2023年2月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』3

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等娶巷奇大臣名伊奈米足尼女名吉多斯比彌乃彌己等爲大后生名多至波奈等己比乃彌己等復娶大后弟名乎()尼乃彌己等爲后生名孔部間人公主斯歸斯麻天皇之子名(草冠+麩:怒)奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等娶庶妹名等己弥居加斯支移比彌乃彌己等爲大后坐乎沙多宮治天下生名尾治王多至波奈等己比乃弥己等娶庶妹名孔部間人公主爲大后坐(+)邊宮治天下生名等己刀弥〃乃弥己等娶尾治大王之女名多至波奈大女郎爲后歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天之雖恐懐心難止使我大王與母王如期従遊痛酷无比我大王所告世間虚假唯佛是真玩味其法謂我大王應生於天壽國之中而彼國之形眼所叵看悕因圖像欲觀大王往生之状天皇聞之悽然告曰有我子所啓誠以爲然勅諸采女等造繍帷二張畫者東漢末賢高麗加西溢又漢奴加己利令者椋部秦久麻右在法隆寺蔵繍帳二張縫著龜背上文字者也更々不知者云々巷奇彌字已字至字白畏天之者太子崩者従遊者天壽國者天皇聞之者令者上宮薨時臣勢三杖大夫歌 伊加留我乃止美能乎何波乃多叡波許曾和何於保支美乃弥奈和須良叡米美加弥乎須多婆佐美夜麻乃阿遅加氣尓比止乃麻乎志和何於保支美波母伊加留我乃己能加支夜麻乃佐可留木乃蘇良奈留許等乎支美尓麻乎佐奈」、【・・・略・・・明くる年の二月廿二日甲戌の夜半に太子が崩じた時に多至波奈大女郎が、哀しみ嘆いて、「天を恐れるように畏れ多くても思う心が止めがたく、我大王と母王が亡くなり、痛ましいこと比べるものが無い。我大王が『世間は胡麻化しで、ただ佛だけが真だ。』と告げた。その法を「我大王が言うのは、まさに天壽國に生れた。しかし彼の国の様子は解らな所。ねがわくは画像で大王が往生した様子を観たいと思う。」と考えた。天皇が聞きて哀しみ沈んで「一人の我が子が、言ったのは本当にその通りだ」と告げた。諸々の采女達に繍帷二張を造らせた。画は東漢末賢、高麗の加西溢、または漢の奴加己利が、椋部秦久麻が指示した。右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けた亀の背の文字だ。誰もが知っている。・・・巷奇弥の字(或いは賣音を当てる)。己の字(或いは余の音を当てる)至の字(或いは知の音を当てる)。白畏天之は(天即ち小治田天皇だ)。太子崩は(即ち聖王だ)。従遊は(死だ)。天壽國は(猶は天のみ言う)。天皇聞之は(小治田天皇だ)。令は(監だ)。上宮が薨じた時に臣勢三杖大夫の歌()】と訳した。

繍帳の内容は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の厩戸豊聰耳を上宮法皇と見做しての記述で、実際は豊浦皇子が橘豐日の死後に間人を妃にしていて、斑鳩の厩戸豊聰耳に対して、間人は豐浦に住み、翌日に死ぬほど重体のしかも聖王が、妃が水を欲しているのを、修行とも言える態度で水を与えないという命令するというのは、実感が湧かない。

巨勢臣徳太代大派皇子而誄」と水派宮の彦人の子の舒明天皇に誄を述べるなど、側近として王の死に対して哀悼を表する人物として徳太は相応しく、飛鳥天皇が嶋・嶋高祖母に対して、『古事記』の「息長眞手王女廣姫」と息長氏の孫の彦人の子の「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女の子の岡本宮天皇息長足日廣額、そして、高祖母は小墾田皇女となり、皇太子は息長足日廣額の弟の茅渟王である。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」とある。

丙午年は586年か646年で、586年は池邊が即位したばかりで、病に罹ったのは翌年で理解不能、646年は常色改元前で、天皇の崩の可能性があり、丁卯年は607年で、「丈六銅像坐於元興寺金堂」と仏像をおさめたのは前年元興寺で、607年には奉納が記述されず、667年は天智が皇太子で天皇は母中宮小墾田天皇で、「我奉皇太后天皇之所勅」と小市岡上陵は小墾田天皇の皇太后で天皇にも就任したとする、小墾田天皇を祀り、641年に死んだ船王の墓誌には小治田治天下天皇ではなく、「等由羅宮治天下天皇」である。

すなわち、646年、皇太后で天皇の高祖母小墾田皇女が病気になり、岡本宮息長足日廣額、さらに茅渟王が後継したが、652年に豐浦大臣と鏡媛に政権を奪われた茅渟王の子で、岡本宮息長足日廣額の妃になった小墾田天皇、実際は年令的に見ると豐財重日の母の吉備姫が皇太子天萬豐日に仏像を奉納させようとし、繍張の内容は小墾田中宮天皇が奉納した法隆寺の薬師如来像と多至波奈大女郎の説話を関連付けたのではないだろうか。 

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