王家の当主で磐城王を襲名したのであり、「丘稚子王」は襲名前「丘」に居たにすぎず、顕宗天皇は『古事記』で「兎田首等之女名大魚也尓表(袁)祁命亦立歌恒(垣)於是志毘臣」と姫を争ったように、皇位継承のために、血筋の良い媛が必要で、難波小野王は「鳥見山中其地號曰上小野榛原下小野榛原」と物部氏の聖地鳥見山近辺の姫で、雄略天皇の血筋・稚国の血筋に加えて物部氏の血筋に繋がっている可能性がある。
雄略天皇の吉備臣の記述は蘇我氏や物部氏の王朝の内容と考えるべきで、この2王朝のバックボーンとなったのだろう。
そして、古代の体制を表すかのように、押磐皇子を殺害した近江狹狹城山君韓帒宿禰の直系に責任を取らせて山部の地位に落としながら、一族の倭王の倭帒宿禰は狹狹城山君で処遇して、地域の安定を保ったようだ。

2020年3月13日金曜日

最終兵器の目 顯宗天皇2

  『日本書紀』慶長版は
白髮天皇三年春正月天皇隨億計王到攝津國使臣連持節以王青?()車迎入宮中夏四月立億計王爲皇太子立天皇爲皇子五年春正月白髮天皇崩是月皇太子億計王與天皇讓位久而不處由是天皇姉飯豊青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豊青尊當世詞人歌曰野麻登陛伱瀰我保指母能婆於尸農瀰能莒能?()哿紀儺屢都奴娑之能瀰野冬十一月飯豊青尊崩葬葛城埴曰丘陵十二月百官大會皇太子億計取天皇之璽置之天皇之坐再拜從諸臣之位曰此天皇之位有功者可以處之著貴蒙迎皆弟之謀也以天下讓天皇天皇顧讓以弟莫敢即位又奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子前後固辭曰日月出矣而爝火不息其於光也不亦難矣時雨降矣而猶浸灌不亦勞乎所貴爲人弟者奉兄謀逃脱難照德解紛而無處也即有處者非弟恭之義弘計不忍處也兄友弟恭不易之典聞諸古老安自獨輕皇太子億計曰白髮天皇以吾兄之故舉天下之事而先属我我其羞之惟大王首建利遁聞之者歎息彰顯帝孫見之者殞涕憫憫搢紳忻荷戴天之慶哀哀黔首悅逢履地之恩是以克固四維永隆萬業功隣造物清猷映世超哉邈矣粤無得而稱雖是曰兄豈先處乎非功而據咎悔必至吾聞天皇不可以久曠天命不可以謙拒大王以社稷爲計百姓爲心發言慷慨至于流涕天皇於是知終不處不逆兄意乃聽而不即御坐世嘉其能以實讓曰宜哉兄弟怡怡天下歸德篤於親族則民興仁
【白髮天皇の三年の春正月に、天皇は、億計王と、摂津国に着いた。臣・連に徴の刀を持たせて、王の青蓋車で、宮中に迎へ入れられた。夏四月に、億計王を皇太子にし、天皇を皇子とした。五年の春正月に、白髮天皇が崩じた。この月に、皇太子の億計王と天皇とが、位を讓りあって、長く空位だった。そのため、天皇の姉の飯豊の青の皇女が、忍海の角刺の宮で、朝廷に臨んでまつりごとを司って、自ら忍海の飯豊の青の尊と名のった。当時の歌人が歌った()。冬十一月に、飯豊の青の尊が崩じた。葛城の埴口の丘の陵に葬った。十二月に、多くの官僚が集まった。皇太子の億計は、天子の璽を取って、天皇の坐に置いた。2度礼拝して諸臣の位置に立って「この天子の位には、功績があった人物がいなければならない。高貴であることを明らかにして迎えられたのは、みな弟の行ったことだ」と言って天下を天皇に讓った。天皇位は、経緯をふりかえって譲るべきは弟だと、どうしても皇位に就かなかった。また白髮天皇が、先に兄に継がせようと思って、皇太子に立てたのを受けて、先だ後だと互いに固辞して「日月が昇って、松明を消さないと邪魔な光だ。時雨が降って、それでも水を潅ぐのは意味が無い。ひとが弟を尊ぶのは兄に仕えて難から逃れようと、そこに居ない兄の徳でごたごたを解決するからだ。すなわち、そこに居て何もしないのは、弟の敬意をもった礼儀とは言えない。弘計が、そこに居るのは忍びない。兄が弟と助け合い、弟を恭うのは、ずっと変わらない決まり事と古老に聞いた。どうして私一人が軽んじることが出来ましょうか」と言った。皇太子の億計が「白髮天皇は、私が兄だったから、天下の事業を挙げて、まず私に任せた。私は、それ羞じている。思うに大王は、最初から逃れるために考えた。聞いた者はみな嘆いた。帝の孫だと表明する時、見る者は鼻水を垂らして泣いた。憂えた高官は、喜んで天からのたまものと戴き担ぐ。 心をいためる庶民は初めて喜んで地を踏むようなありがたい思いに遭遇した。それでよく四方を固めて、長く後世まで栄えるだろう。功績は万物を生み、清らかな思いは世に反映されて今を遥かに越え、とても言葉にできない。このように、私が兄といっても、どうして先にここに座れようか。功績に頼ることが出来ないのに皇位に就けば、きっと後悔するだろう。私は「天皇は長く空位が有ってはならない。天命を譲って断ってはならない。大王は、国家の事を考え、百姓のことを思え」と聞いた。言葉に出して激しくいきどおり嘆いて、感極まった。天皇は、それで、絶対皇位に就かないと言っていたが、兄の意に逆ってはならないと考え、それで承諾した。しかし、皇位にすぐには就かなかった。世の人は、真心を持って譲り合っているのを美しく思い「とても喜ばしい事だ、兄弟で打ちとけて喜び、天下に徳を戻した。親族がまじめで行き届いていると、民の間に思いやりの心を引き起こす」と言った。】とある。
顕宗天皇が皇位を継承したのが実際に起きた時が498から9年で、この冬11月の飯豊青皇女(天皇)が死亡した時で、『梁書』に扶桑国の王が「名國王爲乙祁」と梁が建国された502年に、扶桑国の王が乙祁だったと記述していることから、可能性が高いと清寧天皇で記述した。
この、顕宗天皇紀に「角刺宮臨朝秉政」と角刺宮で皇位に就いていたことを記述し、「億計取天皇之璽置」それまで持っていなかった璽を受け取って天皇の坐に置いた、すなわち、政権交代・王朝交代が起こったことを示している。
実際の兄弟なら政権交代では無いので、義姉もしくは飯豊青皇女の夫が天皇だったことを示し、今まで見てきたように、義兄弟も従弟も兄弟と見做す系図を記述しているため、本当の兄弟姉妹はよくわからない。
457年に市邊押磐皇子が崩じたのなら、すでに42年経過していて、顕宗天皇が32歳では合致しなくなり、1世代後若しくは雄略天皇が後ろになってしまうが、『三国史記』や『宋書』との齟齬は無かったので、雄略天皇元年は457年で良さそうだ。
従って、飯豊青皇女と顕宗天皇は従弟で、飯豊青皇女の母が皇位継承権のある姫だったと考えるのが妥当で、飯豊青皇女の母の葛城襲津彦の娘の磐之媛も葛城襲津彦の夫人もその母も皇位継承権を持つ媛だったと考えられる。
田中卓によると『紀氏家牒』に葛城国造荒田彦(荒田に住む王)の娘の葛比売(葛城の姫)が母親とされ、武内宿禰と思われる応神天皇の皇后仲媛の娘が荒田皇女と記述されて荒田に住む皇女と考えられ、この荒田皇女が葛比売の可能性があり、尾綱根妹尾綱真若刀婢→金田屋野姫→仲媛→荒田皇女→磐之媛(磐に住む媛)→黒媛(子が磐坂や押磐と呼ばれ磐と関係あり)→飯豊青皇女と尾張氏天皇の血統が続いたと考えられる。

2020年3月11日水曜日

最終兵器の目 顯宗天皇1

 『日本書紀』慶長版は
弘計天皇大兄去來穗別天皇孫也市邊押磐皇子子也母曰荑媛天皇久居邊裔悉知百姓憂苦恒見枉屈若納四體溝隍布德施惠政令流行䘏貧養孀天下親附穴穗天皇三年十月天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子於蚊屋野爲大泊瀬天皇見殺因埋同穴於是天皇與億計王聞父見射恐懼皆逃亡自匿帳內日下部連使主與其子吾田彥竊奉天皇與億計王避難於丹波國余社郡使主遂改名字曰田疾來尚恐見誅從茲遁入播磨國縮見山石室而自經死天皇尚不識使主所之勸兄億計王向播磨國赤石郡倶改字曰丹波小子就仕於縮見屯倉首吾田彥至此不離固執臣禮白髮天皇二年冬十一月播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯於赤石郡親辨新嘗供物適會縮見屯倉首縱賞新室以夜繼晝爾乃天皇謂兄億計王曰避亂於斯年踰數紀顯名著貴方属今宵億計王惻然歎曰其自導揚見害孰與全身兔厄也歟天皇曰吾是去來穗別天皇之孫而困事於人飼牧牛馬豈若顯名被?()也歟遂與億計王相抱涕泣不能自禁億計王曰然則弟非誰能激揚大節可以顯著天皇固辭曰僕不才豈敢宣揚德業億計王曰弟英才賢德爰無以過如是相讓再三而果使天皇自許稱述倶就室外居乎下風屯倉首命居竈傍左右秉燭夜深酒酣次第儛訖屯倉首語小楯曰僕見此秉燭者貴人而賤己先人而後己恭敬撙節退讓以明禮可謂君子於是小楯撫絃命秉燭者曰起儛於是兄弟相讓久而不起小楯嘖之曰何爲太遲速起儛之億計王起儛既了天皇次起自?()衣帶爲室壽曰築立稚室葛根築立柱者此家長御心之鎮也取舉棟梁者此家長御心之林也取置椽橑者此家長御心之齊也取置蘆萑者此家長御心之平也取結繩葛者此家長御壽之堅也取葺草葉者此家長御富之餘也出雲者新墾新墾之十握稻於於淺甕釀酒美飲喫哉吾子等脚日木此傍山牡鹿之角舉而吾儛者旨酒餌香市不以直買手掌憀亮拍上賜吾常世等壽畢乃赴節歌曰伊儺武斯蘆呵簸泝比野儺擬寐逗喩凱麼儺弭仚於已陀智曽能泥播宇世儒小楯謂之曰可怜願復聞之天皇遂作殊儛誥之曰倭者彼彼茅原淺茅原弟日僕是也小楯由是深奇異焉更使唱之天皇誥之曰石上振之神榲伐本截末於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也小楯大驚離席悵然再拜承事供給率属欽伏於是悉發郡民造宮不日權奉安置乃詣京都求迎二王白髮天皇聞憙咨歎曰朕無子也可以爲嗣與大臣大連定策禁中仍使播磨國司來目郡小楯持節將左右舍人至赤石奉迎
【弘計天皇は、大兄去來穗別天皇の孫で市邊押磐皇子の子だ。母を荑媛という。天皇は長らくあとつぎから外れていたので、つぶさに百姓のつらく苦しいことを知っていた。いつも無実の罪に負けてしたがうのを見て、体を全て溝や濠に埋めるようだ。徳を広く行きわたらせ惠を施して、政令が世間にひろがれば、貧しい者は施しを受け、後家を養い天下は心から服従すると。穴穗天皇三年の十月に、天皇の父の市邊押磐皇子および身辺に仕える佐伯部の仲子が、蚊屋野で、大泊瀬天皇の為に殺された。それで同じ穴に埋められた。そこで、天皇と億計王は、父が射殺されたと聞いて、恐れてびくびくして、皆で逃げ隠れた。身辺に仕えた日下部の連の使主と吾田彦とが、密かに天皇と億計王とを主人として、丹波国の余社の郡に難を逃れた。使主は、名を改めて田疾來と言った。なお殺されることを恐れて、それでここから播磨の縮見の山の石室に身を隠して首を括って自殺した。天皇は、使主の自殺した場所を知らなかった。兄の億計王に勧められて、播磨国の赤石の郡に向い、一緒に姓を改めて丹波の小子と言って縮見の屯倉の首に仕えた。吾田彦は、この時まで、離れず、 あくまで臣下として礼節を守った。白髮天皇の二年の冬十一月に、播磨の国司の山部の連の先祖の伊豫の来目部の小楯が、赤石の郡で、新嘗の供物を供えた。たまたま宿見の屯倉の首が、新室に褒美を貰ったので夜を徹して開いた宴会で、天皇は、兄の億計王に「ここに戦を逃れて、数年経った。名を名乗り、自分の高貴な身分を宣言するのに、今夜は丁度良い機会だ」と言った。億計王は、心配して「自分で声を張り上げて宣言すると殺されるか、災難を免れて命を全うするかのどちらかだ」と嘆いた。天皇は「私は、去來穗別天皇の孫だ。しかし人が嫌がる仕事をし、牛馬を飼った。どうして殺されることを恐れて名を名乗らずにおれようか」と言った。ついに億計王と、抱き合って泣いて気持ちを抑えることが出来なかった。億計王は「それならば弟でなかったら、誰が人としての正しい道をふるい起して名乗れるだろうか」と言った。天皇は、「私は、才能が無いのでどうして徳で世を治めると言えましょう」と固辞した。億計王は、「弟よ、お前はすぐれた才能を持ち賢明で、徳がある。お前を越える者はいない」と言った。このように再三譲り合った。それで天皇自ら意見を述べることを聞き入れて、一緒に室の外に行って、下々の住居に腰を落ち着けた。屯倉の首が、竃の傍で働くよう命じて、部屋の左右に明かりを灯させた。夜も深けて酒宴もたけなわになり、順番に舞い終わった。屯倉の首は、小楯に「私は、この明かりを灯した者を見ると、人を尊重して自分はへりくだり、人を先に自分を後回しにした。つつしみうやまって、自分を押さえる。あとへひきさがって譲り、礼節を表に出した。君子のようだというべきだ」と語った。そこで、小楯が、楽器をなで鳴らして、明かりを灯した者に命じて、「立ち上がって舞え」と言った。そこで、兄弟が譲り合って、なかなか立ち上がらなかった。小楯は、「何をしている、遅い。速く立ち上がって舞え」と責めた。億計王は、立ち上がってそして舞い終わった。天皇は、次に立ち上がって、自分で装束を整えて、祝いの言葉を述べて、「蔓で巻いた新しい家を建て、建てた柱は家長の心を鎮め、挙げた棟や梁は家長の気持ちを表している。取りつけた垂木や縁は家長の考えが整っている。垣根の葦は家長の平穏を表している。結った蔓縄は家長の寿命の丈夫さだ。葺いた茅は家長の貯えだ。出雲の土地を開墾し、開墾した抱えきれない稲を酒造の甕で醸造した酒はおいしく飲める。わが子等が脚日木(あしびき)のこの傍の山で、牡鹿の角をささげて私が舞えば、餌を市で買わないで、うまい酒を携えて行けば明らかによい。」と手を打ち上げて私の周りの人々がお祝いの言葉を言い終わり、調子を合わせて歌った()。小楯は、「なんとかしこい。できたらもう一度聞かせなさい」と言った。天皇は、それで、立ったり座ったりして舞って「倭は彼方の茅原、淺茅原だ。その弟はこの私だと」と告げた。小楯は、これを聞いて奇妙に思い、さらに唱えさせた。天皇は、「石上でふるいたつ神杉の根元を伐り枝を断ち切った柱で立てた市邊の宮で天下を治めた、天萬國萬押磐の尊の御裔が、私だ。」と告げた。小楯は、大変驚いて、席を離れて、うちひしがれて繰り返して礼拝した。命令を受けそれに応じて物を与え一族を率いて謹んで従った。そこで、残らず郡の民を集めて宮を造り、時を経ず仮宮に住まわせた。それで京都に詣でて、二人の王を迎えることを求めた。白髮天皇は、それを聞いて歓び溜め息をついて「私には、子が無い。それで跡取りにしよう」と言って、大臣・大連が宮中で天子を擁立した。それで播磨の国司の来目部の小楯に、徴の刀を持たせて、左右の近習を連れて、赤石に着いて迎えた。】とある。
ここに記述される山の枕詞の「あしびきの」は、播磨で唱えているのに出雲の囃し言葉で出現し、
初出は允恭天皇23年に木梨輕皇子と輕大娘皇女の恋が結ばれて歌った歌に「阿資臂紀能椰摩娜烏菟勾利」とはじまる、「山田を造り」・「山高み」・「下樋を走せ」とどちらかと言えば山というより山のすその情景で、田んぼが有って用水路が走り、そこで共に泣く夫婦がいる情景と思われ、私は古墳のほとりを思い浮かべ、初代允恭天皇が崩じて、2代目の允恭天皇(木梨輕皇子)と皇后が泣いている姿を思い浮かべてしまった。
そして、ここでの「脚日木」はやはり農家がたくさん稲を収穫し、その残りで酒を造った情景で、山より田につながっているように感じ、すなわち、里山の情景の枕詞に思われ、さらに、木梨輕皇子兄弟と自分たちのを対比させているのではないだろうか。
さらに、本来、市邊押磐皇子は正統な皇位継承者だったと述べたが、ここでは、それを証明するように「市邊宮治天下」と天皇の枕詞を使って記述して、市邊は地名で、天皇名は押磐と姓が無かったことが解る。