2023年2月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』1

  『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は「内大臣・・・大臣以豐御炊()天皇卅(廿)()年歳次甲戌生於藤原之第・・・崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受・・・俄而崗本天皇崩皇后即位・・・後崗本天皇二年歳次癸卯冬十月宗我入鹿与諸王子共謀欲害上宮太子之男山背大兄等曰山背大兄吾家所生明德惟馨聖化猶餘崗本天皇嗣位之時諸臣云々舅甥有隙 (+灬:亦)依誅(?)境部臣摩理勢怨望已深方今天子崩殂(?)皇后臨朝心必不安焉無亂乎不忍外甥之親以成國家之計・・・大臣具述・・・策中大兄從之遂聘女于山田臣之家山田臣許之・・・其弟武蔵挑女將去・・・進少女中大兄怒武蔵之無禮將行刑戮大臣諌曰既定天下之大事何忿家中之小過中大兄即止矣・・・大臣於是薦佐伯連古麻呂稚犬養網田・・・須豫大事但二人耳中大兄從之」、【内大臣・・・大臣は、豐御炊天皇の三十四年、歳は甲戌に、藤原の邸宅で生まれた。・・・崗本天皇の初めに、良家の子なのでと錦冠を授け、宗業を嗣げとの命を、固辭して受け無かった。・・・急に崗本天皇が崩じ、皇后が即位した・・・後崗本天皇の二年、癸卯冬十月、宗我入鹿と諸王子達と謀って、上宮太子の男子の山背大兄達を害そうと「山背大兄は私の家の出で、天性の德が漂い、余りある徳を持っている。崗本天皇が位を嗣いだ時に、諸臣が『舅と甥に隙が有る』と言った。また境部臣摩理勢を誅したので、恨み深い。まさに今天子が崩じ、皇后が朝政に臨む気持ちはきっと安らかではない。騒乱がきっとおこる。妻の甥と近親で忍びないが、國家のために滅ぼそう」と言った。・・・大臣は・・・山田臣の家の娘を求める策を詳しく述べ・・・その弟の武蔵が、娘に挑んで連れ去ろうとし・・・少女を差し出した。中大兄は、武蔵の無礼に怒り、処刑しようとしたが、大臣が、「もう天下の大事を決めた。どうして家中の小さな咎に怒る」と諌め、中大兄は止めた。・・・大臣、ここに佐伯連古麻呂・稚犬養網田を薦して・・・大事をあらかじめ伝えられるのは二人のみ、中大兄は従った。】、と訳した。

著者は鎌足の曽孫の藤原仲麻呂、恵美押勝で既に『日本書紀』が造られたあとで、本来は父たちが造った『日本書紀』から、内容が外れてはならないが、『日本書紀』と異なる記述があり、自家の資料が詳しいと、自家の資料を採用したと思われる。

鎌足の出生年は34年と記述しながら干支は丙戌ではなく甲戌と記述したのは、丙申の記述を丙は甲と理解し、『日本書紀』に合致しないからで、恐らく推古11年「遷于小墾田宮」で翌604年を元年とした637年小墾田宮34年と考えれば、692年56歳薨で62歳720年薨の次男不比等なら鎌足23歳の子で良く合致する。

「崗本天皇御宇之初」は父の美気祐卿・中臣連彌氣の説話と思われ、また、鎌足の妃は車持君の娘で、車持部は履中紀に「筑紫之車持部」と車持部が筑紫にいるということは、輕皇子と仲が良かったのだから、鎌足は筑紫すなわち俀国王筑紫君薩野馬・輕皇子に仕えていた可能性が有り、輕皇子が百濟に滞在中、母の吉備姫が俀国王、そして、「古人大兄或本云古人太子」とあるように古人大兄が太子で、吉備姫が薨じた時、豐財重日が俀国王で古人大兄が「皇太子素服稱制」と政務を代行したと思われる。

それは、「古人大兄殿下之兄也輕萬德王殿下之舅也」とあるが、『日本書紀』は古人大兄の娘を妃に、兄妹の間人皇女を輕皇子が妃にして、輕皇子が義兄、古人皇子が舅だが、年令から考えると、叔父の輕皇子の娘を妃、輕皇子の妃の弟古人が義弟で輕皇子の太子と考えられ、吉備姫薨時は輕皇子が不在で古人は20歳以下なので豐財重日が俀王、中大兄が13歳で太子、義兄の古人大兄は先の太子なので、皇太弟ではなく大皇弟と呼ばれることになったと考えられる。

彦人の子の岡本天皇は岡本天皇の兄弟の茅渟王の子の輕皇子の叔父にあたり、豐財重日が岡本天皇の妃では年令を考えると理に適わず、彦人の子の岡本天皇の子、若しくは蘇我入鹿の妃と考えられ、舒明二年「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子」と古人皇子は入鹿の従弟で、相互の婚姻のため、豐財重日が舒明天皇蝦夷の妃になって、輕皇子が俀国王、さらに、輕皇子が百濟出兵で、吉備姫が皇祖母として、代わりに俀国王となった。

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