2023年1月11日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱澤中倉太珠敷尊者天國排開廣庭天皇第二子者母日皇后武小廣國押盾皇女天皇不信佛法而愛文史矣廾九年立為皇太子卅二年四月天國排開廣庭天皇崩元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部大市御狩連公為大連四年春正月丙辰朔甲子立廣姬為皇后生二男二女息長真手王之女也一日押坂彦人大兄皇子更名麿子皇子二日逆登皇女三日菟道磯津貝皇子次春日臣仲君女日老女子立為夫人生三男一女一日難波皇子二曰春日皇子三日桑田皇子四日大派皇子次采女伊勢大鹿首小熊女日㝹名子夫人生二女長日太娘皇女更名櫻井皇女少日糠手姬皇女更名田村皇女是歳令卜者占海部王家地與照井王家地卜便襲吉遂營宮於澤語田謂幸玉宮 五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后生二男五女其一日菟道貝鮹皇女嫁東宮聖德太子尊二曰竹田皇子三曰小墾田皇女嫁於彦人大兄王四日鸕鶿守皇女更名輕守皇女五曰尾張皇子六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇七曰櫻井弓張皇女十四年秋八月乙酉朔己亥天皇崩于大殿葬殯天皇所生皇子十五男八女七」、【諱は渟中倉太珠敷尊、天國排開廣庭天皇の第二子だ。母を石姫皇后といい、武小廣國押盾天皇の皇女である。天皇は仏法を信じず、文学や史学を好み、二十九年、皇太子になった。三十二年四月に、天國排開廣庭天皇は崩じた。元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子は即位した。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈った。物部大市御狩連を大連とした。四年春一月丙辰朔甲子、広姫を皇后とした。(略)この年、卜部に命じて、海部王の家地と糸井王の家地を占わせたら吉と出たので、宮を沢語田に造り、幸玉宮といった。五年春三月已卯朔戊子、役人が皇后を立てるようたのんだので、豊御食炊屋姫をて皇后とした。皇后は二男五女を生んだ。()十四年秋八月乙酉朔己亥、天皇は大殿で崩じたので殯した。天皇が生んだ皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人だ。】と訳した。

安閑以降は蘇我氏の政権が記述したのだから、遠慮することなく自分の系図を入れ込めば良く、渟中倉太珠敷は稲目の名と考えられ、廣姫が稲目の妃、豊御食炊屋姫皇后は彦人の妃と思われ、しかも、豐御食炊屋姫ではなく「弟贄古大連女宮古郎」で、豐御食炊屋姫(布都姫)と贄古(泊瀬部)との子の『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女と考えられる。

澤中倉太珠敷は「十五年」にも「立為太子」と記述され、「十五年」は556年欽明天皇十七年に「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される筑紫火君が火中君の皇太子になったと思われ、「廾九年立為皇太子」は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「法興元丗一年」の法興帝が皇太子になった記述で、591年に法興帝が即位し、子の東漢直駒が皇太子になったと考えられる。

『隋書』の600年「開皇二十年倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌」、607年「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法」の多利思比孤(足彦)が法興帝で、天子を自認しているのだから、帝号を持っても何ら不思議はなく、その皇太子、昼間の天子の上宮法皇も聖徳帝と自称しても不思議ではない。

彦人は、『隅田八幡神社人物画像鏡』に「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年(『日本書紀』は用明二年丁未587年)に水派宮に遷る前の生地押坂にいて、馬子ではなく嶋が鏡を贈っていて、御狩は尾輿が「天皇遂崩于内寝時年若干」と若くして死亡したので、御狩も若いため、弟の麻伊古・初代彦人も大連と記述されているのであり、麻伊古が皇太子で水派宮に遷り、御狩の子は大連ではなく、麻伊古の子恵佐古は小治田豐浦宮の大連、『舊事本紀』には岡本宮飛鳥天皇が無く、推古から皇極の宮が小治田豐浦宮で稲目の倭国、飛鳥・難波朝が馬子の倭国で、女帝と高祖母が皇位継承者だったと思われる。

稲目の朝廷は陳朝557から588年の間に舊日本国から倭国への交代があり、敏達元年572年は妥当で、推古元年593年に舊日本が倭国に吸収され、「五年春三月已卯朔戊子」は3月6日で602年なら「三月已卯朔」で、この時に御狩・初代彦人の后になったのなら、2代目彦人が623年に20歳位で、水派宮に婿入りする年代と考えられ、矛盾せず、3代目の彦人が岡本宮天皇ということになる。


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