2023年2月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』2

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「流傳之間壬午年二月廿二日夜半聖王薨逝也慧慈法師聞之奉爲王命講經發願曰逢上宮聖王必欲所化吾慧慈来年二月廿二日死者必逢聖王面奉浄土遂如其言到明年廿二日發病命終也池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召大王天皇與太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪者少治田大宮治天下大王天皇及東宮聖徳王大命受賜而歳次丁卯年仕奉右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文師寺造始縁由也法興元世(?)一年歳次辛巳十二月鬼前大后崩明年正月廿二日上宮法王枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與国臣深懐愁毒共相發願仰依三宝當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法王登遐癸未年三月中如願欲造釋迦尊像并侠待及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三宝遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如件釋曰法興元世(?)一年此能不知也但案帝記云少治田天皇之世東宮厩戸豊聰耳命大臣宗我馬子宿祢共平章而建立三宝始興大寺故曰法興元世(?)也此即銘云法興元世(?)一年也後見人若可疑年号此不然也然則言一年字其意難見然所見者聖王母穴太部王薨逝辛巳年者即少治田天皇御世故即指其年故云一年其無異趣鬼前大后者即聖王母穴太部間人王也云鬼前者此神也何故言神前皇后者此皇后同母弟長谷部天皇石寸神前宮治天下若疑其姉穴太部王即其宮坐故稱神前皇后也言明年者即壬午年也二月廿一日癸酉王后即世者此即聖王妻膳大刀自也二月廿一日者壬午年二月也翌日法皇登遐者即上宮聖王也即世登遐者是即死之異名也故今依此銘文應言壬午年正月廿二日聖王枕病也即同時膳大刀自得労也大刀自者二月廿一日卒也聖王廿二日薨也是以明知膳夫人先日卒也聖王後日薨也則證歌曰 伊我留我乃 止美能井乃美豆 伊加奈久爾 多義氐麻之母乃 止美能井乃美豆 是歌者膳夫人臥病而将臨没時乞水然聖王不許遂夫人卒也即聖王誄而詠是歌即其證也但銘文意顕夫人卒日也不注聖王薨年月也然諸記文分明云壬午年二月廿二日甲戌夜半上宮聖王薨逝也出生入死者若其往反所生之辭也三主者若疑神前大后上宮聖王膳夫人合此三所也」、【布教の間の壬午年二月廿二日の夜半、聖王が薨じた。慧慈法師は聞いて、王の爲に經を講じようと、「上宮聖王は、きっと化けて逢えると思う。私は来年二月廿二日に死んだら、聖王に浄土で逢いたい。」と発願して、言ったとおり、翌年二月廿二日に、発病して命が尽きた。・・・『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』略・・・解釈は、法興元世一年、これはよくわからない。但し『帝記』で読み解くと、小治田天皇の世に、豊聰耳、大臣馬子と共に三寶の建立を計画し、大寺を興して法興元世と言ったから法興元世一年なのだろう。後に見た人が若し年号と疑うかもしれないがこうとしか思えないが一年の字が解らない。しかし見た所、聖王の母の穴太部王が、辛巳年に薨逝したのは、小治田天皇の世なのでその年を指したから一年という以外理解できない。鬼前大后は、聖王の母の穴太部間人王で鬼前というのは神前だ。どうして神前皇后と言うかは、この皇后の同母弟の長谷部天皇が石寸神前宮で天下を治しめたからで、疑おうにも、姉の穴太部王がその宮にいたのだから神前皇后と言ったのだ。明年とは壬午年二月廿一日癸酉、王后の即世は、聖王の妻の膳大刀自だ。二月廿一日は、壬午年の二月だ。翌日法王が登遐とは、上宮聖王のことだ。『即世』・『登遐』は、即ち死の異名だからこの銘文によって、壬午年の正月廿二日に、聖王病に枕すと言うべきだ。それで同じ時に、膳大刀自が疲れ二月廿一日に卒っし、聖王は廿二日に薨じた。これで解ったのは、膳夫人は先に、聖王は後日に薨じた。それで歌にあかして(歌略)。この歌は膳夫人の病いに臥せて没する時に水を求めたが聖王が許さず、遂に夫人が卒し、聖王が悼んでこの歌を詠んだ其のあかしだ。銘文で、夫人の卒した日は明らかで、聖王の薨じた年月を示さないが、諸々の説文で解るように、壬午年の二月廿二日甲戌の夜半に、聖王薨逝と。出生入死は、きっと往き反り、生れるという言葉だ。三主は、疑いなく神前大后、上宮聖王、膳夫人の三所だ。】と訳した。

『上宮聖徳法王帝説』は法興年号の説明もできず、「乎阿尼命生児倉橋宮治天下長谷部天皇」と本文に記述しているのに神前宮と書き換え、鬼イコール神という苦しいこじ付けを使わないと穴太部王と鬼前大后が合致せず、また、干食王后も膳部臣の娘「菩岐岐美郎女」と「刀自古郎女」も同じ人物にして、蘇我氏が滅亡して、権力中枢に蘇我氏の末裔がおらず、言い伝えも存在しないので、上宮法皇と厩戸豊聰耳をゴッチャにしてしまったようだ。

『隋書』の「聽政跏趺坐・・・日出便停理務云委我弟」との趺坐して昼間は政務を任せる俀国王と厩戸豊聰耳では全く合致しないが、俀国王の法興帝が多利思北孤に対する上宮法皇が利歌彌多弗利だったらよく合致する。

厩戸豊聰耳は穴穂部皇子と戦った時に「廐戸皇子束髮於額古俗年少兒年十五六間束髮於額」と15歳程度の記述で、田目皇子が穴穂部間人を妃にするのだから厩戸豊聰耳よりかなり年上で、橘豐日の太子は稲目の娘、おそらく、岐多斯比賣の妹の意富藝多志比賣の子の田目皇子と考えられ、『古事記』も太子は彦人と記述し、また、厩戸豊聰耳が太子なのに豐浦宮にも小墾田宮にも住まず、厩戸豊聰耳は磐余に住む穴穂部皇女の宮から馬子の領地の斑鳩に移り住んだ、秦王国の太子だったと思われ、馬子の娘の刀自古郎女の子の山代大兄も「掩山背大兄王等於斑鳩」と斑鳩に住み、馬子の直系を示している。

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