『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱泊瀨部天皇者天國排開廣庭天皇第十五子也母曰小姊君稻目宿祢女也二年夏四月癸丑橘豐日天皇崩于時穴稲部皇子等謀反矣 秋八月癸卯朔甲辰炊尾姬尊與群臣勧進天皇即天皇位是月宮於倉梯元年戊申春三月立大伴糠手連女小手子為妃生一男一女蜂子皇子次錦代皇女四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵其妣皇后(?所)葬之陵也五年冬十月癸酉朔丙子有獻山豬天皇指豬詔曰何時如斷此豬之頭継朕(?所)嫌之人多設兵仗有異於常矣大伴嬪小手子恨寵之衰使人於蘇我馬子宿祢日頃者有獻山豬矣天皇指豬而詔曰如継豬項何時断朕思人旦於内裏大發兵仗於是馬子宿祢聴而驚矣壬午蘇我馬子宿祢聞天皇(?所)詔恐嫌於巳招聚儻者謀弒天皇十一月癸卯朔乙巳馬子宿祢詐於群臣日今日進東國之調使東漢直駒乃殺于天皇矣是日葬天皇于倉梯岳陵」、【諱は泊瀬部、天皇は天國排開廣庭の第十二子で、母を小姉君といい、稲目宿祢の娘で、二年夏四月癸丑、橘豐日が崩じた。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこし、秋八月癸卯朔甲辰、炊屋姫と群臣が勧めて天皇になった。この月に倉梯宮を造った。元年春三月、大伴糠手連の娘の小手子を妃とし、一男一女蜂子と錦代皇女を生んだ。四年夏四月壬子朔甲子、譯語田天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后の葬られていた陵だ。五年冬十月癸酉朔丙子、猪が献上され、天皇は猪を指して「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」と言って、急に内裏に多くの武器を集めた。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、蘇我馬子宿祢に使者をおくり「この頃、猪が献上され、天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”と言って、内裏に多くの武器を集めている」と伝えた。馬子宿祢は、それを聞いて驚き、壬午に、蘇我馬子宿祢は、天皇の言葉を聞いて、嫌っているとを恐れ、一族を集めて、天皇の殺害を謀った。十一月癸卯朔乙巳、馬子宿祢は群臣を「今日、東国から年貢が献上される」とあざむいた。そして東漢直駒を使って、天皇を殺した。この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(弟)長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮治天下肆歳(壬子年十一月十三日崩也)御陵在倉椅岡(崗)上也」とあり、訳は略した。
『日本書紀』は欽明天皇が「天皇遂崩于内寝時年若干」とまだ若くして崩じ、当然太子は弟なので、渟中倉太珠敷も若くして即位し、太子は弟の穴穂皇子だったが、彦人が13歳になって太子を変えたので、彦人が20歳になる前に穴穂皇子が太珠敷天皇を殺害して皇位を簒奪し、そして、穴穂皇子が急死した時も彦人が20歳前なので、泊瀬部・贄古が即位したが、馬子の命令で東漢直駒に泊瀬部が殺害され、皇后の豊御食炊屋が即位し、馬子の子の石上贄古・廐戸が皇太子になって、馬子とともに統治し、目連・穴穂部秦王朝が敗れ去ったと思われる。
石上贄古は譯語田宮天皇御狩の「弟娣」と弟橘豐日の嫁の穴穂部皇女が生んだのが石上贄古で、「異母妹御井夫人爲妻」とあるが、それは、「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」と叔母の娘の菟道貝鮹皇女が妃と『日本書紀』は考え、『舊事本紀』も亦の名で布都姫の娘としているようだが、『上宮聖徳法王帝説』には、聖王妃は「菩岐岐美郎」、「刀自古郎女」、「位奈部橘王」で異母妹なら「蘇我馬古叔尼大臣女子刀自古郎女」、すなわち、豊御食炊屋の姪に当たる人物なので、「菟道貝鮹皇女」は法興帝の弟聖徳帝の妃で、食炊屋の食を用いる「干食王后」の可能性が高い。
『隋書』に「竹斯國又東至秦王國・・・同於華夏」、「大業三年・・・明年・・・俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎」、「我夷人僻在海隅不聞禮義」、「此後遂絶」、「大業六年己丑倭國遣使貢方物」と608年に俀王竹斯國・夷人秦王國と会い、俀国・秦王国の2国とは断絶したが、610年には倭が遣使して『舊唐書』の倭に続き、おそらく、621年「厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮」、626年馬子の死、628年穴穂部皇子の子の守屋の死、そして、穴穂部間人が豐浦皇子の妃なったことで、夷人の国の秦王国が蘇我氏嶋大臣の倭に併合されたと考えられる。
0 件のコメント:
コメントを投稿