2020年3月18日水曜日

最終兵器の目 顯宗天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二年春三月上巳幸後苑曲水宴是時喜集公卿大夫臣連國造伴造爲宴群臣頻稱萬歲秋八月巳未朔天皇謂皇太子億計曰吾父先王無罪而大泊瀬天皇射殺棄骨郊野至今未獲憤歎盈懷臥泣行號志雪讎耻吾聞父之讎不與共戴天兄弟之讎不反兵交遊之讎不同國夫匹夫之子居父母之讎寢苫枕干不與共國遇諸市朝不反兵而便鬪況吾立爲天子二年于今矣願壞其陵摧骨投散今以此報不亦孝乎皇太子億計歔欷不能荅乃諫曰不可大泊瀬天皇正統萬機臨照天下華夷欣仰天皇之身也吾父先王雖是天皇之子邁遇迍邅不登天位以此觀之尊卑惟別而忍壞陵墓誰人主
以奉天之靈其不可毀一也又天皇與億計曽不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩豈臨寶位大泊瀬天皇白髮天皇之父也億計聞諸老賢老賢曰言無不詶德無不報有恩不報敗俗之深者也陛下饗國德行廣聞於天下而毀陵翻見於華裔億計恐其不可以莅國子民也其不可毀二也天皇曰善哉令罷役
九月置目老困乞還曰氣力衰邁老耄虛羸要假扶繩不能進步願歸桑梓以送厥終天皇聞帵痛賜物千段逆傷岐路重感難期乃賜歌曰於岐毎慕與阿甫彌能於岐毎阿湏用利簸弥野磨我倶利底弥曳?(孺)哿謨阿羅牟冬十月戊午朔癸亥宴群臣是時天下安平民無徭役歲比登稔百姓殷富稻解銀錢一文馬被野
【二年の春三月の上巳の日に、裏庭に出てきて、曲水の宴を催した。この時に、喜々として公卿大夫・臣・連・国造・伴造を集めて、宴を催した。役人達も、繰り返し繰り返し、万歳を唱えた。秋八月の己未が朔の日に、天皇は、皇太子の億計に「私の父、先の王は、何の罪も無かった。それなのに大泊瀬の天皇は射殺して、亡骸を郊外の野原に棄て、今になってもまだ探せていない。憤り歎く気持ちがあふれている。臥って泣き、叫び歩いて、恥に報いて雪のように清くしようと考えた。私は父の敵と共に天を戴くことが出来ないと聞いた。兄弟の敵には、軍を引かず、親しく交際する者の敵とは、同じ国に居られない。賤しい者の子でも、父母の敵が居たら、こもに寝て、手すりを枕にして同じ国に住まない。市井や宮中のための軍を返さないで戦う。ました、私は天子となってもはや2年経った。できたら、敵の陵を壊して、骨をこなごなにして投げ散らしたい。今、このように報復しなければ、親孝行ではない」と言った。皇太子の億計はすすり泣いて答えることが出来なかった。それで「だめです。大泊瀬の天皇は成務を正しく治めて、天下に臨んですみずみまで行き届いた。我が国も従属する国も、喜んで崇めるのは、天皇だからだ。私の父の先の王は、天皇の子と言っても、悩みや苦しみに遭って、天皇位に登ってはいない。それで、どちらが尊くどちらが賤しいかはわかる。それなのに隠れて陵墓を壊せば、誰を人の主として天の靈に仕えられましょう。陵墓を壊してはならない理由の一つだ。また天皇と億計に会った白髮天皇が手厚く可愛がり、特別に情けをかけてもらえなかったら、どうして皇位に就けたのでしょうか。大泊瀬の天皇は、白髮の天皇の父だ。いろいろな老賢に聞くと、『言葉が無くては返答も無い。徳が無ければその報酬も無い。情けをかけて、それに応えないのは人々の気持ちを根底から損なう。』と言った。陛下は、国中をもてなし、徳行は、広く天下に聞えている。それなのに陵墓を壊すと、翻って国と支配地を見れば、おそらく、それで国を治め人民を子とはできない。これが陵墓を壊してはならない理由の2番目だ」と諫めた。天皇は「なるほど」と言って、陵墓を壊すことを止めさせた。九月に、置目が、老いて体の自由が利かなくなって、「気力が衰え、どんどん老いぼれて病んでやつれた。仮に縄の助けが有っても一人で歩き進むことが出来ない。できましたら、故郷(桑梓:詩経小雅小弁「維桑與梓必恭敬止靡瞻匪父靡依匪母)に帰って、その最期を送りたい」と国に帰りたいと望んだ。天皇は、それを聞いて、布を裂くように痛々しく思い、千着分の布を与えた。反対の路に別れることを痛く悲しみ歌った()冬十月の朔が戊午の癸亥の日に、群臣を饗応した。この時に、天下、平安で、人民は、労役が無かった。毎年毎年稔りが増えて、百姓はとても富んだ。稲10斗が銀銭一文で、馬が、野にいっぱいに増えた。】とあり、標準陰暦と合致する。
実際のこの天皇が在位した斉末梁初は『梁書』に「齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云」と斉末499年に日本の僧の言葉として、「名國王爲乙祁」と国王の名が「おけ」と記述し、その頃、
宋の何承天、斉の劉孝孫、隋の劉焯らが私の標準陰暦で採用している太陽の黄経と月の黄経が一致する日を朔日とする、本当に朔を含む日を朔日としようとする暦への変更を推進している。しかし、唐まで採用されずに、月の満ち欠けの周期の計算をもとに、朔を含む日を朔日となるように大小の月を振り分けた平朔法だったので、私の標準陰暦と大小の月との違いを問わなかった。
『魏略』に「不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」、『晋書』にも「不知正歳四節但計秋收之時以爲年紀」、『梁書』に「俗不知正歳多壽考多至八九十或至百歳」とあるように、暦を人々に公布していなかったからで、おそらく、『日本書紀』の暦は見たとおりの朔を記録し続けたと思われるし、今まで見てきた通り、朔日だけに関しては、誤差が大小の月だけなのだから、十分検討に値するし、最後に、検証結果を記述したいと思っている。
『山海經』の「有湯谷湯谷上有扶桑」「東海之外甘水之閒有羲和之國・・・羲和者帝俊之妻」、『史記』に「帝堯・・・命羲和,敬順昊天,數法日月星辰・・・居郁夷曰暘谷敬道日出・・・便程東作日中星鳥以殷中春・・・以正中夏・・・以正中秋・・・以正中冬・・・歲三百六十六日以閏月正四時」と 帝堯が夷の暘谷(湯谷)に住む帝俊の妻の羲和に暦を創らせて、中気の二至二分も記述されている。
すなわち、日本の支配者はこれらの二至二分を知り、そして、春耕秋収だけ知っていれば耕作できるなどと言うのは乱暴すぎ、冬至から何日目頃に土地を耕し、水を引いて水温を考えて種まきをしなければ農耕などできない。
稲作は3千年以前から始まり、紀元前600年頃は当然これらの知識があったと思われ、支配者の知識と指示によって稲作の出来不出来が決まり、その結果を記録し続けたものが日干支の記録であったのだろう。
ところが、『日本書紀』も『古事記』も顯宗天皇は道理を知らないで、ただ意趣返しに雄略天皇陵を壊せと命じ、皇太子の仁賢天皇が居なかったら止めることが出来なかったと記述し、その他にも、曲水の宴などを何度も開き、おそらく、国が栄えているのは成務を担う皇太子の仁賢天皇のおかげと記述しているのである。
すなわち、無能な顯宗天皇が天皇であることを否定的に記述して、仁賢天皇の正当性を強調しているが、それは、本来仁賢天皇は皇位にふさわしくない天皇、本来兄で皇太子だった人物が天皇に即位できず、定策禁中と臣下が皇太子の仁賢天皇を排して顯宗天皇を即位させたということは、臣下が認めなかったのである。
そして、在位3年で後継者が生まれる前に仁賢天皇より若い顯宗天皇が崩じることはあまりありそうもなく、暗殺された可能性があり、実際の事績は武烈天皇の事績が仁賢天皇の内容で、古事記は仁賢天皇によって王朝が崩壊したため仁賢天皇の事績を書けなかった可能性がある。

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