2023年2月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』5

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「裏書 庚戌春三月学問尼善信等自百済還住櫻井寺今豊浦寺也(初櫻井寺云後豊浦寺云)曾我大臣云豊浦大臣云云觀勒僧正推古天皇之即位十年壬戌來云云佛工鞍作鳥祖父司馬達多須奈或本云播磨水田二百七十三町五段廿四歩云云又本云三百六十町云云有本云請願造寺恭敬三宝十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云云注云辛丑年始平地癸卯年立金堂云戊申始僧住己酉年三月廿五日大臣遇害癸亥年構塔癸酉年十二月十六日建塔心柱其柱礎中作圓穴刻浄土寺其中置有蓋大鋭一口内盛種々珠玉其中有塗壷壷内亦盛種々珠玉其中有銀壷壷中内有純金壷其内有青■■■瓶其内納舎利八粒丙子年四月八日上露盤戊寅年十二月四日鋳丈六佛像 乙酉年三月廿五日點佛眼山田寺是也注承歴二年(戊午)南一房冩之真曜之本云々曾我日向子臣字無耶志臣難波長柄豊碕宮御宇天皇之世任筑紫大宰帥也甲寅年十月癸卯朔壬子爲天皇不悆起般若寺云云■■京時定額寺之曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣(曾我也)臥病爲大臣之男女并一千人■■■■又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」、【裏書に庚戌春三月、學問尼善信達が百済から還り、櫻井寺に住んだ。今の豊浦寺だ(初め櫻井寺といい、後に豊浦寺という)。曾我大臣は豊浦大臣と云々という。觀勒僧正、推古天皇の即位十年の壬戌に来る。佛工鞍作鳥。祖父は司馬達多須奈だ。或る本に、播磨の水田二百七十三町五段廿四歩云々。また本に、三百六十町云々。有る本に、寺を造る請願をし、三宝を敬う。十三年辛丑春三月十五日に始めて浄土寺云々。注に、(641年)辛丑年、始めて地をならし、癸卯年、金堂を立て云々。戊申、始めて僧が住み、己酉年の三月廿五日、大臣が害に遇い、癸亥年に、塔を構え、癸酉年十二月十六日に、塔の心柱を建てた。その柱の礎の中に円い穴を掘り、浄土の寺を刻み、中に蓋の有る大鋭を一口を置いて、中に種々の珠玉を盛る。その中に塗壷が有り、壷の中にまた種々の珠玉を盛った。その中に銀の壷が有り、壷の中に純金の壷が有り。その中に青■■瓶が有り、その中に舎利八粒を納めた。丙子年の四月八日、露盤を上げた。戊寅年の十二月四日、丈六の佛像を鋳造した。乙酉年の三月廿五日、佛眼を点じた。これが山田寺だ。注したのは承歴二年(戊午)、南一房を写した直曜の本だ。曾我日向子臣、字は無耶志臣。難波長柄豊碕宮天皇の世、筑紫の大宰帥に任ぜられた。甲寅年の十月、癸卯朔の壬子、天皇の爲に般若寺を起した云々。■■京時、定額寺云々。曾我大臣は推古天皇の卅四年秋八月、嶋大臣(曾我だ)病に臥した。大臣の爲に男女、并せて一千人■■■■。また本に、廿二年甲戌の秋八月、大臣病に臥した。卅五年の夏六月辛丑に薨じた。】と訳した。

山田寺の説明だが、山田寺は653年「多造佛菩薩像安置於川原寺或本云在山田寺」と川原寺のことで、「運川原寺伎樂於筑紫」と筑紫に近く、像の作者が 佛工鞍作鳥で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に堂釈迦三尊像の作者が「司馬鞍首止利佛師造」と同一人物で、釈迦三尊像は上宮法皇のために造った俀国の像だ。

釈迦三尊像は621年、此処で言う像が653年の像では奇異で、釈迦三尊像のことをこの『上宮聖徳法王帝説』は述べているのだから、ここの説明も釈迦三尊像の説話で、618年戊寅に佛像を鋳造と上宮法皇の爲に造った釈迦三尊像だが621年に薨去したため光背銘を刻んで625年乙酉に佛眼を開いたことを述べている。

従って、この説話は俀国の説話で、畿内は難波高津宮天皇大別が「難波大別王寺」を建てていて、そこに佛像があり、『梁書』に「齊永元元年其國有沙門慧深」と僧も存在し、畿内ではなく、俀国の法興帝即位前年に百濟から僧を連れてきて、法皇帝兄弟が仏教に帰依して、607年大業3年に「沙門數十人來學佛法」と百濟僧では物足りないので隋へ佛法を学びに行っている。

そして、上宮法皇の子と思われる漢王の妹大俣王の子の、舒明天皇の皇太子茅渟王やその子の天豐財重日足姫・天萬豊日達が川原寺に多くの像を寄進し、川原寺は686年點佛眼の翌年に「設無遮大會於五寺大官飛鳥川原小墾田豐浦坂田」と大會を行っている。

すなわち、己酉589年「大臣遇害」は橘豐日のことで、587年の池邉天皇崩は穴穂部皇子守屋の崩とわかり、池邊天皇治天下三年と倉橋天皇治天下四年と『日本書紀』と異なるのに、注記は『日本書紀』どおりという理由は、池邉天皇丁未年崩は池邉(穴穂部)天皇2年初代守屋天皇の崩で、池邉(穴穂部)天皇4年橘豐日崩、穴穂部の倉橋天皇2年即位、「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と、穴穂部間人皇女は穴穂部皇子守屋の妹と合致する。

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