2023年6月30日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后前期1

  息長帯日売は品太天皇の母と思われる。葛城高額比賣の娘で葛木氏の姫である。姉弟は虚空津比賣と息長日子である。父は息長宿禰、異母兄弟は河俣稻依毘賣を妃に生まれた大多牟坂である。但遅馬国造の祖で、多遅麻君と呼ばれた可能性が高い。但遲麻國造は坐王五世の孫の舩穗足だ。大多牟坂は但遲麻國造の親で坐王四世の孫になる。そして、坐王三世の孫の大陀牟夜別は志賀髙穴穗朝の淡海國造である。志賀髙穴穗は淡海國で首都の王なのだから天皇である。そして、その親が近淡海の安國造の祖、坐王二世、すなわち子の意富多牟和氣である。近淡海の安直の祖の水穗眞若のことである。

すなわち、大多牟坂の父は息長宿禰なので、伊吹山の麓の王、野洲王・志賀髙穴穗天皇ではない。したがって、母の河俣稻依毘賣は坐王三世の孫の志賀髙穴穗天皇の妹である。志賀髙穴穗天皇の父の意富多牟和氣の娘の布多遲比賣が稻依別を生んでいる。稻依別が稻依毘賣本人か妹と考えられる。葛木氏の史書の『古事記』は葛木氏の主経路の薨去日を若帯日子の後が息長帯日売と思わせている。すなわち、若帯日子の後継者が息長帯日売と記述している。

それは、志賀髙穴穗天皇、稻依毘賣の義兄弟が若帯日子、若狭王だと示した。息長帯日売は角鹿笥飯宮の姫である。従って、若帯日子は葛城高額比賣の甥と思われる。大根・八瓜日子の娘の弟比賣・八坂之入日賣と大碓の子が若帯日子である。『舊事本紀』の「葛津立國造」が「紀直同祖大名弟彦命兒若彦」と記述される。一般には大名茅彦と言われている。しかし、紀直は紀角宿祢の祖、大名は大根、弟比賣の夫大碓、子の若彦が若帯日子とよく合致する。また、弟彦の兄弟が五百木部連の祖の若都保、大碓と考えられる。

若帯日子の兄弟に五百木之入日賣と五百木之入日子がいる。三尾氏の妹の水歯郎媛の娘に五百野がいて、五百木之入日子が婿入りして太子と呼ばれた。五百野は「伊勢天照太神齋祠」である。八坂彦は伊勢神麻績連の祖、五百木之入日子は八坂之入日賣の子だ。五百木之入日子は八坂彦を襲名した可能性が高い。そして、五百野伊勢刑部君の祖の纒向日代宮天皇の多遅麻の子の五十功彦の妹か娘である。すなわち、五百木之入日賣が葛城高額比賣で、磐城別・息長宿禰の妃、その娘が息長帯日売と考えられる。勿論、これらは、家系の流れで、実際の息長帯日売、もしくは、帯中日子は362年に薨じた人物で、謎の4世紀の人物達だ。葛木氏の御真木入日子の薨が318年、若帯日子の薨が355年である。そして、その間に、伊久米伊理毘古、続いて大帯日子が併行して存在した4世紀前半のことだ。

2023年6月28日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仲哀天皇

  192年正月庚寅朔庚子に五十功彦が多遅麻大連を襲名して即位した。九月丙戌朔の「尊母皇后曰皇太后」は347年に「磐之媛命薨」で皇后が交代し、磐之媛を皇太后として尊んだと思われる。十一月乙酉朔の「神靈化白鳥而上天」も347年で、品陀和気の父と母が同時に崩じた可能性がある。「武内宿禰爲大臣」は350年、この時の葛木当主は若帯日子で、任命した天皇は武内宿禰の義妹の息長帯日売で、皇太子が品陀和気、甥と考えられる。

物部氏の朝廷の輕嶋豐明宮天皇は印葉だが、さらに、品太天皇の大連も存在する。尾綱根である。そして、その後、伊莒弗が「稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」と稚櫻朝が続いた。そして、難波朝の大連は存在しない。難波朝天皇は大別大臣・大雀で「丁卯年八月十五日崩」と427年に崩御している。すなわち、411年まで、五十琴宿祢と伊莒弗が稚櫻宮、そして、柴垣宮で朝廷が続いていた。そして、それと並行して、輕嶋豐明宮・難波高津宮が存在し、427年まで続いたと考えられる。

『後漢書』に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」と市鹿文と戦った相手の拘奴国と朝廷も戦った。その時の邪馬台国の宗主の大倭王は物部君だった。邪馬台国王の熊襲梟帥は『室見川銘版』の那珂川「永宮」にいて、大倭王は市鹿文と香椎宮にいた。神功皇后は193年に角鹿笥飯宮を出発して、穴門豐浦宮に入った。穴門豐浦宮が熊襲との戦いの最前線基地である。関門海峡を支配するのが拘奴国王である。そして、199年、拘奴国を『三國志』に「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と肥後に領地が縮小した。勝利した神功皇后は「周芳沙麼之浦」にいて、負けた、拘奴国王配下の遠賀川の河口の王の熊鰐がやってきた。そして、筑紫香朝の時に伊香色男の孫、膽咋の弟の印播足尼、すなわち、久奴直の祖の大小木が、拘奴国に代わって、拘奴(久努・周芳)国造となった。さらに、十二月癸巳朔丁酉は206年、卑弥呼「市鹿文」を火(日・筑紫)国造とし、大倭王は筑紫香朝の天皇の五十功彦である。物部君の祖の夏花は五十琴彦達の兄弟の竺志と考えられる。

大臣武内宿禰自穴門還之」は、この時期の大臣は膽咋宿禰で、五十功彦を暗殺し、子の五十琴宿祢が皇位を奪取した。膽咋宿禰の娘の五十琴姫は多遅麻と、多遅麻の娘の香兒媛は膽咋宿禰と代々婚姻したと思われる。そして、五十琴姫の子の多遅麻を襲名した五十功彦の妃も膽咋宿禰の娘の五十琴姫だった。膽咋宿禰は五十功彦を殺害し、大中日女の子の太子忍熊も殺害した。多遅麻の娘の子の五十琴宿祢はまだ生まれたばかりだったので、祖母の五十琴姫が摂政となったと思われる。

2023年6月26日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仲哀天皇前期

 仲哀天皇は不明な人物だが、大中姫と神功皇后の夫である。息長帯日売が362年壬戌年の六月十一日に崩じているので神功皇后は別人だ。同じように、吉備上道国造の帯中日子も、息長帯日売の夫で、同時に薨じているようで、別人である。大中姫は若建吉備津日子の娘の伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄の娘である。すなわち、景行天皇、大中日子の孫である。伊那毘能若郎女は大帯日子の叔母、比古布都押之信の分家で紀伊國徳勒津宮の姫と考えられる。紀伊國は山代の木国である。神功皇后は磐余稚櫻宮天皇の五十琴宿祢大連の妹か娘と考えられ、膽咋宿祢の子か孫である。帯中日子が吉備上道国造で若建吉備津日子の末裔、神功皇后の末裔の可能性が高い。

纏向宮が240年位まで存続した。したがって、景行天皇が志賀高穴穗宮に逃れてから、五十琴姫が支配していたと考えられる。その後継者が仲哀天皇であり、五十琴宿祢の妹か子の神功皇后だ。すなわち、仲哀天皇は景行天皇の子の可能性が高く、五十琴姫と景行天皇の子の五十功彦と考えられる。五十の功彦の妃だから神功で、神は三国・若狭の姫の「み」の意味で、角鹿の笥飯宮の姫である。三国の女王で、事代の王の皇后と言っている。

 景行天皇大中日子は仲哀天皇が継承し纏向日代宮天皇多遅麻大連を継承したと考えられる。多遅麻の妃として五十琴彦の娘の安媛が記述されている。そして、五十琴姫も妃だったが、仲哀天皇の母で、磐余稚櫻宮天皇の妹だが神功皇后ではない。しかし、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢大連の妃が多遅麻の娘の香兒媛だ。この多遅麻は五十琴宿祢の義父で義兄でもあり、膽咋宿祢を襲名したと思われる。天皇になってから、五十琴宿祢になる。だから、五十琴宿祢の娘も五十琴姫と呼ばれ、多遅麻の子の五十功彦の妃となった可能性高い。

 ここで、『古事記』では大江王は大中比賣の父だが、『日本書紀』は日子人之大兄が父と記述する。これは、すなわち、大江王が伊那毘能若郎女の娘に婿入りして、日子人之大兄と呼ばれたことを意味する。

2023年6月23日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇

 131年正月甲申朔戊子、多遅麻の妃の五十琴姫と五十琴彦が纏向日代宮で即位した。240年頃まで纏向遺跡には人が住み、多遅麻は128年に追い出された。追い出した人物が五十琴彦兄弟だ。133年正月癸酉朔己卯の「武内宿禰爲大臣」は350年の日干支の説話である。仁徳五十年362年に「天皇於是歌以問武内宿禰」と、歌による問答が記述された。また、允恭五年416年「武内宿禰之墓」と、416年以前に薨じている。大臣の子の木菟と天皇の子の鷦鷯が同日に生まれ、孫の崩が410年だ。交換した子の兄弟の薨が甲午年394年九月九日の16年後、大臣は、同程度の差なら370年代で薨である。大臣生誕の景行三年二月庚寅朔の日干支は間違いの日干支、正しくは、313年生まれと思われ、武内宿禰は死亡が60歳代である。

134年春二月丙寅朔は『後漢書』・『三國志』や『翰苑』にあるように、大倭王が倭を統治した。現地を統治するのは、物部君の祖の夏花で、五十琴宿祢の兄弟の竺志と思われる。しかし、翌年にかけて、「國郡立長縣邑置首」と無理やり國の長を任命した。更に、「山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を定め、邪馬台国を拘奴國王に任せた。そして、拘奴國王は、さらに、夏磯媛から奴国を奪って、125年に『室見川銘版』にある「永宮」を造った。句々廼馳、狗古智卑狗が王名である。しかし、それが失敗で、「桓靈間倭國大亂」が起り、「東度海千餘里至拘奴國」と拘奴國を追い出した。「歴年無主」だったが、邪馬壹國王の厚鹿文が勢力を伸ばした。そして、202年に市鹿文が火國造となり、卑弥呼だ。国境線を引くのに、鏡を使い、良質な漢式鏡が必要だったと思われる。三角縁神獣鏡は国境線を引くのに必要だったと思われる。

190年六月己巳朔己卯に五十琴姫と五十琴彦の政権が倒れ、神功皇后と五十琴宿祢兄弟を後ろ盾にした、五十功彦が継承する。五十功彦は伊勢刑部君と三川三保君の祖で、伊勢女王と三川君の娘を妃にしたと思われる。『舊事本紀』では、景行天皇多遅麻の子の五十狹城入彦が三河長谷部直の祖、倭宿祢が三川大伴部直の祖である。『舊事本紀』は垂仁天皇十市根の子の膽咋、その娘五十琴姫の婿の景行天皇多遅麻の子が五十功彦と記述している。『古事記』では美知能宇志の子の朝廷別が三川の穗別の祖。そして、垂仁天皇と苅羽田刀辨の子の落別は三川の衣の君の祖である。垂仁天皇の子に伊勢女王の倭比賣が存在し、その婿が朝廷別の落別と考えられる。坐王と苅羽田刀辨の子に大俣がいて、意富阿麻比賣に婿入りし、その子が分朝廷した大中日子の曙立多遅麻だった。その子の大枝は、庶妹の銀を妃に大中比賣を生む。膽咋は三川穂國造美巳止の娘を妃にしていて、その子が竹古で、三川蘰連の祖だ。その娘を五十琴彦が妃にしている。したがって、この五十琴彦の娘が五十功彦の妃の可能性がある。

2023年6月21日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期3

 豊木入日子の子、彦狹嶋の父は曙立と考えられる。曙立は倭者師木登美豐朝倉の王、すなわち、淡海国の師木と登美(生駒)と豐と朝倉(?九州の豐の朝倉)の王で、師木玉垣宮の武諸隅大連と考えられる。曙立の父大俣は苅幡戸辨と日子坐の子である。大毘古の子の坐王の義兄弟の建沼河別は建諸偶の妹の大海姫の娘の沼名木之入日賣に婿入りしたと思われる。佐波遲比賣の子は品牟都和氣(大筒木垂根)品遲部君である。建沼河別の姉妹の大伊賀姫の子の大俣(落別)、その子が曙立と思われ、伊勢品遲部君である。

豊木入日子の妹の豐鋤入日賣は水之穗眞若を婿にした。それに対して、豊木入日子は水之穗眞若の姉妹に婿入りするのが慣例だ。それが、水之穗眞若の兄弟の丹波比古多多須美知能宇斯と思われる。したがって、水之穗眞若(大入杵)、神大根(八瓜入日子)、婿の比古多多須と十市根が兄弟である。大中日子は十市根の義兄弟で、尾張國三野別の祖だったが、神大根も三野國の本巣國造の祖でピッタリだ。比古多多須の子は朝廷別、曙立は倭者師木登美豐朝倉の王でピッタリだ。そして、曙立王の大中日子(多遅麻・八瓜入日子)は景行五八年128年に志賀高穴穗宮に逃れた。膽咋宿祢の子の皇后五十琴姫の兄弟達に追い出されたからだ。そして、子の彦狹嶋は都督に任命されたが都督は三国時代からあった。なので、景行五五年の二月戊子朔は244年の説話だったことが解る。

 伊勢斎王すなわち伊勢王女は『古事記』が豐鋤比賣、そして、大帶日子の妹倭比賣、天國押波流岐廣庭の妹の佐佐宜王が記述され、他書にはない。『日本書紀』には雄略期の稚足姫まで記述されない。豐鍬入姫は伊勢と記述せず、「祭於倭笠縫邑」と記述され、倭笠縫邑が伊勢である。倭姫も祭伊勢の直接表現がない。『舊事本紀』は尾張氏朝廷の『古事記』にいない倭迹迹姫、五百野姫、そして雄略朝の稚足姫である。伊勢女王の初出は天照と月読で「伊勢齊大神」だ。そして、建甕槌の婿入り先が伊勢主の娘の賀貝呂姫。伊勢主は「天日鷲命爲伊勢國造」と和珥氏の東征の配下だった。「神風の伊勢」の歌を歌った場所だ。その後、「伊勢齋祠」の倭迹々が継いだ。伊勢麻績君である。倭迹々は大物主神の妃の倭迹迹日百襲姫と『日本書紀』は混同している。すなわち、大物主の建飯賀田須が伊勢大神を継いだ。

その後、大田田根子から豐鋤比賣が継いだ。すなわち、伊勢の品遲部君の曙立王が引き継いだ。そして、垂仁二五年に豐鋤比賣から倭比賣に伊勢宮の女王が交代した。すなわち、豐鋤比賣・大入杵夫妻を祀る志賀高穴穗宮が、倭比賣(阿麻比賣)に主が変わった。五十功彦が伊勢刑部君、纏向日代宮天皇の子で、倭比賣の義兄である。その後は、五百野が継いだ。『古事記』には倭建と吉備臣建日子の妹の大吉備建比賣の子の建貝兒が伊勢の別と記述する。『舊事本紀』には「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と八坂彦の子が伊勢麻績を継いだ。すなわち、五百野は八尺入日子の妃、八坂之入日賣の母と考えられる。吉備臣は小碓の子の帯中日子・吉備上道国造で、小碓の母の伊那毘能大郎女の父は吉備臣の祖の若建吉備津日子である。

 

2023年6月19日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期2

志賀高穴穗宮天皇は志賀高穴穗朝の時、首都がある淡海の国造だった大陀牟夜別である。大陀牟夜別は坐王三世の孫で、淡海国は野洲国でもある。『舊事本紀』で三世というのは、宮の世代のことである。師木宮の父、纏向宮の子、そして、高穴穂宮の三世の孫である。物部氏なら、饒速日、兒宇摩志麻治、三世孫出雲醜大臣、師木から高穴穂宮の世代の大臣なら伊香色雄、大新河、膽咋だ。したがって、一世の祖の日子坐と息長水依比賣の子の近淡海安直の祖の水之穗眞若。水之穗眞若が二世の意富多牟和氣、そして、その子が三世孫である。また、坐王は倭得玉彦、子は弟彦、その子が淡夜別となる。淡夜別は大海部直の祖、すなわち、大国と淡海国の王の祖である。纏向日代天皇多遅麻は景行五八年、128年に志賀髙穴穗朝に逃れた。

志賀高穴穗宮には大連が記述されない。それは、師木玉垣宮武諸隅大連が引き継いで志賀高穴穗宮大連だった可能性が高い。師木玉垣宮武諸隅は朝廷を別けた豊木入日子で、纏向、志賀高穴穗宮はそれを引き継いだ武諸隅がいたと思われる。倭建の妃や子を、『古事記』は記述が大帯日子に、『舊事本紀』が成務期に記述している。これは、纏向日代宮と志賀高穴穗宮が並行して存在したことを示している。実際に、纏向遺跡が230年頃まで、人が住んで、桃の種などを残した証拠が発掘されている。熊襲の反乱記事が景行期に記述され、景行五五年に記述される都督は、中国では三国時代に出現する。卑弥呼と思われる火國造の市鹿文も202年と思われるが景行十二年に記述される。

 志賀高穴穗宮を造ったのは伊勢大神宮を祀った伊勢王女の豐鋤比賣だ。兄は師木玉垣宮天皇豊木入日子である。そして、その婿が能登臣の祖の大入杵と思われる。さらに、豐鋤比賣を継いでいるのは大陀牟夜別、そして、多遅麻が景行五八年に継いだ。豊木入日子の孫が彦狹嶋で東山道十五國の都督、彦狹嶋は「大入來命孫彦狹嶋」と大入杵の孫でもある。大入杵と豐鋤比賣の子と豊木入日子の娘との子が能等国造、後の都督の彦狹嶋である。そして、大入杵と豐鋤比賣の子が大陀牟夜別で、妹の子が彦狹嶋である。そして、大陀牟夜別、すなわち、穴太足尼の娘の比咩古の婿が膽咋宿禰大臣である。穴穂宮の穴穂王なのだから穴太足尼は天皇である。子は磐余稚櫻宮の大連の五十琴宿祢や纏向日代宮天皇妃の五十琴姫、五十琴彦である。穴太足尼は市師宿祢の祖だが、市師は白鳥伝説の皇子が親子で浮かべた池がある土地が市師である。そして、白鳥伝説の皇子の子が仲哀天皇である。

2023年6月16日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期1

  志賀高穴穂宮天皇には『舊事本紀』の天皇である大連が存在しなかった。ところが、纏向珠城宮大連は十市根と大新河、また、磯城瑞籬宮60年に武諸隅が大連になって、纏向珠城宮の時代に大連が三人重なっている。そして、纏向日代宮の大連は武諸隅の子の多遅麻だ。

  十市根の大連就任が垂仁八十一年ではなく、崇神六十八年だったと述べた。すなわち、実際は崇神六十八年「二月壬子朔」に十市根が「賜姓物部連」で大連になった。しかし、崇神六十八年は垂仁即位前年、磯城瑞籬宮天皇が十二月に崩じている。だから、衰弱した磯城瑞籬宮天皇を継承し、そのまま遷都して、纏向珠城宮天皇大連である。また、崇神六十五年、武諸隅が新たに首都の磯城瑞籬宮天皇大連となったが、父の大新河が纏向珠城宮大連で矛盾している。

『舊事本紀』の垂仁二十三年、前7年の「八月丙申朔已亥」に大新河を大臣、更に大連にしたと記述している。この日干支は本来、丙寅で異なり、正しくは紀元前69年と考えられる。また、『日本書紀』は十市根の賜物部大連を記述するが大新河の賜物部大連を記述しない。すなわち、大新河大連は師木玉垣の大連の可能性が高い。それは、大新河も武諸隅も同一の襲名した同じ家系だということだ。さらに、物部氏の武諸隅は尾張氏の建諸隅と同一家系と思われる。それで、新河を襲名した建諸隅と武諸隅を表記文字にした師木玉垣宮天皇大連と考えられる。そして、その大新河を襲名した建諸隅の娘の時姫を十市根が妃にした。それで、建諸隅の子の多遅麻が纏向日代宮天皇大連になった。

 伊迦賀色許賣は二人いて、穂積氏の祖の内色許男の娘と大綜杵の娘である。そして、それに対応した、伊香色雄が存在し、一人は大毘古の大伊賀彦だった。大新河は伊香色雄の子だが、伊香色雄と同世代以前である。そして、伊香色雄は春日宮大臣で、大臣は大国王のこと、大綜杵の子、穂積氏の祖で、神八井耳が祖である。

大臣は建飯勝が高倉下に敗れた懿德天皇の時に出雲醜が奪った。それを、葛木氏の倭志紀彦の義弟と思われる出石心が継ぐ。出石心は孝昭天皇の大臣だが、同じ孝昭天皇の大臣が瀛津世襲である。出石姫は葛木氏で天忍人の妃、瀛津世襲の妹は孝昭天皇の妃で重なる。そして、もう一人孝昭天皇の大臣が存在し、建諸隅である。建諸隅も孝昭天皇大臣で、すなわち出石心イコール瀛津世襲から磯城瑞籬宮大連の武諸隅まで、建諸隅を襲名したと考えられる。すなわち、大臣は穂積氏の祖でもある。

その、建諸隅大臣は娘時姫の子の膽咋が継ぐ。膽咋は志賀高穴穗宮の大臣、志賀高穴穗宮の配下になった。そして、膽咋は穴太足尼、志賀高穴穗宮天皇の娘を妃にした。当然、膽咋の娘も志賀高穴穗宮天皇の妃の可能性が高い。『舊事本紀』は倭建の子を成務紀に記述する。それらの子たちの中に五十琴彦や五十琴姫、五十琴宿祢が存在する可能性が高い。穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子達には矛盾がある。『舊事本紀』には五十琴彦と思われる五十日彦が存在する。『舊事本紀』の稚武彦は、『日本書紀』では弟橘比賣が母の若建、『古事記』には弟財郎女が母の和訶奴氣である。『舊事本紀』には和訶奴氣が存在しない。稚武彦は『古事記』では若建吉備津日子である。

2023年6月14日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇7

  以前、景行12年の熊襲侵攻は成務天皇崩190年で交代した政権の12年の202年の記録と述べた。火国造になった市鹿文・卑弥呼の記録だ。神夏磯媛が(邪馬)()國の魁帥で、魏以前から、伊都国に一大率を置いて檢察したと『三国志』は記述する。伊都は伊襲と呼ばれていて、夏磯は那珂川の那津伊襲姫と考えられる。王が神に仕え、兄弟の男王が統治する。夏磯媛が伊襲国を支配し、一大率でもあったと考えられる。

景行天皇の敵は菟狹の川上の鼻垂、御木(?三毛)の耳垂で『後漢書』「女王國東度海千餘里至拘奴國」だ。内容は、筑紫の説話が、急に、菟狹の説話に飛んで、矛盾している。これは、82年景行十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫」に続く夏磯媛説話は倭国の説話。そして、景行天皇の「熊襲反」は時代が違う説話と思われる。夏磯媛説話は82年の那珂川の説話だ。そして、夏磯媛の子が帥升で、125年の室見川銘版があるように、「永宮」を造った王朝に替わった。夏磯媛が那珂川近辺の須久岡本古墳の被葬者の可能性が高い。

景行十八年の「到筑紫後國御木」の「秋七月辛卯朔甲午」も間違いで、305年と考えられる。『三國志』にあるように、倭国は晋朝に臣従していた。しかし、289年に倭国が帰順し、豊国から「南有狗奴國」と筑後に領域が縮小した狗奴の討伐が、「筑紫後國御木」の記事と思われる。倭国の南の御木から浮羽での戦いで、「狗奴國」が敗れたが、そのあと、日向に向かっている。方向違いだ。景行「十九年秋九月甲申朔癸卯」、これは332年にあたる。394年死亡の品陀和気が日向で誕生したと考えれば、理に適う。そして、景行「五十一年春正月壬午朔戊子」の若帯日子と武内宿禰が「不參赴于宴庭」は338年と考えられる。若帯日子は乙卯年355年に薨じ、この時、武内宿禰は18歳、この功績で内臣の棟梁になり、矛盾はない。成務「三年春正月癸酉朔己卯」は350年で武内宿禰が30歳で大臣になった。景行「五十二年夏五月甲辰朔丁未」、「秋七月癸卯朔己酉」の皇后交代は308年と思われる。若帯日子の前王、薨年318年より前だ。

『舊事本紀』「三十六年八月大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫為妃」と『日本書紀』に記述されない記事がある。纏向天皇多遅麻は「五十琴彦連公女安媛爲妻」と記述されている。高穴穂宮大臣の膽咋宿祢の娘が五十琴姫、日代宮大連の多遅麻が五十琴姫の兄弟の娘を妃にして、矛盾している。すなわち、高穴穂宮と日代宮が同時期に併存していたことが解る。纏向遺跡は230年頃まで人が住んでいた。膽咋宿祢は日代宮皇子で景行三十六年以降に生れた。五十八年に穴太(穴穂)足尼の娘に婿入りし、穴太足尼は穴穂宮の穴穂王なのだから穴穂宮天皇である。多遅麻が纏向天皇なら、分裂した師木大連の武諸遇の後継者が穴太足尼だった。安國造の祖の意富多牟和氣の水穗眞若、娘が布多遲比賣なので、倭建の妃の布多遲能伊理毘賣の父の垂仁天皇だ。そして、その子の大陀牟夜別が志賀髙穴穗朝の時に淡海國造になった、すなわち天皇穴太足尼だ。

2023年6月12日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇6

 倭建説話の元となった説話は豐木入日子の孫の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」の説話と考えられる。景行五十四年秋九月辛卯朔己酉は222年と考えられる。また、景行五十五年春二月戊子朔壬辰も244年と考えられる。244年に彦狹嶋が都督就任して、志賀高穴穂宮朝廷が分裂したようだ。都督は三国時代から始まっている。すなわち、纏向日代宮は豐木の長子の嫁、八瓜の娘が奪った八瓜天皇だ。それで、八瓜の娘と豊木の長子との子が彦狹嶋とわかる。景行天皇が128年に志賀高穴穂へ逃れ、その時、彦狹嶋も逃れたと思われる。そして、222年に「伊勢還於倭居纒向宮」と纏向日代宮に戻ったと思われる。その後、今度は関東に向かい、244年に都督となった。

 同様に、熊襲遠征は、『三国志』にある通り、「桓靈間倭國大亂」と、146年から188年までの間に発生している。すなわち、成務天皇の時代である。景行天皇十二年に「市鹿文賜於火國造」と市鹿文、卑弥呼が火國造になった。もちろん、景行ではなく、仲哀12年にあたる202年である。応神十一年、「日向國有孃子・・・諸縣君牛諸井之女也」の 280年が熊曾建との戦いと思われる。応神十三年、282年の「髪長媛至自日向」が熊曾建との戦いの戦果だ。その結果、応神二十年、289年には「倭漢直祖阿知使主」が「率己之黨類十七縣而來歸焉」と晋の影響下だったけれど、朝廷に帰順した。

 また、出雲建の説話も、出雲臣の説話が額田大中彦の説話の中で「出雲臣之祖淤宇宿禰」が記述される。この時の葛木王が大帯日子で、318年に薨ずる。景行天皇の妃に倭建の曽孫の大中日子の娘がいる。この倭建は沼河別と考えられ、その説話を小碓へと流用したようだ。また、伊久米伊理毘古の娘の布多遲能伊理毘賣が小碓の妃で、伊久米伊理毘古と大帯日子が併存していた。少名日子と十市根と考えられる。

 景行天皇は纏向日代宮大連の多遅麻で、垂仁天皇師木の大連武諸遇の子だ。当然多遅麻は即位時、師木天皇だ。71年、秋七月己巳朔卯己卯に即位して改元した。膽咋宿祢は志賀高穴穗宮天皇の娘を妃にしている。武諸遇の妃は膽咋宿祢の娘の清媛の子だが、多遅麻は師木天皇を志賀高穴穗宮に追い出した。そして、多遅麻は膽咋宿祢に敗れたのだろうか。翌年の景行二年春三月丙寅朔戊辰に五十琴彦の娘の安媛を妃にしたのだろう。そして、74年に師木から纏向日代宮に遷都した。師木は膽咋宿祢が奪い、大臣となり、師木の大縣主となった。膽咋宿祢の兄弟の印岐美が志紀縣主の祖である。 

2023年6月9日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇5

  三年春二月庚寅朔の「遣屋主忍男武雄心」の記事は、間違いの記事である。以前、375年の百濟肖古王薨が神功皇后55年に記述されるので、321年が元年の王を述べた。その王が、この時生んだ、「生武内宿禰」で、「幸于紀伊國」と木国で王位に就いた屋主忍男武雄心大碓の若帯日子だ。『舊事本紀』は倭建を成務期に記述し、若帯日子を大帯日子と見做している。それは、大碓を大帯日子と見做して、子が若帯日子と小碓の双子が生まれたと見做した。すなわち、若帯日子の子が「天皇與武内宿禰同日生」と、同じ日に誕生した。

『古事記』、比古布都押之信と思われる御真木入日子の薨去が戊寅年十二月、318年と述べた。321年は新たな王の3年にあたり、王は若帯日子・屋主忍男武雄心、すなわち、武内宿禰の父である。同じ日に生まれた王は、おそらく、帯中日子で、武内宿禰の兄妹の五百木之入日賣の婿と考えられる。仲哀天皇の妃が『日本書記』では伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄の娘の大中姫だ。しかし、『古事記』では大中比賣は訶具漏比賣の子の大江王の娘で別人である。大江王の娘が葛木氏の帯中日子の妃と考えられる。日子人之大兄の娘の大中姫は景行天皇の孫、大江王の娘は後の景行天皇、皇太弟大中日子の曾孫で応神期、世代が異なる。

すなわち、五百木之入日子は武内宿禰、子が品陀眞若(襲津彦宿祢)である。その娘が品陀和気の妃で、子の若沼毛二俣が継体天皇につながる。五百木之入日子の妃は建稲種の娘の尾綱真若刀婢、建稲種の子は尾綱根、応神天皇大連、天皇である。建稲種は物部氏から見れば軽嶋豊明宮応神天皇印葉大連の妹の山無媛の夫である。娘の八田皇女が皇位を継承し、兄弟の尾綱根が品陀天皇だ。品陀王は363から394年まで王位に就いていた。すなわち、武内宿禰の妃が天皇を退位した大臣尾綱根の娘で、武内宿禰が大臣を継いだ意乎巳である。成務三年春正月癸酉朔己卯、実際のところは、仁徳天皇三八年350年正月癸酉朔戊寅。「八田皇女爲皇后」の翌日である。 

『舊事本紀』には不明な五百木根、弟別がいて、味師内宿禰と考えられる。そして、321年が元年の王の薨去が若帯日子、すなわち、仁徳四三年にあたる、「乙卯年三月十五日」で355年だ。景行廿七年春二月辛丑朔壬子の「東國還」は345年、是年は、321年が元年の王朝の25年である。そして、景行「廿五年秋七月庚辰朔壬午」の「遣武内宿禰令察北陸」を、その321年の7月に当て嵌めた。北陸は「曠之」とはいえず、敵の真只中に視察するのは奇妙である。仁徳天皇五五年の367年の記事に、「蝦夷叛之」の記事があるが、321年が元年の王朝の55年の、375年の事件の可能性もある。

2023年6月7日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇4

  建甕槌の子の建甕依と紀伊國造の娘の孫の阿田賀田須は和迩君の祖である。大物主建飯賀田須の兄弟で、『古事記』の神武天皇は大物主の娘を妃にする。阿田賀田須の母は大倭國民磯姫で、阿田賀田須の子は記述されない。また、孝安天皇の子の建斗禾は紀伊國造の娘を妃に、倭・丹波・但馬王の祖、すなわち、崇神天皇の父の建田背を生んだ。子は建田背と建宇那比、孫は建宇那比の子の建諸隅だ。そして、建宇那比も紀伊國造の娘と思われる節名草を妃にして二男一女、子が建諸隅と大海姫と記述され、一人は記述されない。

大海姫の父の建宇那比は『日本書紀』に大海宿禰と記述する。すなわち、大倭王で、大倭國民磯姫は兄弟か娘である。建宇那比の妹は宇那比姫、兄弟に建手和迩がいる。和迩君の祖が阿田賀田須なので、父の大御氣主が建手和迩の可能性が高い。そうすると、互いに婚姻するので、建宇那比の妃の節名草は大御氣主の娘で大御氣主は城嶋連の祖の可能性が高い。「しきしま」連、師木国の連、師国・木国の王族で、建諸隅が和迩氏を継いだと思われる。

天皇は大倭根子、そして、それを継いだのが、大毘古・大臣・大縣主の伊香色雄と大伊賀彦の比古由牟須美、子の沼河別の大筒木垂根と葛木朝廷である。それに対して、尾張氏の倭得玉彦、沙本毘古や丹波道主の弟彦兄弟の朝廷が分裂して、建諸隅の淡夜別へと継承したと考えられる。淡夜別は近淡海安直の祖の息長水依比賣の子の水穗眞若の大入杵の子と考えられる。水穗眞若は安國造の祖の意富多牟和氣も同じ人物の大入杵と思われる。

安國造・安直は近淡海の志賀の高穴穗宮で統治した王で、大陀牟夜別は志賀宮で淡海國造になった、すなわち天皇で、坐王の三世の孫だ。この三世の意味は、一世師木水垣宮の坐王の倭得玉彦。二世玉垣宮王意富多牟和氣の弟彦。三世高穴穗宮王大陀牟夜別の淡夜別の三世代の意味である。息長水依比賣は建諸隅の妹の意富阿麻比賣である。水穗眞若の弟が神大根の八瓜入日子、大碓が娘を妃にしている。しかし、これは、膽咋宿禰の説話と考えられ、妃の穴太足尼は首都の高穴穗宮の王を意味する。大入杵は伊勢大神を祀る豐鋤比賣に婿入りして、子が志賀宮天皇になった。柴野に遷った大入杵、柴野入杵の娘柴野比賣は景行天皇大中日子の妃になっている。大中日子は十市之入日賣の兄弟の八瓜日子と証明した。すなわち、景行天皇多遅麻は武諸遇の妹の子で娘婿となったと思われる。

豐木入日子は、大毘古・大伊賀彦の比古由牟須美の子の建沼河別と考えられる。母は遠津年魚目目微比賣、遠津臣は息長宿禰の母親、神話の物部氏の神の天狹霧の娘だ。すなわち、息長水依が義母、水穗五百依比賣・沼名木之入日賣の夫と考えられる。

2023年6月5日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇3

   景行天皇多遅麻大連に対し、葛木氏は大田田祢古の義弟にあたり、大田田祢古は大直祢古(根子)とも呼ばれる。鴨部美良姫の子、天日方奇日方の妃の賀牟度美良姫の後継者だ。大田田祢古は根国の天子で、兄弟が箸墓伝説の大物主の妃の倭迹迹姫の子だ。大田田祢古は葛木氏の伊香色雄から大直・大国王を奪ったようだ。倭迹迹姫は天日方奇日方の娘の渟中底姫の後継者、尾張氏の姫だ。しかし、倭迹迹姫は『古事記』には存在しない。代わりに、少名日子建猪心が記述される。倭迹迹姫は大物主妃なので、その娘に婿入りしたのが少名日子建猪心と考えられる。少名日子建猪心は天皇(大臣大毘古)の母弟、孝元天皇の妹に婿入りした。すると、倭迹迹姫を襲名した人物は夜麻登登母母曾毘賣の姉妹と考えられる。そこには、夜麻登登母母曾毘賣の弟として記述される。したがって、弟が少彦男心(少名日子建猪心)なので、比古伊佐勢理毘古、大吉備津日子と同一視している。少彦は吉備小国の王で、比古伊佐勢理毘古は吉備上道臣の祖だ。義弟の若日子建吉備津日子の娘の針間之伊那毘能大郎女は大帯日子の妃で、子の小碓は帯中日子の父である。

 子の説話は三野國造の祖の大根王の娘の兄比賣と弟比賣の説話で、大碓と弟比賣の子が弟日子だ。弟比賣の父は八尺入日子なので、大根王でもある。すなわち、弟比賣が八坂之入日賣で大帯日子の妃である。大帯日子の子の大碓の妃が大帯日子の妃と矛盾している。そして、大碓は美濃を与えられて、弟日子が応神天皇の時に美濃の国造を追認された。それは、大根王が崇神朝に美濃前国の国造で、その子孫が弟日子だ。兄の兄彦が吉備と思われる下道の国造、若日子建吉備津日子の末裔だ。中彦、恐らく帯中日子が上道の国造で、大吉備津日子の末裔である。ともに応神期に国造になっている。

すなわち、この大碓説話は大帯日子の説話ではない。応神天皇の頃の説話である。比古布都押之信が尾張連等の祖の、竟富那毘の妹の葛城之高千那毘賣に婿入りした説話と考えられる。代々の比古布都押之信は孝元期に若建吉備津日子の娘の、針間之伊那毘能大郎女に婿入りして分家(少名日子建猪心)。そして、開化期に大綜杵大臣の娘の伊迦賀色許賣に婿入りした(伊香色雄)。崇神朝には大伊賀彦の娘の御眞津比賣を妃にした(十市根)。子の膽咋宿禰は穴太足尼の娘の比咩古に婿入りして屋主忍男武雄心(若帯日子)の大碓である。大碓は八坂入姫と弟姫を妃にした。八坂入姫の子は兄彦(意乎巳・建内宿禰)と弟姫の子は弟彦(味師内宿禰・三野国造)、そして、娘が息長帶比賣(?五百木之入日賣)である。若帯日子の大碓は355年乙卯年三月十五日に薨じた。屋主忍男武雄心の父の襲名した比古布都押之信の御真木入日子は318年仁徳六年戊寅年の十二月に薨じた。応神期に子の大碓が野洲王、孫の兄彦が大臣・大国・吉備・播磨王、弟の弟彦は三野國造になった。そして、大碓が大帯日子なら、小碓の妃は伊那毘能大郎女の妹の伊那毘能若郎女を妃にしたと考えられる。子の日子人之大兄の娘の帯中日子の妃で吉備上道、仲国の王になった。

2023年6月2日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇2

  出雲色多利姫の姉妹の沙麻奈姫の子の建甕槌は出雲を譲らせ、義兄弟の出雲醜臣が丹波大国を得た。君子国が分裂して、出雲醜が倭志紀彦の妹の真鳥姫を妃にして手にした、師木を含めた、丹波大国が一つ。そして、もう一つは建甕槌が伊勢主の娘を妃にした八()国で、伊勢主となった。これが大臣の始まりで、大臣の祖の神八井耳の子孫にあたる。すなわち、君子国は丹波を物部氏に盗られて、尾張氏の力で伊勢に遷った。

この時、一部が神寶を持って現在の出雲に逃れた可能性が高い。すなわち、倭志紀彦の妹が大臣の地位を継承させた、倭志紀彦の叔父が君子国王の子の神八井おそらく建飯勝と思われる。これが、神八井耳の国譲りである。それで、大神を分祀して、懿徳皇后の渟中底姫の子の倭志紀彦、磯城津彦が、現在の出雲に宮を造ったとおもわれる。すなわち、大倭根子懿徳から倭志紀彦と出雲大臣、さらに、根子の劔根、淡道御井宮()の和知都美孝昭天皇である。

さらに、出雲醜の義兄弟の御眞津日子(出石心)が大臣を継承した。御眞津日子の兄弟に渟中底姫の子の多藝志比古が記述され、義兄弟の出雲醜なのだろう。出雲醜は磯城津彦とも義兄弟である。御眞津日子は天忍人の妃の葛木出石姫の父と思われる。そして、建甕槌の子の豊御氣主が紀伊名草姫を妃にし、孫が阿田賀田須で、和迩君の祖だが、子は記述されていない。すなわち、阿田賀田須は紀伊(木国)に婿入りし、木国造が和迩君の祖と考えられる。天押日子は伊勢飯高君の祖、すなわち、伊勢君の土地を奪取した。

また、建諸隅も祖母が紀伊國造智名曽の妹の中名草姫で、和迩臣の祖である。和迩臣の祖の景行天皇多遅麻は師木宮天皇の物部武諸遇の子である。すなわち、倭得玉彦もやはり建諸隅を襲名した和迩臣の祖で、大田田祢古は従弟にあたる。そして、大田田祢古も伊勢でも出雲でもない、河内に居た。

大田田祢古は大神の地位を得て、君子国を引き継ぐ出雲神門臣の娘の美氣姫を妃にして、出雲を手に入れた。神門は「みかど」で、天皇を自称した証拠だろう。それが、前38年の「出雲臣之遠祖出雲振根主」の神寶入手の説話と思われる。舉津別の白鳥伝説は出雲で捕らえたと記述するが、但馬だったと述べるように、垂仁紀でも、出雲は但馬にあった。垂仁紀末に田道間守が非時香菓を求め、それが、石見に自生していて、仲国まで勢力を拡げた。大中彦朝廷だ。

景行天皇多遅麻大連は仲国まで勢力を拡げたので、多遅麻と呼ばれた可能性が高い。そして、大田田祢古の子の大御氣持が前28年「阿羅斯等」説話の以前、前38年以降に出雲鞍山祇姫、すなわち、出雲振根主の娘に婿入りして出雲が大国の領域になったと思われる。この説話が神話以外の出雲國の初出である。鞍山祇は『伊未自由来記』に記述され、子の沖津久斯山祇が隠岐の神になった。伊弉冉の出身地である。現在の出雲は崇神期の頃は日国の配下の鞍山祇の領地だった。国譲りによって、但馬から日国を頼って、今の大社町に宮を造ったと思われる。