2023年6月16日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期1

  志賀高穴穂宮天皇には『舊事本紀』の天皇である大連が存在しなかった。ところが、纏向珠城宮大連は十市根と大新河、また、磯城瑞籬宮60年に武諸隅が大連になって、纏向珠城宮の時代に大連が三人重なっている。そして、纏向日代宮の大連は武諸隅の子の多遅麻だ。

  十市根の大連就任が垂仁八十一年ではなく、崇神六十八年だったと述べた。すなわち、実際は崇神六十八年「二月壬子朔」に十市根が「賜姓物部連」で大連になった。しかし、崇神六十八年は垂仁即位前年、磯城瑞籬宮天皇が十二月に崩じている。だから、衰弱した磯城瑞籬宮天皇を継承し、そのまま遷都して、纏向珠城宮天皇大連である。また、崇神六十五年、武諸隅が新たに首都の磯城瑞籬宮天皇大連となったが、父の大新河が纏向珠城宮大連で矛盾している。

『舊事本紀』の垂仁二十三年、前7年の「八月丙申朔已亥」に大新河を大臣、更に大連にしたと記述している。この日干支は本来、丙寅で異なり、正しくは紀元前69年と考えられる。また、『日本書紀』は十市根の賜物部大連を記述するが大新河の賜物部大連を記述しない。すなわち、大新河大連は師木玉垣の大連の可能性が高い。それは、大新河も武諸隅も同一の襲名した同じ家系だということだ。さらに、物部氏の武諸隅は尾張氏の建諸隅と同一家系と思われる。それで、新河を襲名した建諸隅と武諸隅を表記文字にした師木玉垣宮天皇大連と考えられる。そして、その大新河を襲名した建諸隅の娘の時姫を十市根が妃にした。それで、建諸隅の子の多遅麻が纏向日代宮天皇大連になった。

 伊迦賀色許賣は二人いて、穂積氏の祖の内色許男の娘と大綜杵の娘である。そして、それに対応した、伊香色雄が存在し、一人は大毘古の大伊賀彦だった。大新河は伊香色雄の子だが、伊香色雄と同世代以前である。そして、伊香色雄は春日宮大臣で、大臣は大国王のこと、大綜杵の子、穂積氏の祖で、神八井耳が祖である。

大臣は建飯勝が高倉下に敗れた懿德天皇の時に出雲醜が奪った。それを、葛木氏の倭志紀彦の義弟と思われる出石心が継ぐ。出石心は孝昭天皇の大臣だが、同じ孝昭天皇の大臣が瀛津世襲である。出石姫は葛木氏で天忍人の妃、瀛津世襲の妹は孝昭天皇の妃で重なる。そして、もう一人孝昭天皇の大臣が存在し、建諸隅である。建諸隅も孝昭天皇大臣で、すなわち出石心イコール瀛津世襲から磯城瑞籬宮大連の武諸隅まで、建諸隅を襲名したと考えられる。すなわち、大臣は穂積氏の祖でもある。

その、建諸隅大臣は娘時姫の子の膽咋が継ぐ。膽咋は志賀高穴穗宮の大臣、志賀高穴穗宮の配下になった。そして、膽咋は穴太足尼、志賀高穴穗宮天皇の娘を妃にした。当然、膽咋の娘も志賀高穴穗宮天皇の妃の可能性が高い。『舊事本紀』は倭建の子を成務紀に記述する。それらの子たちの中に五十琴彦や五十琴姫、五十琴宿祢が存在する可能性が高い。穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子達には矛盾がある。『舊事本紀』には五十琴彦と思われる五十日彦が存在する。『舊事本紀』の稚武彦は、『日本書紀』では弟橘比賣が母の若建、『古事記』には弟財郎女が母の和訶奴氣である。『舊事本紀』には和訶奴氣が存在しない。稚武彦は『古事記』では若建吉備津日子である。

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