2020年3月16日月曜日

最終兵器の目 顯宗天皇3

  『日本書紀』慶長版は
元年春正月已巳朔大臣大連等奏言皇太子億計聖德明茂奉讓天下陛下正統當奉鴻緖爲郊廟主承續祖無窮之列上當天心下厭民望而不肯踐祚遂令金銀蕃國群僚遠近莫不失望天命有属皇太子推讓聖德弥盛福祚禮章?()而勤謙恭慈順宜奉兄命承統大業制曰可乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮即天皇位百官陪位者皆忻忻焉是月立皇后難波小野王赦天下二月戊戌朔壬寅詔曰先王遭離多難殞命荒郊朕在幼年亡逃自匿猥遇求迎升纂大業廣求御骨莫能知者詔畢與皇太子億計泣哭憤惋不能自勝是月召聚耆宿天皇親歷問有一老嫗進曰置目知御骨埋處請以奉示於是天皇與皇太子億計將老嫗婦幸于近江國來田綿蚊屋野中掘出而見果如婦語臨穴哀號言深更慟自古以來莫如斯酷仲子之尸交横御骨莫能別者爰有磐坂皇子之乳母奏曰仲子者上齒墮落以斯可別於是雖由乳母相別髑髏而竟難別四攴諸骨由是仍於蚊屋野中造起雙陵相似如一葬儀無異詔老嫗置目居于宮傍近處優崇賜䘏使無乏少是月詔曰老嫗伶俜羸弱不便
行步冝張繩引絙扶而出入繩端懸鐸無勞謁者入則鳴之朕知汝到於是老嫗奉詔嗚鐸而進天皇遙聞鐸聲歌曰阿佐膩簸囉嗚贈祢嗚湏擬謨謀逗?()甫奴底喩羅倶慕與於岐毎倶羅之慕三月上已幸後苑曲水宴夏四月丁酉朔丁未詔曰凡人主之所以勸民者惟授官也國之所以興者惟賞功也夫前播磨國司來目部小楯求迎舉朕厥功茂鳥所志願勿難言小楯謝曰山官宿所願乃拜山官改賜姓山部連氏以吉備臣爲副以山守部爲民褒善顯功酬恩荅厚寵愛殊絶富莫能儔五月狹狹城山君韓帒宿祢事連謀殺皇子押磐臨誅叩頭言詞極哀天皇不忍加戮充陵戸兼守山削除
籍帳隸山部連惟倭帒宿祢因妹置目之功仍賜本姓狹狹城山君氏六月幸避暑殿奏樂會群臣設以酒食是年也太歲乙丑
【元年の春正月の己巳が朔の日に、大臣や大連達が、「皇太子の億計は、天子の徳が明瞭ですぐれてりっぱなので、天下をお譲りになった。陛下は、正統で丁度、帝王として国を治める事業を得て、皇帝の祭祀を仕切る神主となって、初代から永遠に続く帝位を受け、上は、天子の心をにない、下は民の望みをおさえる。しかし、天子の位を受け継ぎたくないと、遂に、金銀を生む国々の官僚に、遠きも近くも失望しない者が無かった。天命を得る同族が有って、皇太子に譲ろうとした。天子の徳が益々増して、天子の位は儀式の印で、幼な子が居て心底つくしてはたらき、へりくだって、礼儀正しく接っして、慈しみ従われるので、兄の命令を受けて、大業を受け継いでください」と奏上した。気持ちなどを押しとどめて「解った」と言った。それで公卿や役人を近飛鳥の八釣の宮に集めて、天皇に即位した。傍に仕える役人は、皆とても喜んだ。この月に、難波の小野王を皇后に立て、恩赦した。二月の朔が戊戌の壬寅の日に、「先の王は、多くの困難に遭遇して、荒れ野原で 命を落とした。私は、まだ幼かったので、逃げて隠れた。求め迎えられたのでまげて大業を受け継いで皇位に上った。国中で先の王の骨を求めたが、事情をよく知っている者が無かった」と詔勅した。言い終わって、皇太子の億計と、泣き叫び憤って、自制することが出来なかった。この月に、事情を知っている老人を集めて、天皇自ら一人一人問いただした。一人の老婆が居て、進みでて、「私置目は、先王の骨を埋たところを知っている。請われれば案内いたします」と言った。ここで、天皇と皇太子億計は、老婆を連れて、近江国の来田絮の蚊屋野に行幸して、掘り出して見たところ、やはり夫人の言った通りだった。穴に覗き込んで激しく泣き叫んで、心奥底から言葉を吐き出し大声で泣き悲しんだ。昔から今に至るまで、こんなひどいことは無かった。仲子の亡骸が先王の骨に交じっていて、分けることが出来なかった。ここに磐坂皇子の乳母が居た。「仲子は、上の歯が抜け落ちていた。それで分けられる」と奏上した。そこで、乳母が言う通りに、髑髏をそれぞれ分けたが、とうとう四支や夫々の骨を分けられなかった。それで蚊屋野の野中に、二つの陵を造って、それぞれ似せて同じようにした。葬儀も一緒にして分けなかった。老婆の置目に詔勅して、宮の傍の近い所に住まわせた。手厚くたたえて施しを与えて、十分足るようにした。この月に、「老婆が孤独で、著しく弱り、歩くことにも差し障りがあった。縄を張って綱を引いてそれを頼りに出入りした。縄の端に鈴を懸けて、取次を煩わせることが無いように、入るときはこれを鳴らせ。そうすれば、私は、お前が来たことが解る」と詔勅した。そこで、老婆は、詔勅を聞いて、鈴を鳴らして前に進み出た。天皇は、遠くで鈴が鳴るのを聞いて歌った()。三月の上巳の日に、裏の庭に出て、曲水の宴をした。夏四月の朔が丁酉の丁未の日に、「おおよそ主君が民の背を押すのはよく考えると官位を授けることによってだ。国が盛んになるのは、よく考えれば功績に対して恩賞を与えることによる。これは前の播磨の国司の来目部の小楯が私を探し出して迎え天皇に奏上した。その功績は優れて立派だ。昇進の申し出は憚ること無く言え」と詔勅した。小楯は、お礼をして「山の官が、私の望む居場所だ」と言った。それで山の官位をさずけて、改めて姓を山部の連の氏を与えた。吉備の臣をそえて補助にして、山守部を民とした。褒め称えて論功を示して、その恩賞には手厚く答えた。寵愛は他と比べようが無く、一族郎党が富んだ。五月に、狹狹城の山の君韓帒の宿禰が、徒党組んで謀って、押磐の皇子を殺した。殺されるときに、土下座して言った言葉はとても哀れだった。天皇は、殺すことに耐えられず、陵の入口を塞いで、一緒に山を守らせた。戸籍を削除して、山部連に組み入れた。そこで倭帒の宿禰の妹の置目の功績で、本の姓の狹狹城の山の君の氏を与えた。六月に、避暑の御殿に行って、楽器を奏でた。群臣が集まって、飲食の宴を開いた。この年は、太歳が乙丑だった。】とあり、2月戊戌朔は1月30日で1月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
『古事記』では「天皇娶石木王之女難波王」と『日本書紀』と一世代異なるが、当然、後代の『日本書紀』の注の「磐城王孫。丘稚子王之女也より、同じ王朝の事を記述した『古事記』を採用するのが理に適い、実際に清寧天皇は在位期間が短く、年代的にも磐城皇子の娘のが合い、『日本書紀』は顕宗天皇の即位の実年代が499年の即位としているので孫とした。
磐城皇子は稚国王家の当主で磐城王を襲名したのであり、「丘稚子王」は襲名前「丘」に居たにすぎず、顕宗天皇は『古事記』で「兎田首等之女名大魚也尓表(袁)祁命亦立歌恒(垣)於是志毘臣」と姫を争ったように、皇位継承のために、血筋の良い媛が必要で、難波小野王は「鳥見山中其地號曰上小野榛原下小野榛原」と物部氏の聖地鳥見山近辺の姫で、雄略天皇の血筋・稚国の血筋に加えて物部氏の血筋に繋がっている可能性がある。
雄略天皇の吉備臣の記述は蘇我氏や物部氏の王朝の内容と考えるべきで、この2王朝のバックボーンとなったのだろう。
そして、古代の体制を表すかのように、押磐皇子を殺害した近江狹狹城山君韓帒宿禰の直系に責任を取らせて山部の地位に落としながら、一族の倭王の倭帒宿禰は狹狹城山君で処遇して、地域の安定を保ったようだ。

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