2023年1月30日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利為通事此遣唐之始也十六年夏四月小野妹子至自大唐國号妹子臣日蘇因高即天皇使人裴世清下客十二人從妹子臣至於築紫語在別記秋九月辛未朔辛巳唐客裴世清罷皈則須復以大仁小野妹子臣為大使小仁吉志雄成為小使小禮福利為通事副于唐客而遣之物部論姫大刀自連公爲參政十七年秋九月小野妹子等至自大唐廾年春二月(辛亥)朔庚午政葬皇大夫人堅鹽媛於檜隈大陵是日(?誅 言+)於輕街第一安倍内臣鳥(?誅 言+)天皇之令則尊靈明器明衣類万呂于給第二諸皇子等以次第各(?誅 言+)之第三中臣宮地連鳥摩呂(?誅 言+)大臣之辞第四大臣引率八腹臣等便以境部臣摩理勢令(?誅 言+)氏姓之本矣時人云摩理勢鳥摩呂二人能(?誅 言+)唯鳴臣不能(?誅 言+)矣廾二年夏六月丁卯朔己卯詔大仁矢田部御嬬連公改姓命造則遣大唐更復大礼犬上君御田鉏爲小使而遣之物部志佐古連公為大連廾三年秋九月矢田部造御嬬犬上君御田鉏等至自大唐矣」、【十五年秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通訳とした。これが、唐の国に遣使する始めだ。十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、蘇因高と呼んだ。大唐の使者・裴世清と下客十二人が妹子臣に従って筑紫についたと別の書にある。秋九月辛未朔辛巳、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁吉志雄成を小使とし、小礼福利を通訳として随行させた。物部鎌姫大刀自連を参政とした。十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。二十年春二月(辛亥)朔庚午、皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の街中で誄をした。第一に阿部内臣鳥が天皇の言葉を読み霊に物を供えた。供えた物は祭器、喪服の類いが一万五千種もあった。第二に諸皇子が序列に従ってそれぞれ誄し、第三に中臣宮地連烏摩侶が大臣の言葉を誄し、第四に馬子大臣が多数の支族らを率いて、境部臣摩利勢に氏姓のもとについて誄を述べさせた。時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。二十二年夏六月丁卯朔己卯、大仁矢田部御嬬連公に、姓を改め造とした。そうして大唐へ派遣した。また、大礼犬上君御田鍬を小使として派遣した。物部恵佐古連を大連とした。二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。】と訳した。

小野妹子の遣使は『隋書』608年大業四年推古16年の「百濟・倭・赤土・迦羅舍國並遣使貢方物」、御田鍬の派遣は610年大業六年推古18年の「倭國遣使貢方物」の記事だが、推古紀は『隋書』を見たり、唐や百濟の資料が紛れ込んだと考えられ、この推古十五・六年記事は『舊唐書』の631年「貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令貢」の遣使の記事と、「遣新州刺史表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還」の表仁の記事、二十二年記事は648年貞觀二十二年の「又附新羅奉表以通起居」の記事を嵌め込んだと思われる。

『小野毛人墓誌』に「小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に死亡し、『続日本紀』に714年「小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」とあり、毛人は早逝のようなので、妹子は660年代に死亡していると考えられ、活躍は630年代が相応しい。

厩戸王が石上贄古、尾輿の妃が稲目「弓削連祖倭古連」の娘で稲目は倭古、尾輿の子が、「物部守屋大連公子日弓削大連」と、稲目→小姉君→穴穂部と穴穂部の家系が弓削と言ってきたが、穴穂部皇女の子が厩戸王、その子が山背王で、山背王は『上宮聖徳法王帝説』に「山代大兄王娶庶妹舂米王生児難波麻呂古王次麻呂古王次弓削王次佐々女王次三嶋女王次甲可王次尾治王」と弓削王が存在し、穴穂部の家系が弓削氏を継承したことが解り、恵佐古は「恵佐古連公麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」、「石上贄古・・・弟物部麻伊古連公」と厩戸王の弟の鎌媛大刀自の夫の嶋・豊浦皇子・田目の子の豊浦大臣が恵佐古で、持統紀に「小墾田豐浦」とあり、豊浦は小墾田の一部のようで、小治田宮の豊浦皇子は皇太子の大臣と解る。

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