2023年1月23日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書1隋書

  『隋書』俀国伝は「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海・・・都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也・・・開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟・・・内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信・・・至隋其王始制冠以錦綵為之以金銀鏤花為飾・・・大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴淸使於俀国・・・東至一支國又至竹斯國又東至秦王國・・・自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小徳阿輩臺・・・後十日又遣大禮哥多毗・・・其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義・・・其後淸遣人謂其王曰朝命既達請卽戒塗於是設宴享以遣淸復令使者随淸來貢方物此後遂絶」、また、『隋書』卷三帝紀第三煬帝上大業四年に「三月・・・壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物・・・大業六年春正月・・・己丑倭國遣使貢方物」とあり、訳は略す。

600年開皇二十年に俀王の阿毎多利思北孤が隋に使者を送り、自国の状況を説明し、607年大業三年に国書を送って、自分も対等な天子だとの内容で無礼と激怒させ、翌大業四年608年に裴淸が最終到着地の秦王国を訪れ、俀王が官位第2位の小徳を使者に送ったが、記録を記述しなかった。

その十日後に俀国の官位なら第7位、畿内の官位なら第5位の大禮の使者、『日本書紀』は「遣大禮蘓因高大禮乎那利等徃」と大禮、後で派遣された官位と同じで、その使者が自分は倭人ではなく『史記』・『尚書』の羲和が住む夷、『漢書』・『後漢書』で「故孔子欲居九夷也」と孔子が憧れたと記述する、「東方曰夷夷者・・・天性柔順易以道御至有君子不死之國焉」と堯帝が王化した君子の国の東夷だと主張したが、俀国も秦王国も裴淸に土産を送って帰国させたにも関わらず、2国共に国交断絶したと記述された。

それに対して、俀国から分裂した倭国は608年・610年に遣使して北朝と国交を始め、とくに、推古十六年608年の小野妹子・吉士雄成の遣使は「東天皇敬白西皇帝」と謝辞を持たせて百濟と共に遣使して、倭国は百濟と同盟関係であった事を示していて、それに対して、後の日本の俀国は新羅と同盟したと考えられ、唐と俀国と新羅の3国連合軍が倭・百濟連合軍と戦い俀国が唐を後ろ盾に、日本を建国したようだ。

俀国は夜間に跏趺と仏教を背景に命令する兄の天子と昼間に統治する弟の太子の分業で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の天子法興帝と弟の「上宮法皇」、おそらく、『日本書紀』「更名豐耳聰聖徳・・・法大王」、大王は太子も大王で、 太子上宮法皇が上宮聖徳法大王とピタリと合致し、天子法興帝に太子、聖徳法大王と呼んでも違和感がない。

官位は600年以前に制定した俀国に対し、推古十一年603年に俀国を模倣して造り、冠も推古十六年608年と後に、錦若しくは綵の二種の衣に金・銀・鏤・花の飾りで区分するのに対し、飾りが金の髻花、5種類の羽織る綾羅で区分し、全く異なる国だと解る。

ここで一言言いたいことがあり、利用させてもらっている『維基文庫』が俀国を倭国に変更してしまい、とても残念に思う事で、後代の人間が、自説が大勢で正しいと、原本を書き換えると言うのは、傲慢としか思えないと申し述べておきたい。


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