2020年3月4日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇17

 『日本書紀』慶長版は
八月庚午朔丙子天皇疾弥甚與百寮辭訣握手歔欷崩于大殿遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰方今區宇一家烟火萬里百姓艾安四夷賓服此又天意欲寧區夏所以小心勵己日愼一日蓋爲百姓故也臣連伴造毎日朝參國司郡司隨時朝集何不罄竭心府誡勅慇懃義乃君臣情兼父子庶藉臣連智力內外歡心欲令普天之下永保安樂不謂遘疾弥留至於大漸此乃人生常分何足言及但朝野衣冠未得鮮麗教化政刑猶未盡善興言念此唯以留恨今年踰若干不復稱夭筋力精神一時勞竭如此之事本非爲止欲安養百姓所以致此生子孫誰不属念既爲天下事湏(?)割情今星川王心懷悖惡行闕友于古人有言知臣莫若君知子莫若父縱使星川得志共治家國必當戮辱遍於臣連酷毒流於民庶夫惡子孫已爲百姓所憚好子孫足堪負荷大業此雖朕家事理不容隱大連
等民部廣大充盈於國皇太子地居上嗣仁孝著聞以其行業堪成朕志以此共治天下朕瞑目何所復恨是時征新羅將軍吉備臣尾代行至吉備國過家後所率五百蝦夷等聞天皇崩乃相謂之曰領制吾國天皇既崩時不可失也乃相聚結侵冦傍郡於是尾代從家來會蝦夷於娑婆水門合戰而射蝦夷等或踊或伏能避脱箭終不可射是以尾代空彈弓弦於海濱上射死踊伏者二隊二櫜之箭既盡即喚舩人索箭舩人恐而自退尾代乃立弓執末而歌曰瀰致伱阿賦耶鳴之慮能古阿母伱舉曽枳舉曳儒阿羅毎矩伱伱播枳舉曳底那唱訖自斬數人更追至丹波國浦掛水門盡逼殺之
八月の朔が庚午の丙子の日に、天皇の、病気は一層酷くなった。役人に最後の別れで、手を握って咽び泣き大殿で崩じた。大伴の室屋の大連と東漢の掬の直とに、「今まさに天地四方の区切りを一つの家として、煙は万里まで見える。百姓もまた安らかにして、四方(?四族)の夷が訪れてきて服した。これもまた正しい道によってだ。農繁期を平穏にしようと、細かい心配りで自分を奮い立たせたためだ。毎日毎日慎んだのは、考えてみると百姓の為だった。臣・連・伴造は、毎日、朝廷に参内し、国司・郡司は、時に応じて朝廷に集まった。どうしてむねのうちを空しくしてしないでおれようかと、真心を込めて戒めた。忠義がすなわち君臣だ。心情は、父子とおなじだ。できたら、臣連の知恵にすがって、内外の人々の心を喜ばせ、天下を快適にしようと思った。いわれのない病にかかって長く寝込み病気が重くなった。これは、すなわち身の程の寿命で、言うに及ばない。ただし官民の衣冠の決まりのみ、まだ明確にできなかった。刑罰と政策を説き教えてきたがまだ未だに善くなっていない。この思いを言葉に出すと、ただただ悔しいと思っている。いまや少しばかり寿命をこえ、身も心もいっぺんに労り尽くした。このようなことは元々自分の為ではなく、百姓を安らかに養うことのためを思ってこのようになった。生まれた子たちの誰にもこの思いを一人に任せられないが、すでに天下のために成すべき心得は子供たちに分け与えた。星川王は、筋道に合わず正しくない心根を持って、行いは友情に欠けた。古人が言うことに、「臣下をよく知っているのはその君主が一番よく知っている。子をよく知っているのはその父親が一番だと。それでも星川は、志を持って、ともに国家を治めると、きっとはずかしめを受け、臣連の害毒が庶民隅々まで及ぶ。その好ましくない子たちは、百姓に嫌がられる。好ましい子たちは、大業を担う任に十分たえる。これは、我が家の事と言っても、道理から隠しておけない。大連達の民部は広大な国にいっぱいだ。世継ぎに上った皇太子は、いつくしみの心があって親孝行だと聞いている。その行いは、私の志を達成するのに耐える。これで、一緒に天下治めれば、私は、安らかに死んでも何の恨みもない」と遺詔した。この時、新羅を討伐する將軍の吉備の臣の尾代が、吉備国に行って家で過ごしていた。その後、率いた五百人の蝦夷達は、天皇が崩じたと聞いて「我が国を領有して統治する天皇が、すでに崩じた。時間を置いてはいけない」と言った。それで集まって、隣の郡を侵寇した。そこで、尾代は、家からやって来て、蝦夷と娑婆の水門で合戦し矢を射た。蝦夷達は、あるいは踊るように、あるいは伏せて上手く矢を避けて逃げた。それで、とうとう射ることが出来なかった。それで、尾代は、空に向かって射た矢が、海辺の上で、逃げまどい伏せたりする者二隊を射殺した。二袋の矢がとうとう尽きてしまった。それで船人を喚んで矢を探した。船人は、恐れて逃げた。尾代は、それで弓を立ててはずを持って、歌った()。唱え終わって自ら数人を斬った。また追いかけて丹波国の浦掛の水門に着いて、残らず迫って殺した。】とあり、標準陰暦と合致する。
ここの、万里の範囲は1里50mなら河内から西は筑紫、東は常陸、1里70mなら西が五島列島、東が気仙沼、1里400mなら西が台湾の高雄、東はカムチャッカ半島になる。
『梁書』には倭を「又東南行百里至奴國又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國 即倭王所居」と台湾より南方に記述しているように見えるが、同時期に記述された『隋書』俀国に「夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海」と里単位を知らないと記述し、すなわち、『梁書』の里程は中国人の知識で、『隋書』の日程が夷人の知識である。
『梁書』に新羅は「其國在百濟東南五千餘里」で1里400mなら5000㎞で太平洋のど真ん中、1里50mなら250㎞で朝鮮半島内に収まり、「中天竺國在大月支東南數千里地方三萬里」と天竺國が大月支の東南2000㎞に有って一辺1万2000㎞の国とユーラシア大陸が収まってしまうが、1里50mなら東南250㎞でヒマラヤ越えの距離、一辺1500㎞でパキスタンからバングラデシュの距離になる。
すなわち、南朝は梁朝まで1里50mの里単位だったことが解るが、同じ『梁書』に「文身國在倭國東北七千餘里・・・大漢國在文身國東五千餘里・・・扶桑在大漢國東二萬餘里」と扶桑国が倭国の東3万2千里で1里50mでも太平洋の中に比定されるが、扶桑国の大漢國から2500里125㎞との慧深等の話を南朝の梁は長里と考えた。
それで、南朝の里単位に変換して2万里とし、同様に倭国分身国間875里を7千里44㎞、分身国大漢国間を625里を5千里31㎞とし、分身国の西の国境が関門海峡、東の国境が広島県と岡山県の中間点で、大漢国は記述がほとんど無い事から領内を通らず、分身国大漢国間の国境からそのまま扶桑国との国境まで125㎞、明石近辺から扶桑国で、すなわち、分身国が「なか国」で大漢国は吉備国ということになる。
扶桑国までの距離は『梁書』の里単位と違い矛盾があることは確かであるが、長里を基本とする北朝で、南朝の短里の正史ではない史書を記述することを考えると、理に適う検証としてはこれに落ち着き、他の方法では『梁書』は間違いであてにならないので論証に使えないことになる。
史書というものは、現存して第一資料なのだから、否定する場合は特に同時代の史書を否定する第一資料を(※後代の資料は見方が異なるのだから証拠とはならない)探し出さなければならないが、肯定の場合は幾つかの補助資料が合致すれば論証となる。
『三国志』の南を東の間違い、里単位は間違いであてにならないなど、自分の論拠に合わないからと言って、間違いと切り捨てるのは証拠が無い妄想なのである。

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