2023年6月19日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期2

志賀高穴穗宮天皇は志賀高穴穗朝の時、首都がある淡海の国造だった大陀牟夜別である。大陀牟夜別は坐王三世の孫で、淡海国は野洲国でもある。『舊事本紀』で三世というのは、宮の世代のことである。師木宮の父、纏向宮の子、そして、高穴穂宮の三世の孫である。物部氏なら、饒速日、兒宇摩志麻治、三世孫出雲醜大臣、師木から高穴穂宮の世代の大臣なら伊香色雄、大新河、膽咋だ。したがって、一世の祖の日子坐と息長水依比賣の子の近淡海安直の祖の水之穗眞若。水之穗眞若が二世の意富多牟和氣、そして、その子が三世孫である。また、坐王は倭得玉彦、子は弟彦、その子が淡夜別となる。淡夜別は大海部直の祖、すなわち、大国と淡海国の王の祖である。纏向日代天皇多遅麻は景行五八年、128年に志賀髙穴穗朝に逃れた。

志賀高穴穗宮には大連が記述されない。それは、師木玉垣宮武諸隅大連が引き継いで志賀高穴穗宮大連だった可能性が高い。師木玉垣宮武諸隅は朝廷を別けた豊木入日子で、纏向、志賀高穴穗宮はそれを引き継いだ武諸隅がいたと思われる。倭建の妃や子を、『古事記』は記述が大帯日子に、『舊事本紀』が成務期に記述している。これは、纏向日代宮と志賀高穴穗宮が並行して存在したことを示している。実際に、纏向遺跡が230年頃まで、人が住んで、桃の種などを残した証拠が発掘されている。熊襲の反乱記事が景行期に記述され、景行五五年に記述される都督は、中国では三国時代に出現する。卑弥呼と思われる火國造の市鹿文も202年と思われるが景行十二年に記述される。

 志賀高穴穗宮を造ったのは伊勢大神宮を祀った伊勢王女の豐鋤比賣だ。兄は師木玉垣宮天皇豊木入日子である。そして、その婿が能登臣の祖の大入杵と思われる。さらに、豐鋤比賣を継いでいるのは大陀牟夜別、そして、多遅麻が景行五八年に継いだ。豊木入日子の孫が彦狹嶋で東山道十五國の都督、彦狹嶋は「大入來命孫彦狹嶋」と大入杵の孫でもある。大入杵と豐鋤比賣の子と豊木入日子の娘との子が能等国造、後の都督の彦狹嶋である。そして、大入杵と豐鋤比賣の子が大陀牟夜別で、妹の子が彦狹嶋である。そして、大陀牟夜別、すなわち、穴太足尼の娘の比咩古の婿が膽咋宿禰大臣である。穴穂宮の穴穂王なのだから穴太足尼は天皇である。子は磐余稚櫻宮の大連の五十琴宿祢や纏向日代宮天皇妃の五十琴姫、五十琴彦である。穴太足尼は市師宿祢の祖だが、市師は白鳥伝説の皇子が親子で浮かべた池がある土地が市師である。そして、白鳥伝説の皇子の子が仲哀天皇である。

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