『日本書紀』慶長版は
「五年春二月丁亥朔辛卯普求國郡散亡佐伯部以佐伯部仲子之後爲佐伯造六年秋九月巳酉朔壬子遣日鷹吉士使髙麗召巧手者是秋日鷹吉士被遣後有女人居于難波御津哭之曰於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫?(何)怜矣哭聲甚哀令人斷腸菱城邑人鹿父聞而向前曰何哭之哀甚若此乎女人荅曰秋葱之轉雙納可思惟矣鹿父曰諾即知所言矣有同伴者不悟其意問曰何以知乎荅曰難波玉作部鯽魚女嫁於韓白水郎𤳉生哭女哭女嫁於住道人山杵生飽田女韓白水郎𤳉與其女哭女曾既倶死住道人山寸(杵)上姧玉作部鯽魚女生麁寸麁寸娶飽田女於是麁寸從日鷹吉士發向髙麗由是其妻飽田女徘徊顧戀失緖傷心哭聲尤切令人腸斷是歲日鷹吉士還自髙麗獻工匠湏流枳奴流枳等今倭國山邊郡額田邑熟皮髙麗是其後也七年春正月丁未朔已酉立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子八年冬十月百姓言是時國中無事吏稱其官海內歸仁民安其業是歲五穀登衍蠶麥善收遠近清平戸口滋殖焉十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩于正寢十月已酉朔癸丑葬埴生坂本陵」
【五年の春二月の朔が丁亥の辛卯の日に、広く国郡に散り逃れた佐伯部を探した。佐伯部の仲子が後に、佐伯造となった。六年の秋九月の朔が己酉の壬子の日に、日鷹の吉士を、高麗に使者として派遣して、技術者を招待した。この秋に、日鷹の吉士が遣使された後に、女が、難波の御津にいて、「母にも大事な人、私にも大事な人。優しい私の夫の哀れなことか」と声をあげてないた。泣き声は、とても哀れで、はらわたが断ち切れるようだった。菱城の邑の人の鹿父がそれを聞いて前に立って、「泣き声の哀れなこと、どうしてこのように甚だしいのか」と言った。女は、「秋の葱が二つぐるっと重なって、袋の中にあるのを考えてください」と答えた。鹿父は、「解った」と言った。それで言う意味を知った。一緒に居た者は、その意味が解らないで、「どうしてわかったのか」と問いかけた。「難波の玉作部の鯽魚が韓の白水郎𤳉に嫁いで、哭女を生んだ。哭女は、住道の人の山杵に嫁いで、飽田女を生んだ。韓の白水郎𤳉とその娘の哭女とは、共に、すでに死んだ。住道の人の山杵は、以前、玉作部の鯽魚女に、麁寸を生ませた。麁寸は、飽田女を娶った。麁寸は、日鷹の吉士について、高麗に旅だって向かった。このために、その妻の飽田女は、あてもなく歩き回り、いとおしく思い、心を乱して、傷ついた。泣き叫ぶ声は、とても切なく、はらわたが断ち切れるようだった。」と答えた。この歳に、日鷹の吉士は、高麗から還って、技術者の須流枳と奴流枳等を献上した。今、大倭国の山邊の郡の額田の邑の熟皮の高麗は、この子孫だ。七年の春正月の朔が丁未の己酉の日に、小泊瀬の稚鷦鷯の尊を皇太子に立てた。八年の冬十月に、百姓が「この時、国中は何事もなく、官吏は、その官位道理に呼ばれた。黄海も、思いやりの心を取り戻し、民は、それぞれの仕事は何事も無かった」と言った。この歳は、五穀はたくさん収穫でき、蚕や麦を多く納められた。遠くも近くも清々しく平穏で、門の垣根が益々大きくなった。十一年の秋八月の朔が庚戌の丁巳の日に、天皇は、正殿で崩じた。冬十月の朔が己酉の癸丑の日に、埴生の坂本の陵に葬っむった。】とあり、朔日の日干支は標準陰暦と合致する。
朔日の日干支が間違いないと言うことは、実際に498年にある天皇が崩じ、善政を行ったこの崩じた天皇は平群氏の天皇で、何代目かの真鳥だったのであり、このあと、鮪が継承すべきだったがまだ成人していないため、飯豊姫が皇位に就き、鮪が皇太子であった可能性が高い。
そして、飯豊姫の従弟の顕宗・仁賢兄弟を迎え入れ、鮪が成人して真鳥を襲名して皇位を継ごうとした時、顕宗・仁賢兄弟が鮪を殺害して王朝を奪取したと考えられ、『日本書紀』は武烈天皇の記述の中に詳しく述べた。
そして、ここの立太子は、本来立太子が倭国の王朝交代で、494年は武が『宋書』「順帝昇明二年遣使上表」のから478年から『梁書』「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」の502年は武が在位していて、仁賢7年の立太子はおそらく武烈7年505年に倭国の王朝交代があり、磐井が即位したと考えられる。
『三国史記』には高句麗の文咨明王494年に「三年・・・秋七月我軍與新羅人戰於薩水之原羅人敗保犬牙城我兵圍之百濟遣兵三千援新羅我兵引退」、497年に「六年秋八月遣兵攻新羅牛山城取之」、新羅の炤知麻立干497年に「十九年夏四月倭人犯邊秋七月旱蝗命羣官擧才堪牧民者各一人八月高句麗攻陷牛山城
」と日本の友国の倭と高句麗が共同して新羅を討ち友好関係にあったと思われ、高句麗との交流があり、『梁書』の「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と高句麗の冠位が導入されたこととよく対応する。
0 件のコメント:
コメントを投稿