「定居七年辛未注文五十具従唐渡」の611年改元は前年大業6年610年に『隋書』「倭國遣使貢方物」と大業4年に隋に認められた後、正式な遣使を行って、俀国の官位を取り入れたので改元して、「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾」 の服装で藥獵を行ったと思われる。
「倭京五年戊寅二年難波天王寺聖徳造」の618年改元は、「高麗遣使貢方物因以言隋煬帝興卅萬衆攻我返之爲我所破」と隋滅亡とその挨拶で高麗が貢献したため、倭国が隋に変わって最高権威となったと宣言したのではないだろうか。
「豐聰耳皇子命薨」の621年も「大臣薨」の626年も、推古「天皇崩之」の628年も改元対象でなく、「仁王十二年癸未自唐仁王経渡仁王会始」の623年改元は「大唐學問者僧惠齊惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之」と確かに唐から僧が来日しているが、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」の年で彦人が水派宮に遷都した爲だろうか。
「僧要五年乙未自唐一切経三千余巻渡」の635年改元、「命長七年庚子」の640年改元、の対象が見当たらず、「常色五年丁未」の647年改元は、「災皇太子宮時人大驚恠」の時に仁王元年から続いた小墾田皇女の政権の死んだ太子と思われる茅渟王の母の吉備姫王が高祖母・最高権威者になったのではないだろうか。
『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末 歳次辛丑」、『上宮聖徳法王帝説』「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」から、嶋大臣が阿須迦天皇と考えられ、大臣イコール天皇で、建元者はそれ以上の権威者がいて、皇后や皇太后、高祖母、夫人がそれに当たり、「布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人」は、「石上贄古・・・異母妹御井夫人爲妻」と『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶尾治王女子位奈部橘王」と炊屋姫の子の尾張皇子の娘の橘王が御井夫人、「贄古大連之子・・・鎌媛大刀自・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政・・・宗我嶋大臣為妻」が石上夫人・嶋高祖母の田眼皇女で、嶋大臣がもう一人の舒明・阿須迦天皇のようだ。
そして、「白雉九年壬子国々最勝会始行之」の652年の改元は651年「十二月晦大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」と難波京に都を遷した改元、 「白鳳廿三年辛酉対馬銀採観世音寺東院造」の661年の改元は「天皇崩于朝倉宮」と吉備姫高祖母の死亡で、次の最高権威者は蝦夷の夫人の鏡媛だったのではないだろうか。
天皇は法興帝のように、神や仏に仕える役割で、実際の統治は皇后や皇太后・夫人・皇太子・大臣が執行していたと考えられる。
鏡媛が『興福寺流記』の「天命即位八年冬十月内大臣枕席不安嫡室鏡女王請曰敬造伽藍安置尊像大臣不許」と669年の鎌足死亡記事に鎌足の妃としているが、嫡室は天皇や神の妃に記述されていて、さらに、鎌足は、子の不比等が659年生れの720年62歳死亡、孫の武智麻呂が680年生れの737年58歳死亡で、鎌足は56歳死亡で不比等が次男なので、695年頃の死亡でないと理に適わず、天智天皇崩が694年で、692年の死亡と考えられる。
天武天皇の妃に鏡王の娘の額田姫王がいて、この額田姫が襲名した鏡姫で、天智天皇のために伽藍を造ろうとしたのではないだろうか。
「朱雀二年甲申兵乱海賊始起又安居始行」の684年改元は、「京師而定宮室之地」や「八色之姓」の制定などを行っていて、「朱鳥九年丙戌仟陌町収始又?(方)始」の686年改元は、「仍名宮曰飛鳥淨御原宮」と宮の名を命名し、「大化六年乙未覧初要集云皇極天皇四年為大化元年已上百八十四年々号丗一代?(不)記年号只有人傳言自大宝始立年号而巳」の695年改元は686年の「天皇病遂不差崩于正宮」が694年の死亡で翌年新天皇が大化と改元したと考えられ、朱雀からは天皇が実権を握って、天智天皇やその子の天武天皇が改元したようだ。
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