『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「十五年春正月戊子朔甲午渟中倉太珠尊立爲太子卅二年夏四月戊寅朔壬辰天皇寢疾不豫皇太子向外不在驛馬召到引入臥内執其手詔曰朕疾甚以後事屬汝汝須打新羅封建仕那更遣夫婦惟如舊日死矣無恨天皇遂崩于内寢時年若于五月殯于河内古市九月葬於檜隈坂合陵天皇所生皇子廾三之中男十五女八」、【十五年の春一月戊子朔甲午、渟名倉太珠敷を皇太子とした。三十二年の夏四月戊寅朔壬辰に、天皇は病に臥せ、治らなかった。皇太子は外交で不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せ、寝所に引き入れ、手を取って、「私は重篤である。後のことはお前に頼む。お前は必ず新羅を討って、任那を封じ建てよ。また元の様に、夫婦同様になるなら、死んでも恨みはない」と詔勅した。天皇はついに奥座敷で崩じた。その時、年は若干、五月、河内の古市に殯し、九月、檜隈坂合陵に葬った。天皇が生んだ皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。】と訳した。
前項の「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔」・「二年春正月庚戌朔」・「七月丙子朔」も含めて「十五年春正月戊子朔」、「卅二年夏四月戊寅朔」の中で、二年正月庚戌朔が元年年号でズレていて、『舊事本紀』の欽明元年は539年、『日本書紀』は540年、『古事記』は記述されない。
元号明要元年が541年と一致しないのは、『舊事本紀』の内容と『日本書紀』の内容は同じで表記だけ違っていると言うことになり、考え方が異なる政権が金刺宮に移行した事を示し、実際の尾輿の即位は継体天皇が24年に「朕承帝業於今廿四年」の宣言を述べていて、継体元年から24年は僧聴5年540年で翌明要元541年に崩じたと考えられる。
『舊事本紀』の欽明元年が違うのに末年が欽明三二年と同じと言う事は、金刺宮天皇が2名以上いて、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」とあるように新天皇が若いため子の長男が13歳になっていないので、天皇の子以外の人物が『舊事本紀』の欽明二年に太子になったと考えられ、それが、目大連の孫の三代目の目大連が天皇、太子が荒山だったのが一代目の継体天皇目と荒山が同時期に死亡し、尾輿が皇太子、そして目天皇の長男も後に太子の大連を名乗ったと考えられ、目・尾輿の二人とも磯城嶋宮大連と記述されたと思われ、二王朝分裂となったと考えられる。
欽明天皇は、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」、「天皇遂崩于内寝時年若干」と死亡時も即位時も二十歳そこそこで、若い三代目継体目連も在位30年程度で、四代目も即位後すぐに死亡し、四代目目連が即位する時、三代目の皇后が糠子の娘の山田皇后で、億気の娘の赤見皇女は太子のまま死亡した二代目の妃だったので『古事記』に記述されなかったのではないだろうか。
554年欽明十五年の立太子は494年に筑紫君磐井が倭国の太子になり、磐井の子の葛子が528年「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉」と倭国の故地を奪われて、八女に遷都して葛子の子が俀国王「火中君」、そして、この欽明十五年の立太子で「筑紫君兒火中君弟」の筑紫君葛子の子で火中君の弟の筑紫火君が皇太子になったと考えられ、「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井を襲名したようだ。
また、「廿九年立爲皇太子」と568年欽明廿九年にも立太子があったと記述されていて、このとき、法興帝が太子になったと考えられ、「法興元丗一年歳次辛巳」と31年が622年なので、法興帝・多利思北孤は法興元年591年に即位し、皇太子の馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が皇太子になったが、592年柴垣宮天皇を殺害した時にに馬子に殺され、593年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と利歌彌多弗利・上宮法皇が太子となり、607年開皇二十年に遣隋使を派遣したが、断交した。
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