『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「廾七年冬壬戌朔甲子制日夫不覔事君竭忠之臣者實在崇優二親之子也何者夫父者天也故順天謂孝矣復君者日也故従君謂忠矣其后者月也亦母也故順此謂臣亦云赤也故孝經日求之忠臣者必在於孝子之門矣是孝道至矣辞如零泉辟猶春雨生長万物君逆此道者遂為大禍減福之機如塩入水揔而言之課之道矣別而名之謂八義矣所謂八義者蓋謂孝悌忠仁礼義智信欤復天地日月星辰聖賢神祇者人倫所重也其壽稱官爵福徳營樂者貧生所貴矣可謂擧孝道而格榮祥勤礼儀而獲立身者矣是故比准八義冝制爵位其孝者天也紫冠爲一忠者日也錦冠爲二仁者月也繍冠爲三悌者星也繍冠爲四義者辰也緋冠爲五禮者聖也深緑爲六智者賢也淺緑爲七信者神也深縹爲八祇者祇淺漂爲九其地者母也因号立身黄冠爲十自今巳後永為恒成廾八年春二月甲午朔甲辰上宮廄戶豐聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿祢奉勅撰録先代舊事天皇紀及國記臣連伴造國造及八十部公民等本紀也 春三月甲子朔制日奉爲君后謂不忠者亦奉爲考妣稱不孝者若不舉達而隠之者同處其罪重科刑法也」、【二十七年冬壬戌朔甲子、太子が「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。すべてこのようなことを道という。別にこれを名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。孝は天であり、紫冠を第一とする。忠は日であり、錦冠を第二とする。仁は月であり、繍冠を第三とする。悌は星であり、纏冠を第四とする。義は辰であり、緋冠を第五とする。礼は聖であり、深緑を第六とする。智は賢であり、浅緑を第七とする。信は神であり、深縹を第八とする。祇は祇であり、浅縹を第九とする。地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。今より後、永く常の法とせよ」と定めた。二十八年春二月甲午朔甲辰、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔勅を受け、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。春三月甲子朔、「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」と定めた。】と訳した。
『日本書紀』には603年推古十一年「始行冠位」、604年推古十二年「皇太子親肇作憲法十七條」、十六年608年「衣亦服皆用錦紫繍織及五色綾羅」と『舊事本紀』の制定年二十七年619年と異なり、廾七年冬壬戌朔は605・36・41年に相当し、衣服からは647年の「十三階之冠」の織冠・繍冠・紫冠・錦冠及び深紫・淺紫・眞緋・紺・縁の5色と608年制定と同じで、643年の「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」が『日本書紀』に初出である。
また、『日本書紀』にない、「廾八年春二月甲午朔」、「春三月甲子朔」は646年で、641年に憲法制定、646年に冠位を制定し、嶋大臣が641年薨で626年が馬子薨なので、差が15年と嶋大臣は50歳頃の死亡で子の蝦夷が30歳程度、入鹿は冠位を得る年令ではなく、もっと後の記事と考えられる。
すなわち、十二年の「丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七條」は九州の暦で、俀国の法興帝の太子上宮法皇が作成したと思われ、俀王を天子と呼ぶのであるから、当然中国の天子と同じように、律令を真似て制定したと思われ、『上宮聖徳法王帝説』605年「少治田天皇御世乙丑年五月聖徳王與嶋大臣共謀建立佛法更興三寶即准五行定爵位也七月立十七條法也」を『日本書紀』の604年に記述し、それに対して、畿内では、『舊事本紀』に『日本書紀』とは異なる内容を記述していることから、この項で記述される憲法と冠位を其々の史書が流用したように、641年に天皇嶋・恵佐古が制定したものをこの項に流用したと考えられる。
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