2023年6月28日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仲哀天皇

  192年正月庚寅朔庚子に五十功彦が多遅麻大連を襲名して即位した。九月丙戌朔の「尊母皇后曰皇太后」は347年に「磐之媛命薨」で皇后が交代し、磐之媛を皇太后として尊んだと思われる。十一月乙酉朔の「神靈化白鳥而上天」も347年で、品陀和気の父と母が同時に崩じた可能性がある。「武内宿禰爲大臣」は350年、この時の葛木当主は若帯日子で、任命した天皇は武内宿禰の義妹の息長帯日売で、皇太子が品陀和気、甥と考えられる。

物部氏の朝廷の輕嶋豐明宮天皇は印葉だが、さらに、品太天皇の大連も存在する。尾綱根である。そして、その後、伊莒弗が「稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」と稚櫻朝が続いた。そして、難波朝の大連は存在しない。難波朝天皇は大別大臣・大雀で「丁卯年八月十五日崩」と427年に崩御している。すなわち、411年まで、五十琴宿祢と伊莒弗が稚櫻宮、そして、柴垣宮で朝廷が続いていた。そして、それと並行して、輕嶋豐明宮・難波高津宮が存在し、427年まで続いたと考えられる。

『後漢書』に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」と市鹿文と戦った相手の拘奴国と朝廷も戦った。その時の邪馬台国の宗主の大倭王は物部君だった。邪馬台国王の熊襲梟帥は『室見川銘版』の那珂川「永宮」にいて、大倭王は市鹿文と香椎宮にいた。神功皇后は193年に角鹿笥飯宮を出発して、穴門豐浦宮に入った。穴門豐浦宮が熊襲との戦いの最前線基地である。関門海峡を支配するのが拘奴国王である。そして、199年、拘奴国を『三國志』に「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と肥後に領地が縮小した。勝利した神功皇后は「周芳沙麼之浦」にいて、負けた、拘奴国王配下の遠賀川の河口の王の熊鰐がやってきた。そして、筑紫香朝の時に伊香色男の孫、膽咋の弟の印播足尼、すなわち、久奴直の祖の大小木が、拘奴国に代わって、拘奴(久努・周芳)国造となった。さらに、十二月癸巳朔丁酉は206年、卑弥呼「市鹿文」を火(日・筑紫)国造とし、大倭王は筑紫香朝の天皇の五十功彦である。物部君の祖の夏花は五十琴彦達の兄弟の竺志と考えられる。

大臣武内宿禰自穴門還之」は、この時期の大臣は膽咋宿禰で、五十功彦を暗殺し、子の五十琴宿祢が皇位を奪取した。膽咋宿禰の娘の五十琴姫は多遅麻と、多遅麻の娘の香兒媛は膽咋宿禰と代々婚姻したと思われる。そして、五十琴姫の子の多遅麻を襲名した五十功彦の妃も膽咋宿禰の娘の五十琴姫だった。膽咋宿禰は五十功彦を殺害し、大中日女の子の太子忍熊も殺害した。多遅麻の娘の子の五十琴宿祢はまだ生まれたばかりだったので、祖母の五十琴姫が摂政となったと思われる。

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