2020年3月11日水曜日

最終兵器の目 顯宗天皇1

 『日本書紀』慶長版は
弘計天皇大兄去來穗別天皇孫也市邊押磐皇子子也母曰荑媛天皇久居邊裔悉知百姓憂苦恒見枉屈若納四體溝隍布德施惠政令流行䘏貧養孀天下親附穴穗天皇三年十月天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子於蚊屋野爲大泊瀬天皇見殺因埋同穴於是天皇與億計王聞父見射恐懼皆逃亡自匿帳內日下部連使主與其子吾田彥竊奉天皇與億計王避難於丹波國余社郡使主遂改名字曰田疾來尚恐見誅從茲遁入播磨國縮見山石室而自經死天皇尚不識使主所之勸兄億計王向播磨國赤石郡倶改字曰丹波小子就仕於縮見屯倉首吾田彥至此不離固執臣禮白髮天皇二年冬十一月播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯於赤石郡親辨新嘗供物適會縮見屯倉首縱賞新室以夜繼晝爾乃天皇謂兄億計王曰避亂於斯年踰數紀顯名著貴方属今宵億計王惻然歎曰其自導揚見害孰與全身兔厄也歟天皇曰吾是去來穗別天皇之孫而困事於人飼牧牛馬豈若顯名被?()也歟遂與億計王相抱涕泣不能自禁億計王曰然則弟非誰能激揚大節可以顯著天皇固辭曰僕不才豈敢宣揚德業億計王曰弟英才賢德爰無以過如是相讓再三而果使天皇自許稱述倶就室外居乎下風屯倉首命居竈傍左右秉燭夜深酒酣次第儛訖屯倉首語小楯曰僕見此秉燭者貴人而賤己先人而後己恭敬撙節退讓以明禮可謂君子於是小楯撫絃命秉燭者曰起儛於是兄弟相讓久而不起小楯嘖之曰何爲太遲速起儛之億計王起儛既了天皇次起自?()衣帶爲室壽曰築立稚室葛根築立柱者此家長御心之鎮也取舉棟梁者此家長御心之林也取置椽橑者此家長御心之齊也取置蘆萑者此家長御心之平也取結繩葛者此家長御壽之堅也取葺草葉者此家長御富之餘也出雲者新墾新墾之十握稻於於淺甕釀酒美飲喫哉吾子等脚日木此傍山牡鹿之角舉而吾儛者旨酒餌香市不以直買手掌憀亮拍上賜吾常世等壽畢乃赴節歌曰伊儺武斯蘆呵簸泝比野儺擬寐逗喩凱麼儺弭仚於已陀智曽能泥播宇世儒小楯謂之曰可怜願復聞之天皇遂作殊儛誥之曰倭者彼彼茅原淺茅原弟日僕是也小楯由是深奇異焉更使唱之天皇誥之曰石上振之神榲伐本截末於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也小楯大驚離席悵然再拜承事供給率属欽伏於是悉發郡民造宮不日權奉安置乃詣京都求迎二王白髮天皇聞憙咨歎曰朕無子也可以爲嗣與大臣大連定策禁中仍使播磨國司來目郡小楯持節將左右舍人至赤石奉迎
【弘計天皇は、大兄去來穗別天皇の孫で市邊押磐皇子の子だ。母を荑媛という。天皇は長らくあとつぎから外れていたので、つぶさに百姓のつらく苦しいことを知っていた。いつも無実の罪に負けてしたがうのを見て、体を全て溝や濠に埋めるようだ。徳を広く行きわたらせ惠を施して、政令が世間にひろがれば、貧しい者は施しを受け、後家を養い天下は心から服従すると。穴穗天皇三年の十月に、天皇の父の市邊押磐皇子および身辺に仕える佐伯部の仲子が、蚊屋野で、大泊瀬天皇の為に殺された。それで同じ穴に埋められた。そこで、天皇と億計王は、父が射殺されたと聞いて、恐れてびくびくして、皆で逃げ隠れた。身辺に仕えた日下部の連の使主と吾田彦とが、密かに天皇と億計王とを主人として、丹波国の余社の郡に難を逃れた。使主は、名を改めて田疾來と言った。なお殺されることを恐れて、それでここから播磨の縮見の山の石室に身を隠して首を括って自殺した。天皇は、使主の自殺した場所を知らなかった。兄の億計王に勧められて、播磨国の赤石の郡に向い、一緒に姓を改めて丹波の小子と言って縮見の屯倉の首に仕えた。吾田彦は、この時まで、離れず、 あくまで臣下として礼節を守った。白髮天皇の二年の冬十一月に、播磨の国司の山部の連の先祖の伊豫の来目部の小楯が、赤石の郡で、新嘗の供物を供えた。たまたま宿見の屯倉の首が、新室に褒美を貰ったので夜を徹して開いた宴会で、天皇は、兄の億計王に「ここに戦を逃れて、数年経った。名を名乗り、自分の高貴な身分を宣言するのに、今夜は丁度良い機会だ」と言った。億計王は、心配して「自分で声を張り上げて宣言すると殺されるか、災難を免れて命を全うするかのどちらかだ」と嘆いた。天皇は「私は、去來穗別天皇の孫だ。しかし人が嫌がる仕事をし、牛馬を飼った。どうして殺されることを恐れて名を名乗らずにおれようか」と言った。ついに億計王と、抱き合って泣いて気持ちを抑えることが出来なかった。億計王は「それならば弟でなかったら、誰が人としての正しい道をふるい起して名乗れるだろうか」と言った。天皇は、「私は、才能が無いのでどうして徳で世を治めると言えましょう」と固辞した。億計王は、「弟よ、お前はすぐれた才能を持ち賢明で、徳がある。お前を越える者はいない」と言った。このように再三譲り合った。それで天皇自ら意見を述べることを聞き入れて、一緒に室の外に行って、下々の住居に腰を落ち着けた。屯倉の首が、竃の傍で働くよう命じて、部屋の左右に明かりを灯させた。夜も深けて酒宴もたけなわになり、順番に舞い終わった。屯倉の首は、小楯に「私は、この明かりを灯した者を見ると、人を尊重して自分はへりくだり、人を先に自分を後回しにした。つつしみうやまって、自分を押さえる。あとへひきさがって譲り、礼節を表に出した。君子のようだというべきだ」と語った。そこで、小楯が、楽器をなで鳴らして、明かりを灯した者に命じて、「立ち上がって舞え」と言った。そこで、兄弟が譲り合って、なかなか立ち上がらなかった。小楯は、「何をしている、遅い。速く立ち上がって舞え」と責めた。億計王は、立ち上がってそして舞い終わった。天皇は、次に立ち上がって、自分で装束を整えて、祝いの言葉を述べて、「蔓で巻いた新しい家を建て、建てた柱は家長の心を鎮め、挙げた棟や梁は家長の気持ちを表している。取りつけた垂木や縁は家長の考えが整っている。垣根の葦は家長の平穏を表している。結った蔓縄は家長の寿命の丈夫さだ。葺いた茅は家長の貯えだ。出雲の土地を開墾し、開墾した抱えきれない稲を酒造の甕で醸造した酒はおいしく飲める。わが子等が脚日木(あしびき)のこの傍の山で、牡鹿の角をささげて私が舞えば、餌を市で買わないで、うまい酒を携えて行けば明らかによい。」と手を打ち上げて私の周りの人々がお祝いの言葉を言い終わり、調子を合わせて歌った()。小楯は、「なんとかしこい。できたらもう一度聞かせなさい」と言った。天皇は、それで、立ったり座ったりして舞って「倭は彼方の茅原、淺茅原だ。その弟はこの私だと」と告げた。小楯は、これを聞いて奇妙に思い、さらに唱えさせた。天皇は、「石上でふるいたつ神杉の根元を伐り枝を断ち切った柱で立てた市邊の宮で天下を治めた、天萬國萬押磐の尊の御裔が、私だ。」と告げた。小楯は、大変驚いて、席を離れて、うちひしがれて繰り返して礼拝した。命令を受けそれに応じて物を与え一族を率いて謹んで従った。そこで、残らず郡の民を集めて宮を造り、時を経ず仮宮に住まわせた。それで京都に詣でて、二人の王を迎えることを求めた。白髮天皇は、それを聞いて歓び溜め息をついて「私には、子が無い。それで跡取りにしよう」と言って、大臣・大連が宮中で天子を擁立した。それで播磨の国司の来目部の小楯に、徴の刀を持たせて、左右の近習を連れて、赤石に着いて迎えた。】とある。
ここに記述される山の枕詞の「あしびきの」は、播磨で唱えているのに出雲の囃し言葉で出現し、
初出は允恭天皇23年に木梨輕皇子と輕大娘皇女の恋が結ばれて歌った歌に「阿資臂紀能椰摩娜烏菟勾利」とはじまる、「山田を造り」・「山高み」・「下樋を走せ」とどちらかと言えば山というより山のすその情景で、田んぼが有って用水路が走り、そこで共に泣く夫婦がいる情景と思われ、私は古墳のほとりを思い浮かべ、初代允恭天皇が崩じて、2代目の允恭天皇(木梨輕皇子)と皇后が泣いている姿を思い浮かべてしまった。
そして、ここでの「脚日木」はやはり農家がたくさん稲を収穫し、その残りで酒を造った情景で、山より田につながっているように感じ、すなわち、里山の情景の枕詞に思われ、さらに、木梨輕皇子兄弟と自分たちのを対比させているのではないだろうか。
さらに、本来、市邊押磐皇子は正統な皇位継承者だったと述べたが、ここでは、それを証明するように「市邊宮治天下」と天皇の枕詞を使って記述して、市邊は地名で、天皇名は押磐と姓が無かったことが解る。

0 件のコメント:

コメントを投稿