『日本書紀』慶長版は
「二年春二月天皇恨無子乃遣大伴室屋大連於諸國置白髮部舍人白髮部膳夫白髮部靫負冀垂遺跡令觀於後冬十一月依大嘗供奉之料遣於播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計弘計畏敬兼抱思奉爲君奉養甚謹以私供給便起柴宮權奉安置乗騨馳奏天皇愕然驚歎良以愴懷曰懿哉悅哉天垂博愛賜以兩兒是月使小楯持節將左右舍人至赤石奉迎語在弘計天皇紀三年春正月丙辰朔小楯等奉億計弘計到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中夏四月乙酉朔辛卯以億計王爲皇太子以弘計王爲皇子秋七月飯豊皇女於角刺宮與夫初交謂人曰一知女道又安可異終不願交於男九月壬子朔癸丑遣臣連巡省風俗冬十月壬午朔乙酉詔犬馬器翫不得獻上十一月辛亥朔戊辰宴臣連於大廷賜綿帛皆任其自取盡力而出是月海表諸蕃並遣使進調四年春正月庚戌朔丙辰宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差夏閏五月大餔五日秋八月丁未朔癸丑天皇親錄囚徒是日蝦夷隼人並內附九月丙子朔天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差五年春正月甲戌朔已丑天皇崩于宮時年若干冬十一月庚午朔戊寅葬于河內坂門原陵」
【二年の春二月に、皇子が無いことを悔しく思って、それで大伴の室屋の大連を諸国に派遣して、白髮部の舍人、白髮部の膳夫、白髮部の靫負を置き。足跡として教え伝えるように、後世に残した。冬十一月に、大嘗の行列に加わるために、派遣した播磨国の国司、山部の連の先祖の伊豫の來目部の小楯が、赤石の郡の縮見の屯倉の首の忍海部の造の細目の新室で、市邊押磐の皇子の子の億計と弘計を見つけた。畏れ敬う気持ちで、皇子の為と思って養い、とても謹んで必要なものを与えた。それで柴の宮を起して、一時的に据え置いた。そして、馬に乗って駆け付けて奏上した。天皇は、非常にびっくりして感心し、しばらくしてからいたみをもって「おお、喜ばしいこと、天が、みんな平等に愛して、二人の子を与えてくださった」と言った。この月、小楯に左右の舍人を連れて、赤石に迎えに行かせた。この話は、弘計天皇の紀に在る。三年の春正月の丙辰が朔の日に、小楯達は、億計・弘計を奉って、攝津国に着いた。臣・連を引き連れて、王が乗る青蓋車に乗せて、宮中に迎え入れた。夏四月の朔が乙酉の辛卯の日に、億計王を皇太子にした。弘計王は皇子にした。秋七月に、飯豐の皇女が、角刺の宮で、夫と初めて交わった。人に「一つの女の道を知った。何とも奇異なことだった。もう男と交わろうと思わない」と言った。九月の朔が壬子の癸丑の日に、臣・連を派遣して、人々の日常生活を回って調査させた。冬十月の朔が壬午の乙酉の日に「犬や馬や遊び道具を献上してはならない」と詔勅した。十一月の朔が辛亥の戊辰の日に、臣・連のために大庭で宴を開いた。綿や絹を与えた。皆、勝手気ままに力の限り取り合って出て行った。この月、海外の諸藩が一緒に遣使を派遣して年貢を持って来た。四年の春正月の朔が庚戌の丙辰の日に、海外の諸蕃の使者を朝堂で饗応した。夫々差をつけて贈り物を与えた。夏の閠五月に、大宴会を五日間催した。秋八月の朔が丁未の癸丑の日に、天皇が、自ら囚人を記録した。この日に、蝦夷と隼人が、一緒に服属した。九月の丙子の朔の日に、天皇が、賭射に臨んでいた。役人と海外の使者への賜物を賭けて射た。夫々差をつけて賜物を与えた。五年の春正月の朔が甲戌の己丑の日に、天皇が宮で崩じた。その時、年齢がまだ若かった。冬十一月の朔が庚午の戊寅の日に、河内の坂門の原の陵に葬った。】とあり、三年九月壬子朔は8月30日、十一月辛亥朔は10月30日、四年春正月庚戌朔は12月30日、九月丙子朔は8月30日、五年春正月甲戌朔は12月30日、それ以外は標準陰暦と合致する。
「億計王爲皇太子」が482年「四月乙酉朔」とされているが、『舊事本紀』は「四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子」と異なっていて、502年閏4月2日が己丑、4月は小の月になっていて、大の月なら閏4月1日となり、実際の億計王の立太子は502年の可能性があり、立太子は倭国の王朝開始で、武の死亡、磐井の即位が502年の可能性がある。
市邊押磐皇子が殺害されたのは456~7年で清寧2年が481年なので顕宗天皇32歳で概ね符合し、実質天皇の飯豐皇女の弟が皇太子、鮪が実質皇太子の大臣で、鮪が皇位継承権のある正統な姫を皇后に迎えなければならなかったと考えられる。
そのため、武烈天皇前期に「物部麁鹿火大連女影媛遺媒人向影媛宅期會影媛會奸眞鳥大臣男鮪」と記述されているが、『古事記』では「天下之間平群臣之祖名志毘臣立于歌恒(垣)取其表(袁)祁命將婚之美人乎其孃子者兎田首等之女名大魚也尓表(袁)祁命」と姫が異なるが、『古事記』の記述者の巨勢氏にとって都合の悪い姫の名で、しかも、清寧天皇に記述され、姫を奪われたと記述していない。
当然、真実は『古事記』の清寧天皇の時の太子顕宗で、顕宗が姫を奪われたため平群氏を滅亡させたのであり、姫の父親が兎田首等と特定しておらず、特定できない、特定したら困る人物を鮪に取られた、だから、平郡氏を滅亡させたのである。
それを、どうして『日本書紀』が武烈天皇前紀に記述したかというと、実際に起きた時が498から9年だったからであり、『梁書』に扶桑国の王が「名國王爲乙祁」と梁が建国された502年に、扶桑国の王が乙祁だったと記述して、502年は武烈天皇に当てたため、本来、顕宗天皇の事績を、顕宗が挿入されるべき499年の即位前紀に記述したのであり、『日本書紀』は年号を正しく記述している。
ちなみに、兎田は「雌鳥皇女・・・足玉手玉雄鯽等追之至菟田迫」と足玉手玉を持っていた雌鳥皇女が逃げた土地で、雌鳥皇女は伊勢遺跡の皇女だった。
そして、仲哀天皇の時「以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭」、『舊事本紀』に「伊我臣祖大伊賀彦」で、伊賀臣は大彦の末裔だ。
鮪と取り合った姫が影媛だったのか大魚だったのかは解らないが、原則先の仁賢天皇が書いた『古事記』を採用すべきで、後代の蘇我氏が書いた『日本書紀』はこの時の姫が麁鹿火の姫だと考え、清寧天皇の時代では時代が合わないので一世代後の麁鹿火の時代に挿入したと考えるべきで、鮪が得た姫はそれほど重要な姫だということになる。
当然、清寧天皇に鮪を当てはめたのだから、まだ未婚で20歳程度の人物だったのだろう。
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