2023年1月30日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利為通事此遣唐之始也十六年夏四月小野妹子至自大唐國号妹子臣日蘇因高即天皇使人裴世清下客十二人從妹子臣至於築紫語在別記秋九月辛未朔辛巳唐客裴世清罷皈則須復以大仁小野妹子臣為大使小仁吉志雄成為小使小禮福利為通事副于唐客而遣之物部論姫大刀自連公爲參政十七年秋九月小野妹子等至自大唐廾年春二月(辛亥)朔庚午政葬皇大夫人堅鹽媛於檜隈大陵是日(?誅 言+)於輕街第一安倍内臣鳥(?誅 言+)天皇之令則尊靈明器明衣類万呂于給第二諸皇子等以次第各(?誅 言+)之第三中臣宮地連鳥摩呂(?誅 言+)大臣之辞第四大臣引率八腹臣等便以境部臣摩理勢令(?誅 言+)氏姓之本矣時人云摩理勢鳥摩呂二人能(?誅 言+)唯鳴臣不能(?誅 言+)矣廾二年夏六月丁卯朔己卯詔大仁矢田部御嬬連公改姓命造則遣大唐更復大礼犬上君御田鉏爲小使而遣之物部志佐古連公為大連廾三年秋九月矢田部造御嬬犬上君御田鉏等至自大唐矣」、【十五年秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通訳とした。これが、唐の国に遣使する始めだ。十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、蘇因高と呼んだ。大唐の使者・裴世清と下客十二人が妹子臣に従って筑紫についたと別の書にある。秋九月辛未朔辛巳、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁吉志雄成を小使とし、小礼福利を通訳として随行させた。物部鎌姫大刀自連を参政とした。十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。二十年春二月(辛亥)朔庚午、皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の街中で誄をした。第一に阿部内臣鳥が天皇の言葉を読み霊に物を供えた。供えた物は祭器、喪服の類いが一万五千種もあった。第二に諸皇子が序列に従ってそれぞれ誄し、第三に中臣宮地連烏摩侶が大臣の言葉を誄し、第四に馬子大臣が多数の支族らを率いて、境部臣摩利勢に氏姓のもとについて誄を述べさせた。時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。二十二年夏六月丁卯朔己卯、大仁矢田部御嬬連公に、姓を改め造とした。そうして大唐へ派遣した。また、大礼犬上君御田鍬を小使として派遣した。物部恵佐古連を大連とした。二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。】と訳した。

小野妹子の遣使は『隋書』608年大業四年推古16年の「百濟・倭・赤土・迦羅舍國並遣使貢方物」、御田鍬の派遣は610年大業六年推古18年の「倭國遣使貢方物」の記事だが、推古紀は『隋書』を見たり、唐や百濟の資料が紛れ込んだと考えられ、この推古十五・六年記事は『舊唐書』の631年「貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令貢」の遣使の記事と、「遣新州刺史表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還」の表仁の記事、二十二年記事は648年貞觀二十二年の「又附新羅奉表以通起居」の記事を嵌め込んだと思われる。

『小野毛人墓誌』に「小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に死亡し、『続日本紀』に714年「小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」とあり、毛人は早逝のようなので、妹子は660年代に死亡していると考えられ、活躍は630年代が相応しい。

厩戸王が石上贄古、尾輿の妃が稲目「弓削連祖倭古連」の娘で稲目は倭古、尾輿の子が、「物部守屋大連公子日弓削大連」と、稲目→小姉君→穴穂部と穴穂部の家系が弓削と言ってきたが、穴穂部皇女の子が厩戸王、その子が山背王で、山背王は『上宮聖徳法王帝説』に「山代大兄王娶庶妹舂米王生児難波麻呂古王次麻呂古王次弓削王次佐々女王次三嶋女王次甲可王次尾治王」と弓削王が存在し、穴穂部の家系が弓削氏を継承したことが解り、恵佐古は「恵佐古連公麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」、「石上贄古・・・弟物部麻伊古連公」と厩戸王の弟の鎌媛大刀自の夫の嶋・豊浦皇子・田目の子の豊浦大臣が恵佐古で、持統紀に「小墾田豐浦」とあり、豊浦は小墾田の一部のようで、小治田宮の豊浦皇子は皇太子の大臣と解る。

2023年1月27日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書3

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「元年夏四月庚午朔巳卯立廄戶豐聡耳皇子立爲皇太子仍錄攝政以万機悉委矣橘豐日天皇第二子也母皇后穴穗部間人皇女皇后懷妊開胎之曰巡行禁中監諸司至于馬官乃當廄戶而不勞勿産之生而能言有聖智及壯一聞十人訴以勿先能辨兼知未然且習内教於高麗僧慧慈學外典於博士覺哿並悉達矣父天皇愛之令居宮南上殿故稱其名謂上宮廄戶豐聡耳太子矣秋九月改葬橘豐日天皇於河内磯長陵二年春三月丙寅朔詔皇太子及大臣令興隆三寶是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍即謂寺焉九年春二月皇太子初興宮室于斑鳩十一年十二月戊辰朔壬申始制冠位十二階各善有差十二年春正月戊戌朔始制冠位於諸臣各有差夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七条別在日記十三年冬十月皇太子居斑鳩宮」、【元年の夏四月庚午朔巳卯、厩戸豊聡耳皇子を皇太子、摂政としてすべて任せた。橘豐日天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女、皇后は出産予定日に、禁中で、官司達を見回ったが、馬司のところにきたとき、厩の戸に当たって、難なく出産した。太子は生まれながらにものをいい、聖人のような知恵を持ち、成人してからは、一度に十人の訴えを聞いても、誤ることなく、先の事までよく見通した。また、仏法を高麗の僧・慧慈に習い、儒教の経典を覚哿博士に学んだ。そしてことごとくそれを極めた。父の天皇が可愛がり、宮殿の南の上宮に住まわせた。そこでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子といった。秋九月、橘豐日天皇を河内磯長陵に改葬した。二年の春三月丙寅朔、皇太子と大臣に、仏教の興隆を図らせた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。九年春二月、皇太子ははじめて宮を斑鳩に建てた。十一年十二月戊辰朔壬申、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位を定めた。十二年の春一月戊戌朔に、はじめて冠位を諸臣に与え、それぞれ位づけた。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子はみずから十七条憲法を作った。十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移った。】と訳した。

593年「元年夏四月庚午朔巳卯」は3月30日で九州の暦、この日の立太子はこれまで通り俀国の王朝交代で、この年は法興3年にあたり、この時、法興帝の弟の『隋書』「名太子為利歌彌多弗利」、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇」が皇太子になって宗教上の天子法興帝に対し、昼間の政治を司る太子聖徳帝となった。

この前年の592年11月に「東漢直駒弑于天皇或本云東漢直駒東漢直磐井子也」、「駒奸嬪事顯爲大臣所殺」と大臣の命令で泊瀬部天皇を殺害して殺されたとあり、おそらく、実際は、馬子の娘なら早くとも生まれが590年頃と思われ、橘豐日の娘と思われ、馬子は三代存在し、磐余に住む橘豐日、豊浦に住む馬子、『日本書紀』推古34年「飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」と飛鳥岡本の嶋である。

そして、東漢直駒が火中君の孫法興帝の長男で法興元年に太子になったが、592年2代目の東漢直駒の義兄弟の馬子に殺害され、法興帝の弟が太子聖徳帝となり、泊瀬部天皇を殺害したのは法興帝の子の可能性が高く、645年「立中大兄爲皇太子」まで立太子が無く、天命開別天智天皇の立太子は664年天萬豊日孝徳天皇で、645年に太子なら、668年まで即位しないのは理に適わず、664年では天智が16歳で即位適齢年齢の20歳まで待って668年に即位したのなら、よく理解できる。

すなわち、645年に俀王の上宮法皇の子と思われる漢王の妹の大俣王と稲目の孫の彦人との子の茅渟王が漢王の皇太子になり、子の筑紫君天萬豊日・薩夜麻が継ぎ、薩野馬が百濟や唐にいる間、茅渟王妃の吉備姫・吉備嶋高祖母が王を担ったと思われ、664年「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻」と「夏五月戊申朔甲子・・・郭務悰等進表函」と郭務悰と共に帰国して、天命開別がクーデタで「大紫蘇我連大臣薨」入鹿と蘇我蝦夷を殺害し、天萬豊日が即位したようだ。


2023年1月25日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下参拾漆歳(戊子年三月十五日癸丑日崩)御陵在大野岡()上後遷科長大陵也」、【豐御食炊屋比賣は、小治田宮で天下を參拾漆年治めた。戊子年三月十五日癸丑の日に崩じた。陵は大野の岡の上に在ったのを、後に科長の大陵に遷した。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱豐御食炊屋姬尊者天國排開廣庭天皇女也橘豐日天皇同母也幼曰額田部皇女姿色壯麗進止軌制年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為大臣馬子宿祢見殺副位既空群臣請渟中倉太玉敷天皇之后額田部皇女以將令踐祚皇后辭譲百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇之璽印矣冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豐浦宮」、【諱は豊御食炊屋姫、天國排開廣庭天皇の娘で、橘豐日天皇の同母妹だ。幼少のときは額田部皇女と言い、容姿端麗で立ち居ふるまいもあやまらなかった。十八歳に、渟中倉太玉敷天皇の皇后となり、三十四歳で渟中倉太玉敷天皇が崩じた。三十九歳、泊瀨部天皇五年十一月、天皇は大臣馬子宿祢に見殺しにされ、それで、空位となった。群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后である額田部皇女に、嗣ぐよう頼んだが、皇后は辞退した。百官が書面でなおもおすすめたので、三度目に、ついに従った。そこで天皇の璽を捧げて、冬十二月壬申朔巳卯、皇后は豊浦宮で即位した。】と訳した。

『舊事本紀』の推古天皇は矛盾が多く、皇后になったのが『日本書紀』敏達五年577年「立豐御食炊屋姫尊爲皇后」18歳、34歳は敏達崩の585年では無く593年で、推古天皇即位の年令となり、天皇死亡は崇峻天皇の死亡を示していて、『舊事本紀』が記述する「物部連公布都姫夫人・・・倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人参朝政」と推古天皇は譯語田天皇の妃では無く倉梯宮天皇の妃で布都姫だった事を示し、しかも、池邉宮も倉梯宮も譯語田天皇の在位期間、目連の姪、木蓮子の娘の宅姫の娘の小姉君の子達の政権だった事を示している。

すると、「物部鎌媛大刀自連公・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政」と鎌媛大刀自も天皇を継承したことを示し、「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と田目豊浦皇子の妃になって、『舊事本紀』の推古紀に『日本書紀』の推古十一年「遷于小墾田宮」が記述されず、『舊事本紀』の推古天皇は豊浦宮で即位し、嶋大臣が630年から飛鳥天皇、鎌媛大刀自が642年皇極元年「天皇遷移於小墾田宮」と、飛鳥天皇嶋が死亡後、鎌媛大刀自が即位して小墾田宮天皇と呼ばれたと考えるべきだろう。

『船王後墓誌』に「阿須迦天皇之末歳次辛丑」、『上宮聖徳法王帝説』に「嶋大臣・・・卅五年夏六月辛丑薨之」とあり、推古35年6月に辛丑は無く、阿須迦豊浦天皇嶋が辛丑641年に死亡し、それが、豊浦天皇11年だったことを意味していて、『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年」623年に嶋が彦人太子の弟と同盟し、630年に泊瀬部を継いだ穴穂部皇子の子の守屋を殺害し、嶋が天皇になったと思われる。

すなわち、623年嶋と恐らく竹田皇子が同盟し、推古三四年626年2代目馬子・橘豐日が「五月戊子朔丁未大臣薨」と死亡して、豊浦皇子・嶋が大臣を継ぎ、626年泊瀬部が「大臣薨・・・家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」と飛鳥河の小嶋がある宮殿で生れた嶋が大臣になった事を意味するのではないか。

2023年1月23日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書1隋書

  『隋書』俀国伝は「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海・・・都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也・・・開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟・・・内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信・・・至隋其王始制冠以錦綵為之以金銀鏤花為飾・・・大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴淸使於俀国・・・東至一支國又至竹斯國又東至秦王國・・・自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小徳阿輩臺・・・後十日又遣大禮哥多毗・・・其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義・・・其後淸遣人謂其王曰朝命既達請卽戒塗於是設宴享以遣淸復令使者随淸來貢方物此後遂絶」、また、『隋書』卷三帝紀第三煬帝上大業四年に「三月・・・壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物・・・大業六年春正月・・・己丑倭國遣使貢方物」とあり、訳は略す。

600年開皇二十年に俀王の阿毎多利思北孤が隋に使者を送り、自国の状況を説明し、607年大業三年に国書を送って、自分も対等な天子だとの内容で無礼と激怒させ、翌大業四年608年に裴淸が最終到着地の秦王国を訪れ、俀王が官位第2位の小徳を使者に送ったが、記録を記述しなかった。

その十日後に俀国の官位なら第7位、畿内の官位なら第5位の大禮の使者、『日本書紀』は「遣大禮蘓因高大禮乎那利等徃」と大禮、後で派遣された官位と同じで、その使者が自分は倭人ではなく『史記』・『尚書』の羲和が住む夷、『漢書』・『後漢書』で「故孔子欲居九夷也」と孔子が憧れたと記述する、「東方曰夷夷者・・・天性柔順易以道御至有君子不死之國焉」と堯帝が王化した君子の国の東夷だと主張したが、俀国も秦王国も裴淸に土産を送って帰国させたにも関わらず、2国共に国交断絶したと記述された。

それに対して、俀国から分裂した倭国は608年・610年に遣使して北朝と国交を始め、とくに、推古十六年608年の小野妹子・吉士雄成の遣使は「東天皇敬白西皇帝」と謝辞を持たせて百濟と共に遣使して、倭国は百濟と同盟関係であった事を示していて、それに対して、後の日本の俀国は新羅と同盟したと考えられ、唐と俀国と新羅の3国連合軍が倭・百濟連合軍と戦い俀国が唐を後ろ盾に、日本を建国したようだ。

俀国は夜間に跏趺と仏教を背景に命令する兄の天子と昼間に統治する弟の太子の分業で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の天子法興帝と弟の「上宮法皇」、おそらく、『日本書紀』「更名豐耳聰聖徳・・・法大王」、大王は太子も大王で、 太子上宮法皇が上宮聖徳法大王とピタリと合致し、天子法興帝に太子、聖徳法大王と呼んでも違和感がない。

官位は600年以前に制定した俀国に対し、推古十一年603年に俀国を模倣して造り、冠も推古十六年608年と後に、錦若しくは綵の二種の衣に金・銀・鏤・花の飾りで区分するのに対し、飾りが金の髻花、5種類の羽織る綾羅で区分し、全く異なる国だと解る。

ここで一言言いたいことがあり、利用させてもらっている『維基文庫』が俀国を倭国に変更してしまい、とても残念に思う事で、後代の人間が、自説が大勢で正しいと、原本を書き換えると言うのは、傲慢としか思えないと申し述べておきたい。


2023年1月20日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇峻天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱泊瀨部天皇者天國排開廣庭天皇第十五子也母曰小姊君稻目宿祢女也二年夏四月癸丑橘豐日天皇崩于時穴稲部皇子等謀反矣 秋八月癸卯朔甲辰炊尾姬尊與群臣勧進天皇即天皇位是月宮於倉梯元年戊申春三月立大伴糠手連女小手子為妃生一男一女蜂子皇子次錦代皇女四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵其妣皇后(?)葬之陵也五年冬十月癸酉朔丙子有獻山豬天皇指豬詔曰何時如斷此豬之頭継朕(?)嫌之人多設兵仗有異於常矣大伴嬪小手子恨寵之衰使人於蘇我馬子宿祢日頃者有獻山豬矣天皇指豬而詔曰如継豬項何時断朕思人旦於内裏大發兵仗於是馬子宿祢聴而驚矣壬午蘇我馬子宿祢聞天皇(?)詔恐嫌於巳招聚儻者謀弒天皇十一月癸卯朔乙巳馬子宿祢詐於群臣日今日進東國之調使東漢直駒乃殺于天皇矣是日葬天皇于倉梯岳陵」、【諱は泊瀬部、天皇は天國排開廣庭の第十二子で、母を小姉君といい、稲目宿祢の娘で、二年夏四月癸丑、橘豐日が崩じた。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこし、秋八月癸卯朔甲辰、炊屋姫と群臣が勧めて天皇になった。この月に倉梯宮を造った。元年春三月、大伴糠手連の娘の小手子を妃とし、一男一女蜂子と錦代皇女を生んだ。四年夏四月壬子朔甲子、譯語田天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后の葬られていた陵だ。五年冬十月癸酉朔丙子、猪が献上され、天皇は猪を指して「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」と言って、急に内裏に多くの武器を集めた。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、蘇我馬子宿祢に使者をおくり「この頃、猪が献上され、天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”と言って、内裏に多くの武器を集めている」と伝えた。馬子宿祢は、それを聞いて驚き、壬午に、蘇我馬子宿祢は、天皇の言葉を聞いて、嫌っているとを恐れ、一族を集めて、天皇の殺害を謀った。十一月癸卯朔乙巳、馬子宿祢は群臣を「今日、東国から年貢が献上される」とあざむいた。そして東漢直駒を使って、天皇を殺した。この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮治天下肆歳(壬子年十一月十三日崩也)御陵在倉椅岡()上也」とあり、訳は略した。

『日本書紀』は欽明天皇が「天皇遂崩于内寝時年若干」とまだ若くして崩じ、当然太子は弟なので、渟中倉太珠敷も若くして即位し、太子は弟の穴穂皇子だったが、彦人が13歳になって太子を変えたので、彦人が20歳になる前に穴穂皇子が太珠敷天皇を殺害して皇位を簒奪し、そして、穴穂皇子が急死した時も彦人が20歳前なので、泊瀬部・贄古が即位したが、馬子の命令で東漢直駒に泊瀬部が殺害され、皇后の豊御食炊屋が即位し、馬子の子の石上贄古・廐戸が皇太子になって、馬子とともに統治し、目連・穴穂部秦王朝が敗れ去ったと思われる。

石上贄古は譯語田宮天皇御狩の「弟娣」と弟橘豐日の嫁の穴穂部皇女が生んだのが石上贄古で、「異母妹御井夫人爲妻」とあるが、それは、「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」と叔母の娘の菟道貝鮹皇女が妃と『日本書紀』は考え、『舊事本紀』も亦の名で布都姫の娘としているようだが、『上宮聖徳法王帝説』には、聖王妃は「菩岐岐美郎」、「刀自古郎女」、「位奈部橘王」で異母妹なら「蘇我馬古叔尼大臣女子刀自古郎女」、すなわち、豊御食炊屋の姪に当たる人物なので、「菟道貝鮹皇女」は法興帝の弟聖徳帝の妃で、食炊屋の食を用いる「干食王后」の可能性が高い。

『隋書』に「竹斯國又東至秦王國・・・同於華夏」、「大業三年・・・明年・・・俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎」、「我夷人僻在海隅不聞禮義」、「此後遂絶」、「大業六年己丑倭國遣使貢方物」と608年に俀王竹斯國・夷人秦王國と会い、俀国・秦王国の2国とは断絶したが、610年には倭が遣使して『舊唐書』の倭に続き、おそらく、621年「厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮」、626年馬子の死、628年穴穂部皇子の子の守屋の死、そして、穴穂部間人が豐浦皇子の妃なったことで、夷人の国の秦王国が蘇我氏嶋大臣の倭に併合されたと考えられる。

2023年1月18日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』用明天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱橘豐日尊者天國排開廣庭天皇第四之子也母曰皇后堅鹽媛天皇信佛法尊神道十四年秋八月渟中倉太珠敷天皇崩九月甲寅朔戊午天皇即天皇位都於磐余謂池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣元年歳次丙午春正月壬子朔穴穗部間人皇女立爲皇后生四男其一日廄戶皇子更名豐聡耳聖徳皇子或名豐聡耳法大王亦名法主王初居上宮後移斑鳩於豐御食炊屋天皇世位居東宮摠攝万機行天皇事語見豐御食炊屋姫天皇記二日來目皇子三日殖栗皇子四日茨田皇子立蘇我大臣稻目宿祢女石寸名為嬪生一男田目皇子更名豐浦皇子葛城直磐村女廣子生一男一女男日麿子皇子當麻公祖女曰酢香手姬皇子二年夏四月乙巳朔丙午御新嘗於磐余河上是日天皇得病還入於宮群臣侍焉天皇詔群臣曰朕思欲歸三寶卿等議之群臣入朝而議物部守屋大連與中臣勝海連違詔議曰何背國神敬他神也由來不識若斯事矣蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助詎生異計矣癸丑天皇崩于大殿秋七月甲戌朔甲午葬于磐余池上陵天皇(?)生皇子七六男一女」、【諱は橘豊日、天國排開廣庭天皇の第四子で母は皇后の堅塩媛といい、天皇は仏法を信じ、神道を尊んだ。十四年秋八月、渟中倉太珠敷が崩じ、九月甲寅朔戊午、即位し、磐余の地に都を造り、池辺双槻宮といった。物部弓削守屋を大連とし、また大臣とした。治世元年丙午の春一月壬子朔、穴穂部間人皇女皇后とし、(以下略)二年夏四月乙巳朔丙午、磐余の河上で、新嘗が行われ、この日、天皇は病にかかり、宮中に帰り、群臣が侍った。天皇は群臣に「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」と言った。群臣は参内して相談し、物部守屋と中臣勝海は勅命の会議で「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」と反対した。蘇我馬子は「詔に従って、助ける。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」と拒んだ。癸丑、天皇は大殿で崩じた。秋七月甲戌朔甲午、磐余池上陵に葬った。(以下略)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()橘豊日命王坐池邊宮治天下参三歳此天皇娶稲目宿祢大臣之女意富藝多志比賣生御子多米王一柱又娶庶妹間人穴太部王生御子上宮之厩戸豊聡耳命次久米王次植栗王次茨田王四柱又娶當麻之倉首比呂之女飯女之子生御子當麻王次妹須加志呂古郎女此天皇(丁未年四月十五日崩)御陵在石才()掖上後遷科長中陵也」とあり、訳は略す。

橘豊日を馬子と述べてきたが、実際の天皇は譯語田宮大連御狩の子が磯城嶋宮目大連と矛盾し、磐余の天皇が池邊宮目連とわかり、その目連の政権を継承したのが「穴穂部皇子欲取天下」の母系で目連の家系の穴穗部皇子で、その皇太子が2代目穴穗部の守屋と思われる。

馬子は『日本書紀』「推古天皇三四年夏五月戊子朔丁未大臣薨」と626年に死亡とあり、また、『上宮聖徳法王帝説』「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣臥病」と死んだ大臣が病気になるのは矛盾していて、馬子と嶋は別人で、子の嶋が641年薨なら親の馬子が626年薨は理に適う。

又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に嶋が彦人の義弟竹田王と思われる王と同盟し、「卅五年・・・辛丑薨」と627年死亡は、626年に6月辛丑が無くしかも嶋が生きているので記述したと思われ、恐らく、実際は、嶋は641年に死亡し、飛鳥天皇が嶋で皇太子が蝦夷だったと思われる。

また、守屋の乱で中臣勝海が裏切って彦人の水派宮に向かうので、彦人の名が押坂と言うように、押坂で生れていて、623年に押坂宮を男弟王に譲って水派宮に遷ったと考えられ、しかも、守屋の子雄君は飛鳥浄御原宮の時に大紫冠位を得、雄君は620年頃の生れと考えられ、守屋は600年ころの生まれとなり、守屋の乱は40年近く後の623年以降に発生したことが解る。

2023年1月16日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書3

   『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』は「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也」とある。

この出土地は熊本県で、俀國か倭國の品と考えられ、「獲□□□鹵大王」を私は倭・豊の王の稲目の父の武小廣國押盾・馬背宿祢と億計天皇の娘の橘仲皇女の子の上殖葉皇子、この皇子は『古事記』で記述されず、恐らく蘇我倉王の父で初代稲目と考えた。

宣化天皇の項で大村の初授が「後清原聖朝」、これは、695年以降のことで、大宝元年に「擢卿除小納言」と真人の姓を得て、従五位下の小納言に抜擢され、前清原聖朝では不遇若しくは別格な人物だったと考えられ、「後岡本聖朝紫冠威奈鏡公」は672年「自嶋宮移岡本宮」の岡本聖朝と思われ、兄と思われる「猪名眞人石前」は703年『続日本紀』に正五位下の初出で714年に薨じた。

上殖葉は『古事記』には記述が無く、稚綾姫の子で2代目稲目に振り分けたと思われて、また、『大村骨臓器銘文』に「五百野宮御宇天皇之四世」とあり、大村は707年死亡、672年「大紫韋那公高見薨」の高見が鏡公なら、大村が第三子なので第1子は650年代生れ、三世の鏡公は630年頃の生れなので、早くとも上殖葉は590から610年頃と考えられるため、年代では合致せず、上殖葉が2代存在したように、金刺宮の時の皇子上殖葉の稲目は二代目だが同じ役職なら一世代とする理解のためである。

従って、『大村骨臓器銘文』の言う一世が五百野宮と金刺宮の稲目大臣天國排開廣庭で570年「稻目宿禰薨」によって二代目稲目の上殖葉の子の初代幸玉宮天皇渟中倉太珠敷が『大村骨臓器銘文』の言う二世で、『大村骨臓器銘文』の言う三世が押坂彦人・鏡王、額田の娘の小墾田皇女か櫻井玄王の子が大村と鏡姫で、『日本書紀』「鏡王女額田姫王生十市皇女」、『粟原寺鑪盤銘』「爾故比賣朝臣額田」と豐御食炊屋姫の額田を継承している。

『粟原寺鑪盤銘』には「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」とあり、訳は略すが、粟原寺は「甲午年始」と694年創建で「浄御原宮天下天皇」の天智天皇のために、東宮日並は弘文天皇、義母が額田姫で天武天皇のクーデタは701年の文武天皇のクーデタと考えられ、683年まで続く白鳳年号を改元したのは683年死亡の鏡姫と考えている。

『興福寺流記』に「嫡室鏡女王請曰別造伽藍安置前像大臣不許至于再三始乃絶之」とあり、一般に鎌足の正室と言われているが、嫡は『日本書紀』も『舊事本紀』も『古事記』も「嫡」字は神の妃や天皇の妃やその子に使用し、天智天皇の妃の親に鎌足が無く、弘文の弟の695年即位と思われる天武に妃の親の鎌足がいて世代が異なる。

鎌足の死亡は692年と思われ、興福寺は蝦夷を殺害後に創建した蘇我氏鎮魂の寺と考えられ、鎌媛大刀自と嶋大臣の子の難波天皇蝦夷の嫡室の可能性が高く、鎌足が大臣になる前の権力を得た時に伽藍建造を拒否した説話と2代目鏡媛の姫朝臣額田の粟原寺建立を拒否した説話をまとめたのではないだろうか。


2023年1月13日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮治天下壹拾肆歳也此天皇娶庶妹豊御食炊屋比賣命生御子静見()王亦名見()()王次竹田王亦名小見()王次小治田王次葛城王次宇毛理王次小張王次多米王次櫻井玄王八柱又娶伊勢大鹿首之女小熊()子郎女生御子布汁(斗・計)比賣命次寶王亦名糠代比賣()二柱又娶息長真手玉()之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子()名麻呂古王次坂騰()王次宇庭()王又娶春日中若子之女老女子郎女生御子難波王次桑田王次春日王次大俣王四柱此天皇之御子等并十七王之中日子人太子娶鹿()妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇次中津王次多良王三柱又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王二柱又娶庶妹玄王生御子山代王次笠縫王二柱并七王(甲辰年四月六日崩)御陵在川内科長也」とあり、訳は略す。

蘇我氏での名が豐御食炊屋姫で物部氏での名が布都姫は「布都姫・・・倉梯宮御宇天皇・・・爲夫人亦(?)朝政」と倉梯宮天皇贄古(泊瀬部)の夫人となり、「弟娣生物部石上贄古連公」と橘豐日(馬子)が倉梯宮天皇贄古の妹間人を妃に廐戸皇子(石上贄古)を生み、「此連公異母妹御井夫人爲妻」と、『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子()刀自古郎女」と橘豐日(馬子)の娘で異母妹の刀自古郎女を妃にした。

また『日本書紀』「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」は『舊事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と倉梯宮天皇贄古と豐御食炊屋姫の子が鎌媛大刀自・田眼皇女で『日本書紀』での舒明天皇は田眼皇子で、『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」のように彦人と小墾田皇女の子で、彦人が石上贄古(廐戸皇子)の義弟の麻伊古、すなわち、『古事記』での彦人と庶妹田村王の子の岡本宮天皇は『舊事本紀』「小治田豐浦宮大連」恵佐古の可能性が高い。

『古事記』と『日本書紀』では崇峻天皇までを記述した政権が異なり、『古事記』は飛鳥天皇嶋大臣が、『日本書紀』は難波天皇豊浦大臣が記述したと思われ、『古事記』の岡本宮天皇は彦人の子で、『日本書紀』では舒明天皇が贄古大連と豊御食炊屋比賣の娘の「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、「石寸名爲嬪是生田目皇子更名豐浦皇子」、『舊事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と田目皇子=嶋大臣=豊浦大臣を意味し、難波天皇豊浦大臣の父の嶋大臣が飛鳥天皇と理解している。

2023年1月11日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱澤中倉太珠敷尊者天國排開廣庭天皇第二子者母日皇后武小廣國押盾皇女天皇不信佛法而愛文史矣廾九年立為皇太子卅二年四月天國排開廣庭天皇崩元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部大市御狩連公為大連四年春正月丙辰朔甲子立廣姬為皇后生二男二女息長真手王之女也一日押坂彦人大兄皇子更名麿子皇子二日逆登皇女三日菟道磯津貝皇子次春日臣仲君女日老女子立為夫人生三男一女一日難波皇子二曰春日皇子三日桑田皇子四日大派皇子次采女伊勢大鹿首小熊女日㝹名子夫人生二女長日太娘皇女更名櫻井皇女少日糠手姬皇女更名田村皇女是歳令卜者占海部王家地與照井王家地卜便襲吉遂營宮於澤語田謂幸玉宮 五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后生二男五女其一日菟道貝鮹皇女嫁東宮聖德太子尊二曰竹田皇子三曰小墾田皇女嫁於彦人大兄王四日鸕鶿守皇女更名輕守皇女五曰尾張皇子六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇七曰櫻井弓張皇女十四年秋八月乙酉朔己亥天皇崩于大殿葬殯天皇所生皇子十五男八女七」、【諱は渟中倉太珠敷尊、天國排開廣庭天皇の第二子だ。母を石姫皇后といい、武小廣國押盾天皇の皇女である。天皇は仏法を信じず、文学や史学を好み、二十九年、皇太子になった。三十二年四月に、天國排開廣庭天皇は崩じた。元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子は即位した。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈った。物部大市御狩連を大連とした。四年春一月丙辰朔甲子、広姫を皇后とした。(略)この年、卜部に命じて、海部王の家地と糸井王の家地を占わせたら吉と出たので、宮を沢語田に造り、幸玉宮といった。五年春三月已卯朔戊子、役人が皇后を立てるようたのんだので、豊御食炊屋姫をて皇后とした。皇后は二男五女を生んだ。()十四年秋八月乙酉朔己亥、天皇は大殿で崩じたので殯した。天皇が生んだ皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人だ。】と訳した。

安閑以降は蘇我氏の政権が記述したのだから、遠慮することなく自分の系図を入れ込めば良く、渟中倉太珠敷は稲目の名と考えられ、廣姫が稲目の妃、豊御食炊屋姫皇后は彦人の妃と思われ、しかも、豐御食炊屋姫ではなく「弟贄古大連女宮古郎」で、豐御食炊屋姫(布都姫)と贄古(泊瀬部)との子の『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女と考えられる。

澤中倉太珠敷は「十五年」にも「立為太子」と記述され、「十五年」は556年欽明天皇十七年に「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される筑紫火君が火中君の皇太子になったと思われ、「廾九年立為皇太子」は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「法興元丗一年」の法興帝が皇太子になった記述で、591年に法興帝が即位し、子の東漢直駒が皇太子になったと考えられる。

『隋書』の600年「開皇二十年倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌」、607年「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法」の多利思比孤(足彦)が法興帝で、天子を自認しているのだから、帝号を持っても何ら不思議はなく、その皇太子、昼間の天子の上宮法皇も聖徳帝と自称しても不思議ではない。

彦人は、『隅田八幡神社人物画像鏡』に「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年(『日本書紀』は用明二年丁未587年)に水派宮に遷る前の生地押坂にいて、馬子ではなく嶋が鏡を贈っていて、御狩は尾輿が「天皇遂崩于内寝時年若干」と若くして死亡したので、御狩も若いため、弟の麻伊古・初代彦人も大連と記述されているのであり、麻伊古が皇太子で水派宮に遷り、御狩の子は大連ではなく、麻伊古の子恵佐古は小治田豐浦宮の大連、『舊事本紀』には岡本宮飛鳥天皇が無く、推古から皇極の宮が小治田豐浦宮で稲目の倭国、飛鳥・難波朝が馬子の倭国で、女帝と高祖母が皇位継承者だったと思われる。

稲目の朝廷は陳朝557から588年の間に舊日本国から倭国への交代があり、敏達元年572年は妥当で、推古元年593年に舊日本が倭国に吸収され、「五年春三月已卯朔戊子」は3月6日で602年なら「三月已卯朔」で、この時に御狩・初代彦人の后になったのなら、2代目彦人が623年に20歳位で、水派宮に婿入りする年代と考えられ、矛盾せず、3代目の彦人が岡本宮天皇ということになる。


2023年1月9日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連之子此連公譯語田宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮弟贄古大連女宮古郎爲妻生二兒弟物部守屋大連公子 日弓削大連此連公池身雙槻宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部今木金弓若子連公今木連等祖妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人亦(?)朝政奉齋神宮弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部麻伊古連公屋形連等祖弟物部多和髪連公孫物部麁鹿大連公麻佐良大連之子此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部押甲連公此連公檜前盧入宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部老古連神野入州連等祖孫物部金連公野間連借馬連等祖目大連之子弟物部三楯連公鳥部連等祖弟物部臣竹連公肩野連宇遅部連等祖弟物部倭古連公流羅田部連等祖弟物部塩古連公葛野韓國連等祖弟物部金古連公三島韓國連等祖弟物部阿遅古連公水間君等祖十五世孫物部大人連公御狩大連之子此連公物部雄君連公女有利媛爲妻生一兒弟物部目連公大真連等祖此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮物部目大連女豊媛爲妻生二兒孫物部鎌束連公贄古大連之子弟物部長兄若子連公弟物部大吉若子連公妹物部鎌媛大刀自連公此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公孫物部石弓若子連公今木連等祖麁甲大連之子弟物部毛等若子連公屋形連等祖孫物部奈西連公葛野連等祖押甲大連之子孫物部恵佐古連公麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮十六世孫物部耳連公今木連等祖大人連公之子孫物部忍勝連公雄君連公之子弟物部金弓連公今木連等祖孫物部馬古連公目大連之子此連公難波朝御世授大華上氏(?)大刀賜食封千畑奉齋神宮孫物部荒猪連公榎井臣等祖(?)佐古大連之子此連公同朝御世賜大華上位弟物部弓梓連公榎井臣等祖弟物部加佐夫連公榎井(?)等祖弟物部多都彦連公榎井臣等祖此連公五本淡海朝御世爲大連奉齋神宮十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」とあり、訳は略した。

この系図は矛盾だらけで、雙槻宮大連の守屋の子雄君が飛鳥浄御原宮の大紫冠、そして、雄君と同世代に十三世にあたる金橋宮大連の麁鹿火の子が、更に、小治田豐浦宮天皇の參政の鎌媛大刀自もいて、矛盾が枚挙にいとまがなく、実際は麁鹿火の子が十四世のはず、大市御狩は十四世孫ではなく十五世にあたり、十六世にあたる難波豐碕宮が完成した645年頃までの宮世代だったのであり、金橋宮が二世代続いた、すなわち、二朝廷分裂と考えるべきだろう。

『隅田八幡神社人物画像鏡』には「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と嶋大臣が彦人皇太子に鏡を献上したと記述され、癸未年563年欽明天皇二四年では彦人は舒明天皇の父で生れておらず、嶋大臣も620年初出、645年が最終の記事で理に適わず、623年に献上したことが解り、『日本書紀』と35年程度の誤差があり、『日本書紀』も1世代ズレていることが解る。

同じくズレた証拠が『上宮聖徳法王帝説』の「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」とあるが、626年推古天皇三四年「五月戊子朔丁未大臣薨」と全く異なり、推古35年の干支は丁亥で『上宮聖徳法王帝説』は日付に日干支は使用しておらず、辛丑は年干支の641年で、飛鳥天皇の死亡年である。

また、「弟贄古大連」と御狩の弟贄古は御井夫人の夫で「弟娣生物部石上贄古」と義理の妹の子では理に適わず、「弟贄古」は倉梯宮御宇天皇で夫人が布都姫、その娘、2代目布都姫の御井夫人の宮古郎・小墾田皇女、これは御狩の妃ではなく、「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と2代目御狩の押坂彦人の妃である。

そして、石上贄古は御狩の弟橘豐日(馬子)の嫁穴穂部間人の子廐戸と思われ、異母妹は『上宮聖徳法王帝説』「蘇我馬古叔尼大臣女子()刀自古郎女」と考えられ、布都姫の娘の襲名した布都姫の靜貝が、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「干食王后」の可能性が有り、布都姫の娘が入鹿の母で田目・豐浦大臣妃の『上宮聖徳法王帝説』「聖王庶兄多米王其父池邊天皇崩後娶聖王母穴太部間人王」と義姉穴穂部皇女の名を襲名した鎌媛大刀自と思われ、太珠敷の皇后の炊屋姫は「天國排開廣庭天皇中女也」と稲目の娘なので「稻目宿禰女曰堅鹽媛」と堅鹽が初代の炊屋姫・布都姫と考えられる。


2023年1月6日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「十五年春正月戊子朔甲午渟中倉太珠尊立爲太子卅二年夏四月戊寅朔壬辰天皇寢疾不豫皇太子向外不在驛馬召到引入臥内執其手詔曰朕疾甚以後事屬汝汝須打新羅封建仕那更遣夫婦惟如舊日死矣無恨天皇遂崩于内寢時年若于五月殯于河内古市九月葬於檜隈坂合陵天皇所生皇子廾三之中男十五女八」、【十五年の春一月戊子朔甲午、渟名倉太珠敷を皇太子とした。三十二年の夏四月戊寅朔壬辰に、天皇は病に臥せ、治らなかった。皇太子は外交で不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せ、寝所に引き入れ、手を取って、「私は重篤である。後のことはお前に頼む。お前は必ず新羅を討って、任那を封じ建てよ。また元の様に、夫婦同様になるなら、死んでも恨みはない」と詔勅した。天皇はついに奥座敷で崩じた。その時、年は若干、五月、河内の古市に殯し、九月、檜隈坂合陵に葬った。天皇が生んだ皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。】と訳した。

前項の「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔」・「二年春正月庚戌朔」・「七月丙子朔」も含めて「十五年春正月戊子朔」、「卅二年夏四月戊寅朔」の中で、二年正月庚戌朔が元年年号でズレていて、『舊事本紀』の欽明元年は539年、『日本書紀』は540年、『古事記』は記述されない。

元号明要元年が541年と一致しないのは、『舊事本紀』の内容と『日本書紀』の内容は同じで表記だけ違っていると言うことになり、考え方が異なる政権が金刺宮に移行した事を示し、実際の尾輿の即位は継体天皇が24年に「朕承帝業於今廿四年」の宣言を述べていて、継体元年から24年は僧聴5年540年で翌明要元541年に崩じたと考えられる。

『舊事本紀』の欽明元年が違うのに末年が欽明三二年と同じと言う事は、金刺宮天皇が2名以上いて、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」とあるように新天皇が若いため子の長男が13歳になっていないので、天皇の子以外の人物が『舊事本紀』の欽明二年に太子になったと考えられ、それが、目大連の孫の三代目の目大連が天皇、太子が荒山だったのが一代目の継体天皇目と荒山が同時期に死亡し、尾輿が皇太子、そして目天皇の長男も後に太子の大連を名乗ったと考えられ、目・尾輿の二人とも磯城嶋宮大連と記述されたと思われ、二王朝分裂となったと考えられる。

欽明天皇は、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」、「天皇遂崩于内寝時年若干」と死亡時も即位時も二十歳そこそこで、若い三代目継体目連も在位30年程度で、四代目も即位後すぐに死亡し、四代目目連が即位する時、三代目の皇后が糠子の娘の山田皇后で、億気の娘の赤見皇女は太子のまま死亡した二代目の妃だったので『古事記』に記述されなかったのではないだろうか。

554年欽明十五年の立太子は494年に筑紫君磐井が倭国の太子になり、磐井の子の葛子が528年「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉」と倭国の故地を奪われて、八女に遷都して葛子の子が俀国王「火中君」、そして、この欽明十五年の立太子で「筑紫君兒火中君弟」の筑紫君葛子の子で火中君の弟の筑紫火君が皇太子になったと考えられ、「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井を襲名したようだ。

また、「廿九年立爲皇太子」と568年欽明廿九年にも立太子があったと記述されていて、このとき、法興帝が太子になったと考えられ、「法興元丗一年歳次辛巳」と31年が622年なので、法興帝・多利思北孤は法興元年591年に即位し、皇太子の馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が皇太子になったが、592年柴垣宮天皇を殺害した時にに馬子に殺され、593年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と利歌彌多弗利・上宮法皇が太子となり、607年開皇二十年に遣隋使を派遣したが、断交した。


2023年1月4日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣二年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔日立正妃武小廣國押盾天皇女石姬為皇后誕生二男一女長日箭田珠勝大兄皇子尊次日譯語田澤名倉太殊敷尊少日笠縫皇女亦名狹田毛皇后秋七月丙子朔己丑都迂磯城謂金刺宮三年春二月納五妃元妃皇后弟日稚綾姬皇女生一男石上皇子次妃皇后弟日影皇女生倉皇子次妃堅鹽媛生七男六女蘇我大臣稻目宿祢女也一日大兄皇子謂橘豐日尊二日磐隈皇女亦名夢皇女初侍天照大神祠後坐姧茨城皇子三日(?臈嘴)鳥皇子四日豐御倉炊屋姬尊五日椀子皇子六日大宅皇子七日石上部皇子八日山背皇子九日大伴皇子十白櫻井皇女十一日肩野皇女十二日柀(?)本稚皇子十三日倉(?)人皇女次妃堅鹽姫同女弟小姉君生四男一女一日茨城皇子二日葛城皇子三日泥部穴穗部皇子四日泥部穴穗皇女五日泊瀨部皇子」、【元年己未の冬十二月庚辰朔甲申、皇太子は即位した。皇后を尊んで皇太后と追号し、皇太后を尊んで太皇太后を贈った。物部尾輿連公を大連に、物部目連を大臣にした。二年春一月庚戌朔甲子、役人たちは皇后を立てるよう願った。天皇は「正妃の武小廣國押盾天皇の娘の石姫を皇后としよう」と詔勅した。皇后は二男一女を生み、長子を箭田珠勝大兄皇子、次を訳語田渟中倉太珠敷、一番下を笠縫皇女、またの名を狭田毛皇女という。秋七月丙子朔己丑、磯城に遷都し、金刺宮といった。(訳を略す)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()天國押波流岐廣庭天皇坐師木嶋大宮治天下也天皇娶檜隈()天皇之御子石比賣命生御子八田王次沼名倉太玉敷命次笠縫王(三柱)又娶其弟小石比賣命生御子上王(一柱)又娶春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂()王次宗賀之倉()(三柱)又娶宗賀之稲因()宿祢大臣之女岐多斯比賣生御子橘之豊日命次妹石隈()王次足取王次豊御氣炊屋比賣命次亦麻呂古王次大宅王次伊美賀古王次山代王次妹大伴王次櫻井之玄王次麻奴()王次橘本之若子王次泥杼王(十三柱)又娶岐多志毘賣命之姨小兄比賣生御子馬木王次葛城王次間人穴大()部王次三枝部穴太部王亦名須賣伊呂杼次長谷部若鷦鷯()(五柱)凡此天皇之御子等并廿五王此之中沼名倉太玉敷命者治天下次橘之豊日命治天下次豊御氣炊屋比賣命治天下次長谷部之若鷦鷯()命治天下()并四王治天下也」とあり、訳は略す。

師木嶋宮天皇の妃と子は史書毎に若干違っていて、『舊事本紀』は弟小石比賣の子の()上王、『古事記』には糠子郎女に含まれる不明な皇后の妹の日影皇女の子の宗賀之倉王、その糠子郎女の子の春日山田郎女、麻呂古王が記述されない。

また『古事記』も日影皇女の子の宗賀之倉王を糠子郎女に含め、『舊事本紀』は尾輿や師木嶋宮大連目の妃で、記述しない妃は稲目の妃の可能性が高く、『古事記』は麁鹿火の妃の春日山田郎女の娘を影媛と考え、春日山田郎女の妹が糠子郎女で稲目が妃にし、姪の影媛が2代目稲目の妃で日影媛と呼ばれ、糠子郎女の娘は春日山田皇女、日影媛の子は宗賀の倉王で、その子が宗賀倉山田を名乗ったと考えられる。

3史書は少なくとも継体天皇以降推古天皇までは蘇我氏が記述していて、系図も蘇我氏が書いたと思われ、広国押建金日・建小広国押楯・天国押波流岐広庭・橘豊日・長谷部若雀・豊御食炊屋比売は蘇我氏の人物と考えられ、沼名倉太玉敷は役職名ではなく確実に天皇名、皇后が豊御食炊屋比売で皇位を継承して、倭国となったと考えられる。

『古事記』に記述されない山田皇后以外の勾金橋宮天皇妃は初代稲目の妃と思われ、木蓮子の娘の継体天皇の妹宅媛との子が小兄比賣で、稲目は倭古連を賜姓され、岐多斯比賣は橘仲姫の娘、橘仲姫の子に椀(まろ)子がいて、天國排開廣庭・稲目の妃の糠子郎女の子に春日山田郎女と橘麻呂子がいて、この春日山田郎女が岐多斯比賣ではないだろうか。

そして、2代目稲目・倭古の孫の橘豊日は、倭古の倭が倭国の倭、橘は橘仲姫の橘と考えられ、岐多斯比賣の子で豊国・日()国の王馬子で、2代目か3代目の稲目の娘石付姫との子が田目(豐浦皇子)、すなわち、豐浦嶋大臣で鎌媛大刀自を妃に日本と倭と豊と広国を支配したと思われ、目天皇の皇子泊瀬部に馬子の妹を妃に送り込み、2代の穴穂部・泊瀬部天皇を殺害して倭国に皇位が遷ったようだ。