2023年2月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「廾九年春二月己丑朔癸巳夜半皇太子上宮廄戶豐聡耳尊薨于斑鳩宮是時諸王諸臣及天下百姓皆共長老如失愛兒而塩酢之味在口不嘗少劣如亡慈父以哭泣之聲溢於行路乃耕夫止耟眷女不杵皆日月失耀天地既崩自今已後誰將恃哉是月葬皇太子於磯長陵當此之時高麗僧慧慈聞上宮皇太子薨以大悲之奉為皇太子請僧而設齋親(+)經之日誓願日於日本有聖人日上宮豐聡耳皇子因天攸従以玄聖之徳生日本之國苞貫三統纂先聖之宏獣恭敬三寶救黎元之危實是大聖也今太子既薨我雖異國心在断金其獨生之有何益矣我以來年二月五日必死矣因以迺上宮太子於浄土以共化衆生矣於是慧慈當年期日而死矣是以時人彼此共言其獨非上宮太子之聖慧慈亦聖也」、【二十九年春二月己丑朔癸巳、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨じた。このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう。」と皆がいった。この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。「日本の国に聖人がいた。上宮豊聡耳皇子と言う。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖徳をもって日本の国に生まれた。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をし、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救った。真の大聖だ。その太子が薨じた。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ない。自分一人生き残っても何の益もない。来年の二月五日には、自分もきっと死ぬだろう。上宮太子に浄土で会って、共に衆生に仏の教えを広めたいと思う。」そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人だ。」といった。】と訳した。

『舊事本紀』の豐聡耳の死亡記事には『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の「癸酉王后即世翌日法皇登遐」と癸酉の翌日の甲戌ではなく『日本書紀』どおりで、『上宮聖徳法王帝説』とは異なっていて、天智天皇以降の政権にとっての聖徳太子は上宮法皇、蘇我氏・物部氏にとっての聖徳太子は石上贄古・豐聡耳だったと主張し、慧慈の説話も太子の徳も真実だったことを示している。

蘇我氏は高市蘇我里の石河、武廣國押の満智→廣國押武金日の韓子→武小廣國押盾の馬背→馬背の子が稲目の宿祢のようで、磐井との戦いで天皇が麁鹿火に「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と分割案を提示し、結果、糟屋から広国までを馬背が支配して倭国を名乗り、江田船山古墳出土の『銀錯銘大刀』に記述されるように肥後も支配した上殖葉が倭王で、また、子の馬子が豊国王となるように豊国・肥後も領域と思われ、肥後も治めて 天國排開廣庭の姓を持ち、目天皇に対して偉那の目宿祢()大臣の姓で尾輿天皇と同等の権力を得て、『日本書紀』を記述した政権にとっては稲目が天皇と考えた。

上殖葉が『古事記』に記述されない理由は、押甲や荒山の子ではないためと思われ、上殖葉・稲目大臣は570年欽明三一年に「蘇我大臣稻目宿禰薨」と死亡し、上殖葉は536年から34年も大臣位に就いていたので、子が即位できず、孫の渟中倉太珠敷が14年間王位に就いても、太子が20歳未満で即位出来なかった。

すなわち、彦人が『古事記』584年「甲辰年四月六日崩」の太珠敷死亡時20歳未満だったから、渟中倉太珠敷も若いと考えられ、2代目は倉皇子の可能性が高く、堅塩媛の夫の倉皇子が570年に死亡し、渟中倉太珠敷の皇太子は弟の橘豐日(初代馬子)で、587年用明二年「天皇崩」で初代、626年推古三四年『日本書紀』「大臣薨」と2代馬子豊浦宮初代大臣、更に3代目と56年間、豊浦宮大臣を襲名したと思われる。

そして、推古二十年612年「改葬皇太夫人堅鹽媛於桧隈大陵」と稲目の娘の御狩皇太子夫人が、628年「戊子年三月十五日癸丑崩」に布都姫夫人・豊浦宮女帝が崩じて、さらに、岡本飛鳥天皇嶋大臣が『上宮聖徳法王帝説』「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」と641年辛丑に薨じた。

この大臣薨の卅五年は鎌媛大刀自が岡本宮に遷って35年目だったと思われ、前年の606年に「皇太子亦講法華經於岡本宮」と岡本宮が完成した事を記念した行事だった可能性がある。

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