『二中歴』は「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」と継体元年の五百六十九年前の紀元前53年から元号が始まり、2代目崇神天皇が即位したと思われる時に、日干支を記録している物部氏に元号開始の記録を命じた、すなわち、「天璽瑞寶」を物部氏が献上したと考えられ、木片におそらく「瑞籬宮元己巳」と刻み、日葉酢媛の兄弟の弟彦が前14年、木片におそらく「垂仁年元丁未」と刻み、そして、『日本書紀』「太子即天皇位因以改元」と、おそらく、紀元後71年に「景行元辛未」を刻んだと思われる。
継体元年丁酉は517年で、当然この年に継体天皇は即位していて、『日本書紀』や『舊事本紀』の継体天皇元年と異なるのは、史書を記述したのが葛城氏や巨勢氏・平郡氏・蘇我氏が物部氏の日干支の記録などに、『古事記』のような伝聞・記録を当て嵌めたためで、継体天皇の家系は、史書を記述していなくて、麁鹿火や継体の兄麻佐良、荒山が記述していたと考えられ、この様な元年の相違を呈したと思われる。
従って、白鳳が661年から683年まで続いて天武天皇の即位と合致しないのは、元号を管理する、継体天皇の血筋の人物が、天皇と別に存在したことを示し、『隋書』に天子が昼間の政務を弟に委ねたように、権威を持つ人物、「物部馬古・・・難波朝御世・・・奉齋神宮」と馬古の家系が天皇に政務を任せていたと考えるべきだろう。
続いて『二中歴』は「善記四年元壬寅同三年??(発誰)成始文善記以前武烈即位」と継体の文字は『日本書紀』にも記述されて、武烈天皇が善記より前は並立ではなく単独で皇位に就いていたと『二中歴』の著者は考え、善記元年522年に継体天皇が即位した年と注記している。
続いて「正和五年元丙午」は526年「遷都磐余玉穗」で改元、「教倒五年元辛亥舞遊始」は531年「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」と巨勢政権を倒して改元、「僧聴五年元丙辰」は536年「遷都于桧隈廬入野因爲宮號也」と遷都による改元、「明要?(十)一年元辛酉文書始出来結縄刻木??(止了)」と541年継体元年から25年後、継体24年の継体天皇は「乎繼體之君欲立中興之功者」と宣言し、翌25年「天皇崩」継体帝が崩じて新しい天皇が即位し、紙の使用が始まったと考えられる。
続いて「貴楽二年元壬申」の552年改元は不明だが、百濟から「獻釋迦佛金銅像一躯」と銅像を献上され、「法清四年元甲戌法文唐渡僧善知傳」は554年元年に「五經博士王柳貴代固徳馬丁安僧曇惠等九人代僧道深等七人」と仏法を持って来た。
「兄弟六年戊寅」558年改元、「蔵和五年己卯此年老人死」559年は兄弟の6年間に含まれ、「師安一年 甲申」の564年元年は兄弟年号が終わり、「和僧五年乙酉此年法師始成」565年改元、「金光六年庚寅」570年改元、「賢?(称)五年丙申」576年改元、「鏡當四年辛丑新羅人来従筑紫至播磨焼?(之)」581年の改元、「勝照四年乙巳」585年の改元の後、『和漢年契』に「告貴十年終按一説推古元年為喜楽二年為端正三年為始哭自四年至十年」と596年から602年まで始哭年号が有り、「端政五年己酉自唐法華経始渡」と589年が元年の端政が推古元年に含まれる。
これは、推古帝以外に元号を制定する継体帝の後継者が元号を制定し、兄弟元号が有るように、目天皇に兄弟が太子になって、翌年に蔵和年号を制定し、元号を制定すると言う事は、別朝廷を開いた事を意味するのではないだろうか。
磯城嶋宮大連が目連と尾輿連、更に呉王(足尼)と物部氏に複数人の王が存在し、呉足尼は蘇我氏で大漢国→倭国王で稲目と想定される倭古の父かもしれない。
このように、兄弟の王朝が併存して、尾輿の子の炊屋姫が即位して、炊屋姫は目連の孫の泊瀬部の妃のため、目連朝が601年穴穂部皇女の子の豐聰耳が「皇太子初興宮室于斑鳩」と豊浦宮を去り、602年始哭年号が終わり、翌603年に「遷于小墾田宮」と小墾田皇女の2代目彦人皇子出産によって別宮を造(初代彦人が小墾田皇女の小墾田宮に通い婚)った。
豊浦宮には嶋・豊浦皇子と田眼・鎌媛大刀自が住んで、馬子を後ろ盾にした炊屋姫が権力を握り倭国となったと思われ、建元は炊屋姫の権限となり、「金光六年庚寅」570年改元は「蘇我大臣稻目宿禰薨」の、「勝照四年乙巳」585年の改元は、「天皇病彌留崩即天皇之位」と穴穂皇子・穴穂部間人皇女の即位の改元と思われる。
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