2023年1月4日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣二年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔日立正妃武小廣國押盾天皇女石姬為皇后誕生二男一女長日箭田珠勝大兄皇子尊次日譯語田澤名倉太殊敷尊少日笠縫皇女亦名狹田毛皇后秋七月丙子朔己丑都迂磯城謂金刺宮三年春二月納五妃元妃皇后弟日稚綾姬皇女生一男石上皇子次妃皇后弟日影皇女生倉皇子次妃堅鹽媛生七男六女蘇我大臣稻目宿祢女也一日大兄皇子謂橘豐日尊二日磐隈皇女亦名夢皇女初侍天照大神祠後坐姧茨城皇子三日(?臈嘴)鳥皇子四日豐御倉炊屋姬尊五日椀子皇子六日大宅皇子七日石上部皇子八日山背皇子九日大伴皇子十白櫻井皇女十一日肩野皇女十二日柀(?)本稚皇子十三日倉(?)人皇女次妃堅鹽姫同女弟小姉君生四男一女一日茨城皇子二日葛城皇子三日泥部穴穗部皇子四日泥部穴穗皇女五日泊瀨部皇子」、【元年己未の冬十二月庚辰朔甲申、皇太子は即位した。皇后を尊んで皇太后と追号し、皇太后を尊んで太皇太后を贈った。物部尾輿連公を大連に、物部目連を大臣にした。二年春一月庚戌朔甲子、役人たちは皇后を立てるよう願った。天皇は「正妃の武小廣國押盾天皇の娘の石姫を皇后としよう」と詔勅した。皇后は二男一女を生み、長子を箭田珠勝大兄皇子、次を訳語田渟中倉太珠敷、一番下を笠縫皇女、またの名を狭田毛皇女という。秋七月丙子朔己丑、磯城に遷都し、金刺宮といった。(訳を略す)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()天國押波流岐廣庭天皇坐師木嶋大宮治天下也天皇娶檜隈()天皇之御子石比賣命生御子八田王次沼名倉太玉敷命次笠縫王(三柱)又娶其弟小石比賣命生御子上王(一柱)又娶春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂()王次宗賀之倉()(三柱)又娶宗賀之稲因()宿祢大臣之女岐多斯比賣生御子橘之豊日命次妹石隈()王次足取王次豊御氣炊屋比賣命次亦麻呂古王次大宅王次伊美賀古王次山代王次妹大伴王次櫻井之玄王次麻奴()王次橘本之若子王次泥杼王(十三柱)又娶岐多志毘賣命之姨小兄比賣生御子馬木王次葛城王次間人穴大()部王次三枝部穴太部王亦名須賣伊呂杼次長谷部若鷦鷯()(五柱)凡此天皇之御子等并廿五王此之中沼名倉太玉敷命者治天下次橘之豊日命治天下次豊御氣炊屋比賣命治天下次長谷部之若鷦鷯()命治天下()并四王治天下也」とあり、訳は略す。

師木嶋宮天皇の妃と子は史書毎に若干違っていて、『舊事本紀』は弟小石比賣の子の()上王、『古事記』には糠子郎女に含まれる不明な皇后の妹の日影皇女の子の宗賀之倉王、その糠子郎女の子の春日山田郎女、麻呂古王が記述されない。

また『古事記』も日影皇女の子の宗賀之倉王を糠子郎女に含め、『舊事本紀』は尾輿や師木嶋宮大連目の妃で、記述しない妃は稲目の妃の可能性が高く、『古事記』は麁鹿火の妃の春日山田郎女の娘を影媛と考え、春日山田郎女の妹が糠子郎女で稲目が妃にし、姪の影媛が2代目稲目の妃で日影媛と呼ばれ、糠子郎女の娘は春日山田皇女、日影媛の子は宗賀の倉王で、その子が宗賀倉山田を名乗ったと考えられる。

3史書は少なくとも継体天皇以降推古天皇までは蘇我氏が記述していて、系図も蘇我氏が書いたと思われ、広国押建金日・建小広国押楯・天国押波流岐広庭・橘豊日・長谷部若雀・豊御食炊屋比売は蘇我氏の人物と考えられ、沼名倉太玉敷は役職名ではなく確実に天皇名、皇后が豊御食炊屋比売で皇位を継承して、倭国となったと考えられる。

『古事記』に記述されない山田皇后以外の勾金橋宮天皇妃は初代稲目の妃と思われ、木蓮子の娘の継体天皇の妹宅媛との子が小兄比賣で、稲目は倭古連を賜姓され、岐多斯比賣は橘仲姫の娘、橘仲姫の子に椀(まろ)子がいて、天國排開廣庭・稲目の妃の糠子郎女の子に春日山田郎女と橘麻呂子がいて、この春日山田郎女が岐多斯比賣ではないだろうか。

そして、2代目稲目・倭古の孫の橘豊日は、倭古の倭が倭国の倭、橘は橘仲姫の橘と考えられ、岐多斯比賣の子で豊国・日()国の王馬子で、2代目か3代目の稲目の娘石付姫との子が田目(豐浦皇子)、すなわち、豐浦嶋大臣で鎌媛大刀自を妃に日本と倭と豊と広国を支配したと思われ、目天皇の皇子泊瀬部に馬子の妹を妃に送り込み、2代の穴穂部・泊瀬部天皇を殺害して倭国に皇位が遷ったようだ。

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