2020年3月6日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十五 清寧天皇1

 『日本書紀』慶長版は
白髮武廣國押稚日本根子天皇大泊瀬幼武天皇第三子也母曰葛城韓媛天皇生而白髮長而愛民大泊瀬天皇於諸子中特所靈異二十二年立爲皇太子二十三年八月大泊瀬天皇崩吉備稚媛陰謂幼子星川皇子曰欲登天下之位先取大藏之官長子磐城皇子聽母夫人教其幼子之語曰皇太子雖是我弟安可欺乎不可爲也星川皇子不聽輙隨母夫人之意遂取大藏官鏁閇外門式備乎難擁勢自由費用官物於是大伴室大連言於東漢掬直曰大泊瀬天皇之遺詔今將至矣宜從遺詔奉皇太子乃發軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺是時吉備稚媛磐城皇子異父兄兄君城丘前來目隨星川皇子而被燔殺焉惟河內三野縣主小根慓然振怖避火逃出抱草香部吉士漢彥脚因使祈生於大伴室屋大連曰奴縣主小根事星川皇子者信而無有背於皇太子乞降洪恩救賜他命漢彥乃具爲啓於大伴大連不入刑類小根仍使漢彥啓於大連曰大伴大連我君降大慈愍促短之命既續延長獲觀日色輙以難波來目邑大井戸田十町送於大連又以田地與于漢彥以報其恩是月吉備上道臣等聞朝作亂思救其腹所生星川皇子率舩師四十艘來浮於海既聞被燔殺自海而歸天皇即遣使嘖讓於上道臣等而奪其所領山部冬十月已巳朔壬申大伴室屋大連率臣連等奉璽於皇太子元年春正月戊戌朔壬子命有司設壇場於磐余甕栗陟天皇位遂定宮焉尊葛城韓媛爲皇太夫人以大伴室屋大連爲大連平群真鳥大臣爲大臣並如故臣連伴造等各依職位焉冬十月癸巳朔辛丑葬大泊瀬天皇于丹比髙鷲原陵于時隼人晝夜哀號陵側與食不?(噀・喫)七日而死有司造墓陵北以禮葬之是年也太歲庚申
【白髮武廣國押稚日本根子天皇は大泊瀬幼武天皇の第三子だ。母を葛城の韓媛と言う。天皇は、生れながら白髮で、生長して、民をいつくしんだ。大泊瀬天皇は、諸々の子の中で、特に人と違って不思議なところが有った。二十二年に皇太子になった。二十三年の八月に、大泊瀬天皇が、崩じた。吉備の稚媛は、陰で幼子の星川皇子に「天下の位に登ろうとするなら、まず大藏の官位を取れ」と言った。長子の磐城の皇子は、母である夫人の、幼子に教える言葉を聞いて「皇太子は私の弟と言っても、どうしてだますことが出来るか。出来ない」と言った。星川皇子は、助言を聞かないで、たやすく母の夫人の意見に従った。それで大藏の官位を取り、外門を閉じて、攻撃に備えた。力で思うままにふるまい、租税を(おほやけもの)を費やした。そこで、大伴の室屋の大連が、東の漢の掬の直に「大泊瀬天皇の遺言が、とうとう現実となった。遺言に従って、皇太子の側に立たなければならない」と言った。それで、兵をあげて大藏を取り囲み、外を守り固めて、火で焼き殺した。この時、吉備の稚媛と磐城の皇子の義兄の兄君と城の丘前の來目が星川皇子と一緒に焼き殺された。そこに河内の三野の縣主の小根が、恐れおののいて、火を避けて逃れ出てきた。草香部の吉士の漢彦の脚を抱きかかえて、それで生きたいと大伴の室屋の大連に懇願して、「私は縣主の小根で、星川皇子に仕えていたことは本当です。しかし、皇太子に背いたことなど有りません。お願いです、大恩を私に降して、命を救ってください」と言った。漢彦は、すなわち、大伴の大連のために詳しく申し上げて、刑罰などに入れなかった。小根は、それで漢彦に頼んで大連に、「大伴の大連は、私の主君で、大きないつくしみあわれんで、刑死が差し迫るのを延命して太陽を見ることが出来た」と伝えてもらった。それで難波の來目邑の大井戸の田十町を、大連に送った。また田地を、漢彦に与えて、その恩に報いた。この月、吉備の上道の臣達は、吉備の上道から生まれた星川の皇子が朝廷に反乱を起こしたこと聞いて、救おうと、軍艦四十艘を率いて、難波の海にやって来て停泊した。既に焼き殺された聞いて、難波の海から帰った。天皇は、それで使者を派遣して、上道の臣達に大声で命じて、その領有する山部を奪った。冬十月の朔が己巳の壬申の日に、大伴の室屋の大連は、臣・連達を率いて、天皇の璽を皇太子に奏上した。元年の春正月の朔が戊戌の壬子の日に、役人に命じて、皇位継承の儀式の場を磐余の甕栗に設けて、天皇位に上った。それで宮を定めた。葛城の韓媛を尊んで、皇太夫人とした。大伴の室屋の大連をそのまま大連とし、平群の眞鳥の大臣をそのまま大臣としたのは共に以前のとおりだ。臣・連・伴造達は、夫々職位を続けた。冬十月の朔が癸巳の辛丑の日に、大泊瀬天皇を丹比の高鷲の原の陵に葬った。その時、隼人が、一日中、陵の側で激しく泣き叫んだ。食事を与えても食べなかった。七日続いて死んだ。役人は、墓を陵の北に造って、礼節を以て葬った。この年、太歳は庚申だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
雄略朝は忍坂大中姫の王朝の外戚で、安康天皇は中帯姫の夫として朝廷に入り込んだが、雄略天皇は『舊事本紀』に「次妃吉備上道臣女稚媛」と建内宿禰の家系の玉田宿禰の娘毛媛の娘と同じく孫で圓の娘の韓媛を妃、皇后は草香幡梭姫とやはり葛城王朝の外戚として皇位に就くことが出来た。
そして、星川稚宮皇子が稚宮皇子とあるように若国の正統な後継者で、そうで無ければ大蔵を任されることは無く、稚国の媛の血統を引き継いだ玉田の宿禰の媛や孫娘が皇位を持つ媛として、その夫として、雄略天皇(真鳥)が君臨し、稚国の正統な後継者が星川皇子だったが、韓媛の子で、正統な皇位継承者の忍坂大中姫の孫の清寧天皇(2代目真鳥)が皇位を簒奪し、天皇の璽と韓媛を皇太夫人に迎え入れて平群王朝が正式に発足したようだ。
しかし、天皇位システムの継承としては、韓媛は物部氏や尾張氏の血筋から外れ、皇太后ではなく皇太夫人と呼ばれ、清寧天皇は大中姫の孫だが、皇太子の鮪には後継者がいないため、正統な皇統の履中天皇の青海皇女が皇位継承の姫となったと思われる。
『日本書紀』は主人公を天皇としているが、この天皇は『日本書紀』の原本を記述した王朝が元々天皇だった、この清寧天皇の時の天皇は巨勢氏がすでに天皇だったという前提で記述され、稚日本根子が天皇に即位する前の弘計の役職名で、鮪が実際の清寧天皇で稚媛が皇位継承者のため同じ葛城氏の母の韓媛が皇太后ではなく皇太夫人だったことを示している。

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