『日本書紀』慶長版は
「三年春二月已 朔阿閇臣事代銜命出使于任那於是月神著人謂之曰我祖髙皇産靈有預鎔造天地之功宜以民地奉我月神若依請獻我當福慶事代由是還京具奏奉以歌荒樔田(歌荒田者在山背國葛野郡)壹伎縣主先祖押見宿祢侍祠三月上巳幸後苑曲水宴夏四月丙辰朔庚申日神著人謂阿閇臣事代曰以磐余田獻我祖髙皇産靈事代便奏依神乞獻田十四町對馬下縣直侍祠戊辰置福草部庚辰天皇崩于八釣宮是歲紀生磐宿祢跨據任那交通髙麗將西王三韓整脩宮府自稱神聖用任那左魯那奇他甲肖等計殺百濟適莫爾解於爾林築帶山城距守東道斷運粮津令軍飢困百濟王大怒遣領軍古爾解內頭莫古解等率衆趣于帶山攻於是生磐宿祢進軍逆擊膽氣益
壯所向皆破以一當百俄而兵盡力竭知事不濟自任那歸由是百濟國殺佐魯那奇他甲肖等三百餘人」
【三年の春二月の丁巳が朔の日に、阿閉の臣の事代が、命令を受けて、任那へ使者として赴いた。ここに、月神が、人にとりついて、「私の祖の高皇産靈は、天地を分けて国を造った功績が有る。民の地を、私月神に奉納しなさい。もし望むように私に献上すれば、良いことがあるだろう」と言い、事代は、このため、みやこに還って詳しく奏上した。歌荒樔田に奉納した。壹伎の縣主の先祖の押見の宿禰が祠で仕えた。三月の上の巳の日に、裏庭に出てきて、曲水の宴を開催した。夏四月の朔が丙辰の庚申の日に、日神が、人にとりついて、阿閉の臣の事代に「磐余の田を、私の祖の高皇産靈に献上しなさい」と言った。事代は、それで奏上した。神が命ずるままに田を十四町献上した。對馬の下縣の直が、祠で仕えた。戊辰の日に、福草部を置いた。庚辰の日に、天皇は、八釣の宮で崩じた。この歳、紀の生磐の宿禰は、任那から馬に跨って、高麗へ遣使した。西では、三韓の王として、官府を整えて治め、自らを神聖と名乗った。任那の左魯や那奇他甲背等が謀って、百済の適莫爾解を爾林で殺した。帯山城を築いて、東道を防衛した。兵糧を運ぶ港が絶たれて、軍が飢えて困った。百済の王が、大変怒って、領軍の古爾解と内頭の莫古解達を派遣して、兵を率いて帯山に赴いて攻めた。そこで、生磐の宿禰は、軍を進めて反撃した。物事に驚き恐れない気力が益々大きくて、向かってくる敵を皆破った。一人で百人に敵対したが、しばらくすると、武器も尽き力も尽きた。勝つことが出来ないことを知って、任那から帰国した。それで、百済の国は、佐魯や那奇他甲背たち三百余人を殺した。】とあり、標準陰暦と合致する。
以前、『日本書紀』の清寧天皇三年の億計王爲皇太子が「四月乙酉朔」とされているが、『舊事本紀』は「四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子」と異なっていて、西暦502年閏4月2日が己丑で、4月は小の月になっていて、大の月なら閏4月1日となり、実際の億計王の立太子は502年の可能性があると記述した。
502年は武寧王元年で、『三国史記』の元年に「春正月佐平苩加據加林城叛王帥兵馬至牛頭城命扞率解明討之苩加出降王斬之投於白江」と同じ文字「解」をもつ人物が内乱を起こし、503年に「二年・・・冬十一月遣兵侵高句麗邊境」と高句麗と戦っていて、同様に高句麗文咨明王に「十一年・・・冬十一月百濟犯境」と合致している。
そして、この時代には自王朝の先祖が対馬と壱岐が出身地と理解しており、その仲介者が大巳貴の子の事代主と同名の事代で、阿閉臣の氏族の神話が『古事記』の神話の基で、その理解のもとに仁賢天皇が『古事記』を記述したことを理解しなければならないと思われる。
また、紀の生磐の宿禰が神聖と三韓の王を名乗ったが、紀は仲足彦が神功皇后を北陸に置いて赴き、この地から筑紫で神功皇后と再会していて、仲足彦が紀国を背景とした王と述べ、紀の宿禰はその紀国の王で仲足彦の末裔の「なか国王」として行動している。
そして、神功皇后紀前紀に「新羅王・・・曰吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」とまさしく神聖王が記述され、垂仁紀にも「天日槍對曰僕新羅國主之子也然聞日本國有聖皇」と古くから聖王と日本は朝鮮に対して名乗り、辰国→神国(日本・扶桑国)→秦国→秦王国と国名を呼ばれてきたことを継承し、紀生磐宿禰は当然の事とし、当然この三韓は辰韓・弁韓・馬韓の三韓で、『三国志』の「辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國」、『後漢書』の「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦・・・似秦語故或名之為秦韓」、『晋書』の「辰韓在馬韓之東自言秦之亡人避役入韓韓割東界以居之立城柵言語有類秦人由是或謂之爲秦韓」と『日本書紀』は同じことを述べている。
朝鮮語の読みは解らないが、辰と秦は読みが日本語で「しん」だが中国語では「chén」と「qin」で全く違い、辰韓が言う古老の秦では意味が通じないし「秦語」は中国語で、3世紀から7世紀までの中国の史書は「辰」→「秦」を共通の理解とし、その「秦」が『梁書』に「秦王国」と表記されている。
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