『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は続けて「・・・白鳳五年秋八月・・・超拝紫冠増封八千戸俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子・・・故遷大紫冠進爵爲公増封五千戸前後并凡一万五千戸十二年冬十月天皇幸于難波宮即隨福信所乞之意思幸筑紫將遣救軍初備軍嘉(?器)十三年春正月御船西征始就海路三月御船泊于娜太津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津夏五月遷居于朝倉橋廣庭宮以聽海表之政至秋七月天皇御體不悆・・・天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制是月蘇將軍与突厥王子契苾加力等水陸二路至于高麗城下皇太子遷居于長津宮猶聽水表之軍政時謂侍臣曰傳聞大唐有魏徴高麗有蓋金百済有善仲新羅有庾淳各守一方名振萬里此皆當土俊傑智略過人以此數子比朕内臣當出跨下何得抗衡冬十一月天皇喪至自朝倉宮殯于飛鳥川原」、【・・・白鳳五年、秋八月・・・超えて紫冠を与え、八千戸を増封。俄に天萬豐日天皇、すでに政務をはずれていて、崩じた。皇祖母尊が、土下座しての願いに従い即位して、全ての庶務を皇太子に委ねた。・・・それで、大紫冠に変更し、爵を公とし、五千戸を増封し、併せて一萬五千戸だ。十二年の冬十月、天皇難波宮に行き、福信の願いで、筑紫に行き、救援軍を派遣しようと、軍を備えた。十三年の春正月に船が西に遠征し、海路に就いた。三月、船は娜太津に停泊して、磐瀬行宮に居て、天皇は、この名を改めて長津とした。夏五月に朝倉橘廣庭宮に遷り、海外の状況を聽いた。秋七月になって、天皇の体がすぐれず、・・・天皇は、朝倉行宮で崩じ、皇太子が、素服して制稱した。この月に、蘇將軍と突厥の王子の契加力達が、水陸二路から高麗城下に至った。皇太子は、長津宮に遷居し、海外の軍事状況を聽いた。その時「『大唐に魏徴がいて、高麗に蓋金、百濟に善仲、新羅に庾淳がいる』と伝え聞いている。各々一方を守り、名は万里に轟いている、皆その地の俊傑で智略は人を超えている。この数人で、私内臣は足元にも及びません。どうして張り合えましょう」と侍臣が言った。 冬十一月、天皇の喪で、朝倉宮より、飛鳥の川原で殯をした。】と訳した。
そして、白鳳5年665年八月に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲」と即位僅か1年で豐日天皇が崩じ、「皇祖母尊俯從物願再應寶暦」と豐財重日が即位、豐日天皇には「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟」と皇祖母は豐財重日、皇太子中大兄、皇弟は古人で、豐財重日が即位して、古人は前の皇弟なので太皇弟と呼ばれたと思われる。
そして、麟德二年665年の『舊唐書』本紀第四「冬十月・・・丁卯將封泰山」、卷八十四列傳第三十四劉仁軌傳「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅」と豐財重日は即位後すぐに渡唐して高宗に謁見している。
643年皇極二年に「吉備嶋皇祖母命薨」と倭天皇が薨じたため、後継争いで、「蘇我臣入鹿獨謀將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇」とあり、入鹿は叔父の古人と共に山背皇子を追い落とし、勝利後、「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」と蝦夷が岡本宮天皇、そして、年令から考えると、その蝦夷の妃に吉備姫なら良く合致する。
そして、皇祖母はもう一人、天智3年「是月大紫蘇我連大臣薨或本大臣薨注五月」、「嶋皇祖母命薨」と吉備嶋の一文字を継承した嶋皇祖母が蘇我連これは「入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣」と記述され、入鹿が大臣なのに、大臣でない弟が大臣は奇異で、入鹿が物部連大臣と呼ばれたことを意味し、664年5月に「或本大臣薨注五月」も奇異で、本来6月だったのを5月と記述したと考えると論理的で、入鹿と嶋皇祖母が同時に殺害されたと考えるのが理に適う。
この時、入鹿が大臣なのだから、天皇は蝦夷のはずが、蝦夷は後に殺害され、この事件が乙巳の変と言うように乙巳の日、晦日に有り、すなわち、入鹿と皇祖母が同時に殺害された、上表文を儀式は天皇の前ではなく皇祖母の前で執り行われたことを示し、天皇蝦夷は『隋書』俀国王と同様に夜の宗教的王だった事を示している。
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