2023年1月25日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下参拾漆歳(戊子年三月十五日癸丑日崩)御陵在大野岡()上後遷科長大陵也」、【豐御食炊屋比賣は、小治田宮で天下を參拾漆年治めた。戊子年三月十五日癸丑の日に崩じた。陵は大野の岡の上に在ったのを、後に科長の大陵に遷した。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱豐御食炊屋姬尊者天國排開廣庭天皇女也橘豐日天皇同母也幼曰額田部皇女姿色壯麗進止軌制年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為大臣馬子宿祢見殺副位既空群臣請渟中倉太玉敷天皇之后額田部皇女以將令踐祚皇后辭譲百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇之璽印矣冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豐浦宮」、【諱は豊御食炊屋姫、天國排開廣庭天皇の娘で、橘豐日天皇の同母妹だ。幼少のときは額田部皇女と言い、容姿端麗で立ち居ふるまいもあやまらなかった。十八歳に、渟中倉太玉敷天皇の皇后となり、三十四歳で渟中倉太玉敷天皇が崩じた。三十九歳、泊瀨部天皇五年十一月、天皇は大臣馬子宿祢に見殺しにされ、それで、空位となった。群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后である額田部皇女に、嗣ぐよう頼んだが、皇后は辞退した。百官が書面でなおもおすすめたので、三度目に、ついに従った。そこで天皇の璽を捧げて、冬十二月壬申朔巳卯、皇后は豊浦宮で即位した。】と訳した。

『舊事本紀』の推古天皇は矛盾が多く、皇后になったのが『日本書紀』敏達五年577年「立豐御食炊屋姫尊爲皇后」18歳、34歳は敏達崩の585年では無く593年で、推古天皇即位の年令となり、天皇死亡は崇峻天皇の死亡を示していて、『舊事本紀』が記述する「物部連公布都姫夫人・・・倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人参朝政」と推古天皇は譯語田天皇の妃では無く倉梯宮天皇の妃で布都姫だった事を示し、しかも、池邉宮も倉梯宮も譯語田天皇の在位期間、目連の姪、木蓮子の娘の宅姫の娘の小姉君の子達の政権だった事を示している。

すると、「物部鎌媛大刀自連公・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政」と鎌媛大刀自も天皇を継承したことを示し、「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と田目豊浦皇子の妃になって、『舊事本紀』の推古紀に『日本書紀』の推古十一年「遷于小墾田宮」が記述されず、『舊事本紀』の推古天皇は豊浦宮で即位し、嶋大臣が630年から飛鳥天皇、鎌媛大刀自が642年皇極元年「天皇遷移於小墾田宮」と、飛鳥天皇嶋が死亡後、鎌媛大刀自が即位して小墾田宮天皇と呼ばれたと考えるべきだろう。

『船王後墓誌』に「阿須迦天皇之末歳次辛丑」、『上宮聖徳法王帝説』に「嶋大臣・・・卅五年夏六月辛丑薨之」とあり、推古35年6月に辛丑は無く、阿須迦豊浦天皇嶋が辛丑641年に死亡し、それが、豊浦天皇11年だったことを意味していて、『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年」623年に嶋が彦人太子の弟と同盟し、630年に泊瀬部を継いだ穴穂部皇子の子の守屋を殺害し、嶋が天皇になったと思われる。

すなわち、623年嶋と恐らく竹田皇子が同盟し、推古三四年626年2代目馬子・橘豐日が「五月戊子朔丁未大臣薨」と死亡して、豊浦皇子・嶋が大臣を継ぎ、626年泊瀬部が「大臣薨・・・家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」と飛鳥河の小嶋がある宮殿で生れた嶋が大臣になった事を意味するのではないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿