2020年3月27日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十六 武烈天皇1

 『日本書紀』慶長版は
小泊瀬稚鷦鷯天皇億計天皇太子也母曰春日大娘皇后億計天皇七年立爲皇太子長好刑理法令分明日晏坐朝幽枉必達斷獄得情又頻造諸惡不修一善凡諸酷刑無不親覽國內居人咸皆震怖十一年八月億計天皇崩大臣平群真鳥臣專擅國政欲王日本陽爲太子營了即自居觸事驕慢都無臣節於是太子思欲聘物部麁鹿火大連女影媛遺媒人向影媛宅期會影媛曽姧真鳥大臣男鮪恐違太子所期報曰妾望奉待海柘榴市巷由是太子欲往期處遣近侍舍人就平群大臣宅奉太
子命求索官馬大臣戲言陽進曰官馬爲誰飼養隨命而已久之不進太子懷恨忍不發顏果之所期立歌場衆執影媛袖躑躅從容俄而鮪臣來排太子與影媛間立由是太子放影媛袖移𢌞向前立直當鮪歌曰之裒世能儺鳴理鳴彌黎磨阿蘇寐倶屢思寐我簸多泥伱都都摩陀氐理弥喩鮪荅歌曰
飫瀰能古能耶陛耶哿羅哿枳瑜屢世登耶瀰古太子歌曰飫裒陀㨖鳴多黎播枳多㨖氐農哿儒登慕湏衞婆陀志氐謀阿波夢登茹於謀賦鮪臣荅歌曰飫裒枳瀰能耶陛能矩瀰哿枳哿哿梅騰謀儺嗚阿摩之耳弥哿哿農倶弥柯枳太子歌曰於弥能姑能耶賦能之魔柯枳始陀騰余瀰那爲我與釐據魔耶黎夢之魔柯枳太子贈影媛歌曰舉騰我瀰伱枳謂屢箇皚比謎?()摩儺羅磨婀我裒屢?(柁)摩能婀波寐之羅陀魔鮪臣爲影媛荅歌曰於裒枳瀰能瀰於寐能之都波?()夢湏寐陀黎陀黎耶始比登謀阿避於謀婆儺倶伱太子甫知鮪曾得影媛悉覺父子無敬之狀赫然大怒此夜速向大伴金村連宅會兵計策大伴連將數千兵傲之於路戮鮪臣於乃樂山是時影媛逐行戮處見是戮已驚惶失所悲淚盈目遂作歌曰伊湏能箇瀰賦屢嗚湏擬底舉慕摩矩羅?()箇播志湏擬慕能娑幡伱於裒野該湏擬播屢比箇湏我嗚湏擬逗摩御暮屢嗚佐裒嗚湏擬?()摩該伱播伊比佐倍母理柂摩暮比伱瀰逗佐倍母理儺岐曽裒遲喩倶謀柯㝵比謎阿婆例於是影媛收埋既畢臨欲還家悲鯁而言苦哉今日失我愛夫即便灑涕愴矣纏心歌曰婀嗚伱與志乃樂能婆娑摩伱斯斯貳暮能瀰逗矩陛御暮梨瀰儺曽曽矩思寐能和倶吾嗚阿娑理逗那偉能古
小泊瀬の稚鷦鷯天皇は、億計天皇の太子だ。母は春日の大娘皇后という。億計天皇の七年に、皇太子に立った。生長して法や道理に興味を持って、決まりを明らかにして分類した。昼間から遅くまで朝廷に居て、かすかにねじ曲がった事を必ず見つけ出して、裁きを決断して、真理を得た。またしきりに諸々の悪事をこしらえ、ひとつも善い事に目を向けなかった。おおよそ諸々の極刑を見ないことは無かった。国内の人々は、残らず皆震え怯えた。十一年の八月に、億計天皇が崩じた。大臣の平群の眞鳥の臣が、一人で国政をほしいままにして、日本の王になろうと思った。太子の為にといつわって陣屋をつくり、終わると直ぐに自分が入った。傲慢にも政策を司どり、臣下としての節度も無く取りまとめた。あるとき、太子は、物部の麁鹿火の大連の娘の影媛を呼び寄せようとして、仲立ちを派遣して、影媛の邸宅に向わせて会う約束をした。影媛は、それより前に眞鳥の大臣の子の鮪と恋仲だった。太子との約束を違えることになる事を恐れて、「私は出来ましたら、海柘榴市の街中で待っています」と報告した。そのため、太子は、約束の場所に行こうとした。近習の臣下を派遣して、平群の大臣の邸宅に赴いて、太子の命令を奏上して、官馬を請い求めた。大臣は、ふざけて「官馬は誰のために飼っているか。思いのままに」と偽って、ちっとも献上しなかった。太子は、恨みを胸にしまい、忍んで顔に出さなかった。それで約束の所は多くの男女が歌を交換する人々が立っていた。それで影媛の袖を掴んで、つつじの木の所に誘った。しばらくして鮪臣がやって来て、太子と影媛との間に押しのけて立った。それで、太子は、影媛の袖を放して、移動して鮪の前に直接向かい合って歌った()。鮪は、歌で答えた()。太子が歌った()。鮪臣が歌って答えた()。太子が歌った()。太子は、影媛に歌を贈った()。鮪臣が影媛の為に歌って答えた()。太子は初めて鮪が以前から影媛を得ていたことを知った。平群大臣親子が全てにおいて敬意が無い様子が解って、顔色を変えて大変怒り狂った。その夜、すぐに大伴の金村の連の邸宅に向って、軍隊を集めて策略を練った。大伴の連は、数千の兵士を率いて、道の上で待ち伏せて、鮪臣を乃樂山で斬り殺した。この時に、影媛が、斬り殺された所に行きつくと、既に斬り殺された姿を見た。驚き恐れおののいて当てもなくさまよい、余の悲しさに涙を流し目から溢れ落ちた。そして歌を作った()。それで影媛が鮪を埋葬し終わって、家に帰ろうとして、小骨でも刺さったような声でむせび泣いて、「苦々しいことだ。今日、私の吾する夫を失なった」と言った。それで涙を流して泣き悲しみに包まれて歌った()。】とある。
『日本書紀』は武烈紀に鮪との確執を記述しているが、『古事記』では清寧記に「平群臣之祖名志毘臣」、「凡朝廷人等者且(旦)参赴於朝廷晝集於志毘門亦今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也」と記述し、この理由を、『日本書紀』はこの時期の記事を推古天皇が記述し、『古事記』が仁賢天皇によって記述されたことから、清寧記に起こったとのべ、武烈紀に『日本書紀』が記述したのは498年頃に事件が起こったからだと前項で述べた。
『舊事本紀』には「大伴室屋大連平群真鳥大連並如」と金村ではなく室屋が同時代の人物と記述され、「冬十月己巳朔壬申大伴室屋大連率臣連奉璽於太子」と室屋が天皇の璽を奉じ、内容も臣下が天皇を推挙する「定策禁中」そのもので、鮪を斬り殺した時に、まだ、大連に就任していないのに大連と記述され、『舊事本紀』で天皇の璽を奉じた時に室屋大連と呼ばれていて、大連就任前に大連と呼ばれているのと合致する。
すなわち、ここから『日本書紀』の記述方法がよくわかり、天皇や皇太子は特定しないで対象の重要人物のみ実名を記述し、干支が解っている実際に発生した実年代に当てはめ、当て嵌めた時代の天皇の頃の重要人物に対応する氏族を当て嵌め、天皇の時代の同じ氏族の人物に名を書き換えるという手法で、私たちは、当て嵌めた天皇の時の人物は各氏族が誰であるか特定できる『舊事本紀』のような資料を持っている。
そうすると、この大伴大連は室屋だったが、武烈天皇の時の大伴氏は金村という資料があるので金村に変更する、また、菟田の首達とは物部氏の一族であったと考えられ、物部氏にとっては真鳥も大臣ではなく大連と呼んでいることから、大連は皇位継承権をもつ皇太子と同等の大王だったことがわかる。
そして、大伴金村の祖父若しくは叔父の室屋の頃、仁賢天皇が清寧天皇が鮪の時代に清寧天皇を殺害して、臣下が 定策禁中で顕宗天皇を指名し、その後、仁賢天皇が皇位を簒奪した可能性が高い。

0 件のコメント:

コメントを投稿