『日本書紀』慶長版は ※袁祁(顕宗・弘計)
「億計天皇諱大脚字嶋郎弘計天皇同母兄也幼聰頴才敏多識壯而仁惠謙恕温慈及穴穗天皇崩避難於丹波國余社郡白髮天皇元年冬十一月播磨國司山部連小楯詣京求迎白髮天皇尋遣小楯持節將左右舍人至赤石奉迎二年夏四月遂立億計天皇爲皇太子五年白髮天皇崩天皇以天下讓弘計天皇爲皇太子如故三年夏四月弘計天皇崩元年春正月辛巳朔乙酉皇太子於石上廣髙宮即天皇位二月辛亥朔壬子立前妃春日大娘皇女爲皇后遂産一男六女其一曰髙橋大娘皇女其二曰朝嬬皇女其三曰手白香皇女其四曰樟氷皇女其五曰橘皇女其六曰小泊瀬稚鷦鷯天皇及有天下都泊瀬列城其七曰真稚皇女次和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲春日山田皇女冬十月丁未朔已酉葬弘計天皇于傍丘磐杯丘陵是歲也太歲戊辰二年秋九月難波小野皇后恐宿不敬自死三年春二月已巳朔置石上部舍人四年夏五月的臣蚊嶋穗允君有罪皆下獄死」
【億計天皇は、諱を大脚といい、字名は、嶋郎で、弘計天皇の同母兄だ。幼い時から聡明で優れ、才能は大人になったら思いやりが有って人々を可愛がり、遜り、思いやりが有って穏やかで慈しんだ。穴穗天皇が崩じて、危険を察して丹波国の余社の郡に逃げた。白髮天皇の元年の冬十一月に、播磨國司の山部の連の小楯が、京に参上して迎えるように求めた。白髮天皇は、それを聞いて、小楯を派遣して、迎えの印の太刀を持って、近習を引き連れて、赤石にやって来て迎えた。二年の夏四月に、ついに億計天皇を皇太子に立てた。五年に、白髮天皇が、崩じた。天皇は、天下を弘計天皇に讓った。皇太子と為ったのは以前のとおりだ。三年の夏四月に、弘計天皇が、崩じた。元年の春正月の朔が辛巳の乙酉の日に、皇太子は、石上の廣高の宮で、天皇位に即位した。二月の朔が辛亥の壬子の日に、前妃の春日の大娘皇女を皇后とした。春日の大娘皇女は、一人の男子と六人の姫を産んだ。その一を高橋の大娘皇女という。その二を朝嬬の皇女という。その三を手白香の皇女という。その四を樟氷の皇女という。その五を橘の皇女という。その六を小泊瀬の稚鷦鷯の天皇という。天下を治めたときは、泊瀬の列城を都とした。その七を眞稚の皇女という。その次の妃の和珥臣の日爪の娘の糠君の娘が、一人の姫を生んだ。これを春日の山田の皇女という。冬十月の朔が丁未の己酉の日に、弘計天皇を傍丘の磐杯の丘の陵に葬った。この歳は、太歳戌辰だった。二年の秋九月に、難波の小野皇后が、天皇に対して
敬意を欠いた言動をしたことを恐れて、自ら死んだ。三年の春二月の己巳が朔の日に、石上部の舍人を置いた。四年の夏五月に、的の臣蚊嶋と穗瓮の君は罪が有ったので、二人とも獄死した。】とあり、元年正月辛巳朔は487年12月30日で大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、冬十月丁未朔は1月異なり、他は標準陰暦と合致する。
弘計天皇を葬った10月の日付が異なるが、この朔日に合致するのが519年で、実際の死亡が518年か前方後円墳を造るのに年数がかかったか確定は出来ないが、『古事記』は顕宗天皇が袁祁(えけ・おけ)で仁賢天皇は推古天皇の時代に『梁書』の「國王爲乙祁」をもとに文字意祁(いけ)を億計とおけに読める文字に当てた可能性がある。
同様に、『日本書紀』を記述した雄略天皇は『史記』・『漢書』・『三国志』が日本人を倭人と記述した為、三輪の意味が神国の輪だったものを神国の倭と記述し、日本と言う名も既に葛城王朝時には神功紀の「新羅王・・・吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と呼ばれていた可能性が高い。
そして、巨勢王朝は日本を『三海經』の扶桑から扶桑国と名乗り、日本を倭と書き換えて『古事記』を記述し、倭国の分裂で、その東側の倭国を中国の漢王朝に認められたと大漢国、同じく『三海經』の「三身国」から別れた国として「分身国」と名のった可能性がある。
すなわち顕宗天皇が梁初に在位した天皇で518年まで在位した可能性が有り、顕宗天皇の兄が皇太子から退位させられ、2代目の顕宗天皇が継ぎ、2代目を1代目の兄が殺害して仁賢天皇が皇位を簒奪したのではないだろうか。
そのため、本来前皇后は皇太后として迎え入れるのが通常だが、皇位を簒奪した為、前皇后も共に殺害した可能性が高く、皇位の正当性を認めさせるため、和珥臣の姫で雄略天皇の3・4世代末裔の姫を皇后にし、妃も和珥臣の娘で天皇の血統の持ち主である。
なお、「的臣蚊嶋穗允君有罪皆下獄死」は唐突で意味不明だが、任那の再興の説話に的臣が記述されており、その資料から記述されたものと思われ、前回の「紀の生磐の宿禰が神聖と三韓の王」と同様に葛城王家が朝鮮経営を継続し、的臣は平郡氏の王家を書いたと思われる仁徳紀に記述されて葛城氏の人物と考えられ、葛城王家の王なので臣ではなく宿禰で「的臣祖盾人宿禰」と記述され、臣の賜姓は葛城氏が天皇家から降格した雄略以降だ。
物部連や尾張連のように賜姓されると言うことは、それ以前は姓のいらない天皇家だった、天皇家から降格した時に後の天皇家から姓を与えられる、すなわち、天皇家に姓がないことを意味している。
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